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〈識者が見つめるSOKAの現場〉 寄稿 「水俣に生きる」を巡って㊤ 2023年3月29日

  • 東京大学大学院 開沼博 准教授

 学会員の「価値創造の挑戦」を追う連載「SOKAの現場」では、「水俣に生きる」をテーマに、取材ルポを2回にわたって掲載した(2月4日、9日)。それに連動して、社会学者の開沼博氏が、ルポの現場となった熊本県の水俣を1月下旬に訪れ、学会員を取材した。“公害との戦いの原点”の地と呼ばれる水俣で、苦闘を乗り越えて生き抜く人々の強さの原動力とは――。開沼氏が考察した「寄稿」を、上下に分けて掲載する。(㊦は30日付で掲載予定)

世界に先んじて

 1945年から現在までの戦後社会には、1970年ごろに一つの線を引くことができます。この前と後とで、いろいろなことが切り替わったわけです。
 70年代以前は、高度経済成長と人口急増、科学技術の発展と工業化が進み、あらゆる生産力が上がり続けていました。政治面でも、先進国を中心に民主主義が拡大・定着した。「自分たちが進んでいる道は正しい」「社会は良くなっている」という感覚が、社会全体で共有されていた時代でした。
 
 しかし、70年前後になると、人類は大きな壁に突き当たることになります。例えば、オイルショックが起きました。72年にはローマクラブが「成長の限界」を発表し、地球の資源は有限であると世界に警鐘を鳴らしました。
 さらに象徴的なのは、「公害」が世界的な問題として浮上したこと。経済成長の有限性と、科学技術の発展が私たちを絶対的に幸せにするという価値観に対する、反省を突きつけました。それ以降、環境や地域の持続可能性への視点が生まれ、今日のSDGsに見られる意識へとつながっていきます。
 
 例えば日本でも、70年代以前の社会問題は「貧困」が焦点でした。資本家と労働者の間に引かれた線を崩して、「労働者階級」の立場を逆転させていくことを主眼とした、60年代の学生運動はその象徴です。貧しさを克服すれば、社会は良くなるというのが前提だったわけです。
 しかし70年代以降になると、階級だけではなく地域の間にある格差も自覚されていきました。田中角栄の「日本列島改造論」も、その頃です。世界を見ても、第三世界をどう包摂していくかというように、問題の設定そのものが変わっていきました。
 
 これらを念頭に置くと、水俣が、いかに世界に先んじて、人類全体の課題に向き合わされたかが分かります。水俣病の第1号患者は53年に発病し、56年には公式に水俣病が確認されています。
 経済成長や科学の発達が“良いもの”と信じて疑われなかった時代に、その負の側面を背負わされたのが水俣だったわけです。70年代以降に世界が意識し始めていく問題が、先んじて集約された場所であったということができます。

複雑さと重層性

 水俣で最初にお会いした一人が坂本直充さんです。
 
 <坂本さんは28歳で入会。水俣病資料館の館長を務め、水俣病の現実を伝える「伝え手」となって活動するなど、故郷に尽くす>
 
 坂本さんは6歳まで歩くことができず、言葉も出にくいなど、地域にいた胎児性水俣病患者と似た症状があったものの、認定申請はしなかったといいます。父や親族の多くが水俣病の原因企業に勤めていたこともあり、坂本さん自身、公害被害の現実を引き受けることができなかった、と。
 症状がありながらも認定申請をできずにいたこと自体、世間が形づくってきた水俣のイメージ――“患者と原因企業との対立”“補償を受ける人と受けない人との分断”といった構図では捉えきれない、水俣の重層性を映し出しているように思えます。
 
 水俣では、障がい者としての差別のみならず、社会的な差別が加わります。さらに「水俣=支援を受ける地域」という枠組みがそれを固定化する。しかし、坂本さんは、その枠の範疇にとどまらず、「どうすれば水俣が生まれ変われるか」を考え続けてきた。
 外部からさまざまな人・組織が入ってきて、「水俣病患者をどうするか」には尽力しても、「水俣をどうするか」には思いをはせてくれなかった。その中で、坂本さんは創価学会に入会します。人の幸福と地域の繁栄を目的とする学会の活動が、水俣の未来を見つめる自身の生き方と合致した。「社会に働きかける宗教だからこそ、入会を決めました」と語っていました。
 生命の尊厳が、水俣において侵された。だからこそこの地から、生命尊厳の思想を根付かせていく――これが、信仰で培った坂本さんの信念です。水俣だからこそ、世界を変えていく使命がある、と。
 
 坂本さんが、私の本を何冊も読んで、取材に臨んでくださったのが印象的でした。多くの本を読み、自ら詩を詠んで詩集を出版しています。「水俣の人たちの人生は、暗い側面だけではない。どん底から這い上がってきた、輝くような人生があります」。ご自身の生き方が、まさにその言葉を体現していました。
 
 坂本さんと一緒にお会いしたのが、德冨晋一郎さんです。
 
 <德冨さんは水俣市役所で患者認定の申請窓口などを担当。人と人をつなぎ直す「もやい直しセンター」の副館長も務め、退職した今も地域づくりに励む>
 
 水俣で生まれ育った德冨さんですが、必ずしも水俣病が身近ではなかったといいます。これも重要な話です。外から押し付けられる「水俣」の紋切り型のイメージよりも、内側に広がる風景は、もっと豊かであるのは当然のことですから。
 そんな德冨さんが、市の若手職員として水俣病資料館の設立準備に携わり、患者や患者家族と接する機会を得る中で、水俣に対する偏見がまだまだ根強く、多くの人が苦しんでいる現実を、初めて目の当たりにして変わっていった。
 
 坂本さんも德冨さんも、同じ水俣の出身でありながら、水俣病に対する捉え方も、距離感も、全く異なっていました。この複雑さ、多様さが水俣の現実です。
 一方で、二人はそれぞれで、水俣病への視点と向き合い方を深め、共に地域社会への貢献に汗を流すようになった。二人の志が交差したのが、学会という場でした。
 「学会の中には差別も分断もなかった」と、坂本さんと德冨さんは語っていました。座談会に行けば、患者の人たち、原因企業に勤める人たち、市役所の職員らが、一緒に語り合っていた、と。人と人との絆を取り戻そうと奮闘してきた、二人の活動の根底には、学会での触発が原動力としてあることが分かりました。
 
 二人が、地域への貢献を「使命」と捉えていたのも印象的でした。人生の重要事として自ら位置付けているからこそ、水俣病患者の支援にとどまらず、目の前にいる人を大事にし、その幸福に尽くすというところまで、考えや行動が至る。そういう人たちが無数にいることが、水俣が苦しみを乗り越えて、新たな姿を見せる原動力になっていったのだと感じました。

開沼准教授㊨が坂本直充さん㊥、德冨晋一郎さんと
開沼准教授㊨が坂本直充さん㊥、德冨晋一郎さんと
宿命転換の実証

 水俣の学会員にとって、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の提案で1月24日を「水俣の日」として定め、毎年、この日を目指して進んできたことは、大きな励みになってきた。下鶴康治さんも、そう実感を込めて語ってくれました。
 
 <下鶴さんは大学卒業後、東京から故郷・水俣へ戻った。水俣圏長を長年、務め、現在は圏総主事>
 
 生まれ育った水俣で、住民がいがみ合う姿を間近に見てきたと、下鶴さんは言います。地元では学会のリーダーを務めました。水俣の学会員は皆、第2次宗門事件でも信心を貫いたという証言は印象的でした。
 水俣の学会員の結束の強さを物語るエピソードとして聞きましたが、公害という苦悩の中で励まし合い、地域に根差した活動を際立って続けてきたことも背景の一つにあるのでしょう。
 
 毎年の目標点として、「水俣の日」が制定されている。池田会長が、「20年後、50年後、百年後に、水俣がどうなっていったかを見続けていくことは、日本の全国民の義務でもあります」と語ったことによって、この日が「宿命転換」の実証を繰り返し示す日であり、「水俣の人たちのための日」だけではないという意味がもたらされています。
 
 水俣病との対峙の歴史は、戦後あるいはそれ以前からの、際限なき経済成長を目指してきた社会の負の側面が集約された物語です。それは日本社会、そして世界が、今後のあり方を捉え直すべき機会となる価値をもちます。
 水俣から、文明の近代化の反省に向き合っていく。社会に求められたその態度を、地に足をつけながら、信仰の中で具体化させ、普遍化させていった学会のあり方が見えました。

下鶴康治さんの取材
下鶴康治さんの取材
人々の多様な生き方と
地域の魅力を輝かせる

 患者の筆舌に尽くせぬ苦労に加えて、水俣には、世界のどこにも先例がない不条理の中に置かれたというその事実自体が、さらなる苦しみとしてのしかかってもきました。
 
 例えば、後に他の地域で起きた公害の名前に、「水俣」という言葉が付いたことや、「水俣=水俣病」のイメージで語られ続けてきたことは、その典型です。
 水俣市は、日本で初めて「環境モデル都市づくり宣言」を行うなど、日本を代表する環境先進地です。にもかかわらず、「水俣=水俣病」のイメージが勝ってしまう。訪れる人の多くが、「水俣病の水俣」だけを見て帰ろうとする。無責任なメディアや学者も、それを無理解の中で再生産する。問題の複雑さに目を向けず、“分かりやすいメッセージ”が先走ってしまう様子は、東日本大震災・原子力災害の被災地である福島でも見てきました。
 
 現実には、水俣の人たちの生き方は千差万別でしょう。地域としての水俣には、海と山に囲まれ、おいしい魚が取れ、良い温泉があるというような、多くの魅力が詰まっている。そうした、水俣の重層構造が健全に、生き生きと保たれる場があり続けること。これが不条理を乗り越えるための基盤となります。
 
 イギリスの社会学者ギテンズは、「脱埋め込み」という概念を提唱しています。社会が成熟するにつれて、地域の伝統的な文脈の中に「埋め込まれて」いた人たちが、しがらみから抜け出し、個人のアイデンティティーを模索していこうとする、と。
 まさに70年代以降に、この「脱埋め込み」が大きく加速する中で、水俣の人たちの中には、あるいはその地域自体が、政治や司法の争いの“表看板”にさせられて、外からつくられた「水俣」というアイデンティティーに“埋め込まれて”いった部分もありました。
 
 その中で、「信仰」を自らのアイデンティティーとした学会員が、「水俣」という、重苦しくネガティブであるほど注目を浴びることにもつながったであろうアイデンティティー化の潮流とは距離をとりつつ、それを相対化し、また別の「水俣」のあり方を模索する生き方をしてきた姿が垣間見えました。
 
 当事者研究の熊谷晋一郎氏(小児科医、東京大学先端科学研究センター准教授)が、障がい者など支援される立場にある人の自立とは「依存先を増やすこと」だと言いましたが、それと似て、「支援されること自体をアイデンティティーとはせず、アイデンティティーを軽やかに分散すること」を助けてきたのが、信仰であったということです。
 一つのアイデンティティーに一極集中して、生活や人間関係の全てがそこに費やされる生き方ではなく、信仰という揺るぎないアイデンティティーを持ちながら、その基盤の上に、職業上の役割、地域での立場、価値観といった多様なアイデンティティーを、発揮させていく。そうした学会員の生き方が、作家の石牟礼道子氏をして、「今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。創価学会のほかは、患者さんに係わることができなかった」(『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』河出書房新社)と言わしめたように、水俣の復興の一側面を支えてきた様子を見ることができました。

今年で50回目の節を刻んだ「水俣友の集い」(1月21日、水俣文化会館で)。水俣の同志は毎年の集いを原動力として前進してきた
今年で50回目の節を刻んだ「水俣友の集い」(1月21日、水俣文化会館で)。水俣の同志は毎年の集いを原動力として前進してきた

 かいぬま・ひろし 1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学大学院情報学環・学際情報学府准教授。専門は社会学。『漂白される社会』『日本の盲点』など著書多数。

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 ファクス 03-5360-9613

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