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“昭和の男”の定年後「余生ではなく“与生”です」 2020年3月14日

  • 連載〈ライフウオッチ 人生100年時代の幸福論〉

  
 中学を卒業してすぐに町工場で働いた。
 その後、萩原竹男さん(69)=茨城県土浦市、副圏長=は、さまざまな業種に転職し、“モーレツ社員”として駆け抜けた。
  
 そんな“昭和の男”が生きる、定年後とは――。(記事=掛川俊明、野田栄一 写真=中谷伸幸)
  

  
 茨城県の田舎で育った。
 兼業農家の実家は貧しく、高校に行く選択肢はなかった。
 周りの多くの友人同様、中学卒業後は東京の町工場に就職。当時は東京オリンピックの好景気で、小さな町工場にも活気があった。
 旋盤でバネを作る工員に。流した汗の分だけ、給料が上がった。
  
 21歳で結婚した妻が創価学会員だった。
 「人生は自分の力で切り開くもの。僕に宗教は必要ない」と何度も断ったが、妻の家族の人柄に引かれて、形だけ入会した。
  
 しかし、挙式の10日後、妻が倒れた。「膠原病」。毛細血管が切れて体中が紫色に。歯茎からも血が流れ、体内に幾つもの出血があった。
 2カ月後、妻が旅立つ。「周りの景色が全て鉛色に見え、何を食べても味がしなくなった」。幸せの絶頂だったのに。現実を受け止められず、生きる意味を見失った。
  

  
 男子部の先輩が、何度も訪ねて来てくれた。「宿命を転換するのが信心なんだ」。毎回、真剣にそう語る先輩は、事故で右脚をなくし、義足だった。
 自宅はアパートの2階。「カチッ、カチッ」。階段を上る義足の音が聞こえるたびに、熱いものが込み上げた。
  
 「宿命」の2文字が頭から離れなかった。
 “祈ってみよう”。妻が遺した御本尊に向かう。池田先生の書籍も読む。ある日、次の一節が目に留まった。
  
 〈いかなる沈痛な日々がつづいても 君よ 生きて生きて生きぬくことを 第一義の信条として 此の身に粉飾なく 人生を送ってもらいたい〉
  
 その言葉だけ、光っているように見えた。涙があふれる。
 それからは、学会活動に真剣に励むようになった。
 やがて、東京の書籍販売の会社に転職。数年後、両親の勧めもあり、故郷に戻って同業の茨城県の会社に移った。
  

  
 当時、製造業から営業マンになる人は少なかった。
 それでも将来を見据え、作業着からワイシャツ姿に転じた。全く勝手の違う仕事に面食らった。毎晩、鏡の前でネクタイを何度も締め直し、商談の練習もした。
  
 仕事がどれほど忙しくても、学会活動は一歩も引かなかった。
 創価班1期生として戦い、圏男子部長として活躍。1976年(昭和51年)の茨城郷土文化祭、82年の“厳寒の茨城指導”で池田先生との出会いを結ぶ。
 その間、28歳の時に妻・久子さん(66)=婦人部副本部長=と結婚し、2人の子どもが生まれた。
  
 しかし、仕事は安定しなかった。
 事務用品の販売会社で働いていた頃、筑波研究学園都市の営業先で、世に出始めたばかりのパソコンの話を聞いた。“必ずパソコンの時代が来る”と独学で勉強を始める。
 すると、パソコン販売の会社から声が掛かった。転職し、パソコンの法人向け営業を担う。
 「筑波の研究機関に、最初にマッキントッシュを納品したのは、僕じゃないかな(笑い)」
  

  
 時代を追うごとに、社会の変化は加速していた。対応できない企業は業績が落ち、「結果、自分のように学歴のない人間は追いやられる」。
 だから、アンテナを張って時代を読み、常に新しい知識やスキルを貪欲に求めた。
  
 パソコン事業の立ち上げから携わり、事務所の開設、社員の採用も担い、事業所を三つに拡大した。
 しかし、98年(平成10年)、不況のあおりを受け、会社は事業の撤退を決める。自分で採用し、一緒に働いてきた部下たちに「解雇通告」を言い渡す役目。身を切られるようだった。
  
 面談の際に、部下の一人から「萩原さんは、どうするんですか?」と聞かれた。思わず「僕も明日からハローワークに通うよ」と。自ら退職を決めた。
 48歳での失業。子どもたちはまだ高校生で、家のローンもあった。涙を流す妻を見て、不安で足が震えた。
  

  
 夫婦で御本尊に向かう。
 まずは、解雇した部下たちの職探しに奔走した。取引先を回り、毎日、頭を下げた。一人また一人と再就職先が決まった。
  
 最後に残った3人も、ある商社が迎え入れてくれた。
 “あとは自分だけだ”と思っていたところ、その商社の人事担当から連絡が入る。「あなたも、採りたい」
 3月末に退職し、4月1日から1日も空かずに新しい仕事を始めることができた。
  
 ずっと後になって、その人事担当から「あれだけ部下のために動ける人なら、うちの仕事を任せられると思ったんです」と聞かされた。
 「『人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし』(御書1598ページ)って、こういうことかって膝を打ちました」
  
 その後も決して順調ではなかった。採用されたものの、契約社員。なのに、用意されたのは、携帯電話の販売事業の「課長」ポスト。いきなりの管理職で、プレッシャーに押しつぶされそうだった。
  

萩原さん㊧と妻・久子さん
萩原さん㊧と妻・久子さん

  
 さらに3カ月後、久子さんが子宮頸がんのステージ4と宣告された。
 「また、家族を奪われるのか……」
 恐怖に心が覆われそうになる。“必ず病魔に打ち勝つ”。そう決めて、全てを御本尊にぶつけるように、真剣に唱題を重ねた。
  
 「がんという病気は、お金の問題にも直面するんです」
 全ての不安を素直に祈った。その後、契約社員なのにボーナスが出ることになり、両親の支えもあって、治療費が工面できた。久子さんの手術は成功。現在まで再発もない。
  

  
 仕事には一層、力が入った。移動式の店舗を導入するなど、知恵を絞り、担当した事業所は、社内トップの営業成績を打ち立てた。
  
 51歳で、異例の正社員への登用が決まる。
 販売の実績はもとより、人材育成の手腕が高く評価された。社員だけでなくパートやアルバイトにまで目を配り、声を掛けた。部下のパート社員が、並みいる正社員を押さえて、優良社員として表彰されたことも。
 「全ての人に心を尽くす。全部、学会で学んだ姿勢ですよ」
  

  
 時代は就職氷河期を迎え、社内でも派遣労働が増えていた。
 特に若手社員は有期雇用が増え、それ故か離職率の高さが問題になった。多くの部下からも「パートや契約社員では人生設計ができない」と相談された。
  
 意を決し、「有期雇用の部下120人を正社員にしてもらいたい」と会社に掛け合う。
 周りからは「余計なことをするな」「自分の身を考えろ」と忠告されたが、「保身だけで、定年を待つなんてできなかった」。
 以前の会社で、解雇を通告しなければならなかった、「あの部下たちへのおわびでもあったんです」。
  
 思いがけず、人事部の中にも味方が現れ、分社化で全員を正社員にすることが決まった。社内のみんなの笑顔が、何よりもうれしかった。
  
 2010年、60歳で定年退職。
 12年間の在籍にもかかわらず、送別会は1週間以上続き、退職の日には、抱えきれない花束や色紙をもらって、会社を後にした。
  

  
 定年後に何をするかは決まっていなかったが、「ど真ん中に信心をおいて努力すると、“人生の案内人”のように諸天善神が助けてくれて、壁が“扉”のように見えてくるんです」。
  
 定年の直前、会社にやって来た飛び込みの営業マンと仲良くなった。退職後、その彼から「上司が会いたがっている」と連絡があった。
 社長と会うことになり、話し込むうちに人材論に花が咲く。「面白い! うちの会社に来てくださいよ」と、会社の顧問に招かれた。
  
 「僕は中卒だけれど、池田先生の弟子としての誇りがあるから、自分の価値は下げません」
 その会社で経験を積みながら、経営や人材育成のコンサルタントとして独立。その後、今までに5社と顧問契約を結んだ。
  
 町工場に始まり、書籍、事務用品、パソコン、携帯電話……。多種多様な仕事を経験してきたことが、コンサルの仕事に生かされた。
  

  
 ただ新しいものを追いかけるだけではない。
 パート社員が営業成績トップを取れるまで寄り添ったり、派遣社員の声を聞いて正社員への登用を勝ち取ったり。
 「時代の変化と、働く人の価値観の変化。両方を大事にしてきた経験が、武器になりました」
  
 何よりも、学び続ける姿勢が、活躍の場を広げた。
 65歳で創価大学の通信教育部に入学し、心理学や経営学を履修。会社員生活の中で、精神疾患になった後輩に接した経験から勉強を続け、「ポジティブ心理学トレーナー」にもなった。
  
 人的資源管理(ヒューマン・リソース・マネジメント)も学んだ。
 「人間をコストと見るか、資源と見るか。モノや資金は額面通りに価値が決まっている中で、人間だけが大きく変わる可能性を持っているんです」
  

  
 大手企業でセミナーや研修の講師を務め、「中卒の僕が、一流大学を卒業した人たちにも教えるんですから、人生って分からないですよ(笑い)」。
 過去の経験と実績など、すぐに通用しなくなる現代。「常に自分自身を“更新”し続ける。まさに“人間革命”の生き方が求められていますね」
  
 学会の組織では、副圏長として常にメンバーと触れ合い、統監部や儀典部、農漁光部、さらに会館運営を担う王城会、創価宝城会など、裏方の労苦も惜しまない。日々の学会活動が「人生の背骨になっています」。
  
 現在の顧問先の経営者は、30代。毎月、懇談しながら、会社組織の“成長痛”を乗り越えられるように、コンサルを行っている。
  
 ジェロントロジー(老年学)、自己主張と相手の尊重を両立するアサーティブ・コミュニケーションなど、新しい知識も貪欲に吸収し続けているが、「仏法ってすごいですよ。今やっていることは、学会で学んだことの“答え合わせ”みたいなもんです」。
  

  
 69歳になり、体力は落ちた。ゆっくりしたいと思わないわけでもない。
 「けれど、過去を食べて生きているのが老人。未来を食べるのが青年です。池田先生のおっしゃる通り、生涯、青年でありたいと思って」
 つい最近、今までの仕事や勉強の書類を思い切って処分した。
  
 生涯、先生と共に、青年の気概で生き抜きたい。
 「僕は“終活”じゃなくて“来活”って言ってるんです」。終わると思うと寂しいが、来世に続く活動と捉えれば「挑戦への意欲が湧くでしょ?」。
  
 今、注目しているのは、知識や製品だけでなく、相手の心を動かす「感情労働」だという。
 「報酬をもらう仕事と、無給のボランティアという立て分けを超えた、社会貢献のあり方があるんじゃないかと考えています」
  

  
 池田先生はつづっている。
 「かつては、定年後の生活を“余生”ととらえる人が多かった。しかし、これからは、長年培ってきた力をもって、地域に、希望を、活力を与える“与生”であらねばならない」
  
 もう一度、ゼロから自分をつくり上げて、「“人生のアスリート”として、死ぬ瞬間までトップギアのままで走り続けたい!」。そう決意している。
  
  
  
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