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〈識者が見つめるSOKAの現場〉 寄稿 「沖縄に生きる」を巡って㊤ 2022年12月24日

  • 東京大学大学院 開沼博 准教授

 学会員の「価値創造の挑戦」を追う連載「SOKAの現場」では、「沖縄に生きる」をテーマに、取材ルポを3回にわたって掲載した(12月3日、6日、10日)。それに連動して、社会学者の開沼博氏が、ルポの現場となった沖縄を11月下旬に訪問し、平和への思いを受け継ぐ学会員を取材した。本土復帰から50年。多くの苦闘を乗り越えてきた、沖縄の人々の強さの原動力とは――。開沼氏が考察した「寄稿」を、上下に分けて掲載する。(㊦は26日付予定)

持続可能な運動

 太平洋戦争で悲惨な地上戦が繰り広げられた沖縄。本土の「捨て石」にされた拭いがたい記憶がある一方、終戦から77年がたち、当時を知る人たちも少なくなる中で、いかに歴史を語り伝えていくかは日本社会全体の課題です。
 
 伝承活動の一つとして、資料館や博物館といった公的な施設がありますが、公的に残されていく資料はどうしても、政治に目配せしたり、世間で主流の議論に乗ったりして、人類や無数の人々が主語になるような「大きな言葉」で語られるものが中心になります。
 しかし、そこから漏れていく、一人の具体的な人が主語になる「小さな言葉」にこそ、よりリアリティーが表現される。「小さな言葉」を残す草の根の伝承活動が、「大きな言葉」を残す活動とセットになってはじめて、血の通った歴史が次世代に語り継がれていきます。
 
 戦争の記憶を継承しようという草の根の試みは、これまでもさまざまな人によってなされてきました。ただ、それを組織的に継続するのは難しい。その点、創価学会が世代を超えて平和運動を継承していることを再確認できたのが、今回の沖縄取材でした。
 
 沖縄研修道場(恩納村)では、かつての米軍核ミサイル「メースB」の発射台が、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の提案で、「世界平和の碑」に生まれ変わった歴史を学びました。
 メースBは、以前は沖縄本島の4カ所に配備されていました。しかし、その遺構が、現存するのは研修道場のみ。その意義は近年、マスコミからも注目を浴び、一目見ようと、学会員ではない人たちも訪れるようになっている。宮里清要さんや名嘉眞ウメ子さんは、その歴史を目撃し続けてきました。
 
 <宮里さんも名嘉眞さんも、恩納村を舞台に学会活動に励んできた。宮里さんの両親は研修道場の管理人を務めた>
 
 発射口跡の内部には展示が設けられており、平和の尊さを訴える内容になっていました。ここを学会員とは思想や主張が異なる人も多く訪れる。「平和の尊さという一点で、この場所から踏み出していける」と名嘉眞さんが語っていたのが印象的です。

開沼准教授㊨が宮里清要さん㊥、名嘉眞ウメ子さんと
開沼准教授㊨が宮里清要さん㊥、名嘉眞ウメ子さんと

 研修道場では、「沖縄戦の絵」展も見学しました。
 
 <沖縄青年部の取り組みとして、戦争体験者に当時の過酷な様子を描いてもらった絵を約700枚収集し、1985年に展示が始まった>
 
 庶民の目から見た戦争の様子を、これほど多くかき集め、戦争のリアリティーを表現してきた活動は貴重です。そして今年、戦争体験者への聞き取りをもとに制作した「沖縄戦の紙芝居」の貸し出しも新たに始まった。その中心にいるのが、美里雄貴さんをはじめとする青年たちでした。
 
 <美里さんは、平和祈念公園(糸満市)の近隣の出身。幼い頃から平和への意識があった。藤田毬音さんとともにシナリオ作成と作画を中心的に担い、2年をかけて紙芝居を制作した>
 
 若い世代にも戦争の記憶を継承することは社会全体の課題ですが、学会の平和運動が今日まで継続してきたのは、そのフォーマット(形式・構成)が、多くの人にとって参入しやすく、負担も少ないという点で持続可能なものになっているからでしょう。
 美里さんたちは、紙芝居の完成に2年かかった。それは、平和への思いが薄かったからではない。日々の仕事や学会活動などの“合間”を縫って作業をしてきた、と。つまり、その間もずっと、思いを持続してきたということです。燃え上がっては消える、一過性の熱狂的な活動ではない。
 
 個人の中においても、学会の組織においても、運動が日常の中に取り込まれている。だからこそ持続できる。これは、この連載で見てきた、学会員が地域の自治活動に積極的に関わっていくような姿勢にも通底します。そうした中で、絵の展示や紙芝居、平和意識調査、証言集の出版といった多くの活動が、長きにわたって継続されてきたわけです。
 
 「沖縄戦の絵」展は全国を巡回し、平和教育の資料として、県内の学校等で今も活用されていると伺いました。草の根の伝承活動を進め、それが社会に広く還元されていく。東日本大震災の被災地でも、そうした学会の活動が見られます。日々の活動の「持続可能性」は、各地の組織に共通していると実感しました。

「沖縄戦の紙芝居」を作成した美里雄貴さん㊧の取材
「沖縄戦の紙芝居」を作成した美里雄貴さん㊧の取材
喧嘩よりも対話

 沖縄が27年に及ぶ米国施政下から日本に復帰したのは、50年前の1972年5月。生活の向上が望まれましたが、本土との経済格差や米軍基地の存続など、県民の不満は高まる一方だった。“反対運動のデモでは、必ずといっていいほど負傷者が出た”と、桃原正義さんがルポ記事の中で語っています。
 
 <桃原さんは沖縄広布を築いてきた一人。現在は沖縄総県総主事を務める>
 
 桃原さん自身も騒動に巻き込まれ、頭を殴られて流血したこともあった。警察とデモ隊が衝突し、それぞれにけが人が出た。病院に行くと、学生と警察とが並んで順番待ちしていた。
 同じ場所で治療を受けているその光景を前に、“これが平和運動といえるのか”“自分たちがやるべきことは、デモではなく、対話だ”と痛感したといいます。そして、学会の折伏とは喧嘩ではなく対話だと、改めてその価値を感じたともいう。対話によって社会を変革するという発想が、学会の平和運動の根幹にあることが分かりました。
 
 「対話が大事」という考えそれ自体に、目新しさはないかもしれません。しかし、それを実践することは難しい。「対話が大事」「分断を助長するな」と言っている人こそが、独善的に他者を糾弾し、人々を極端な方向に扇動したりする光景は、近年、さまざまに見られるようにも思います。
 特に沖縄にあっては、米軍基地を巡る問題が、人々を分断する要因であり続けてきました。桃原さん自身、期待と失望を、身をもって感じてきた。
 
 その桃原さんが、基地をなくせと叫んで熱狂の中で暴力でぶつかり合い、疲弊する方法ではなく、平和への思いを引き出す対話が大切であると語っていた。そして桃原さん自身が、学会の平和運動を推進する一人となって、その思いを次から次の世代へと継承していったわけです。

開沼准教授㊧が沖縄研修道場を訪問。米軍核ミサイルが配備されていた当時から残る地下室を視察した
開沼准教授㊧が沖縄研修道場を訪問。米軍核ミサイルが配備されていた当時から残る地下室を視察した
米軍基地の隣で

 基地問題が抱える葛藤。それを巡る世論を、政治・メディアは「熱狂」としての側面を中心に捉えてきた部分がある。それ自体に、一定の意義はあったのでしょう。
 しかし、それに戸惑い、翻弄されてきた人々の姿が不可視化されてきたことにも、改めて気づかされました。「熱狂」を描くだけでは見えてこない、そこからこぼれ落ちる人々の姿や思い、そこに向き合う学会員の姿が今回見えました。
 
 熱狂は、理解し合えない相手やその価値観を強く否定する行動を呼びやすい。
 「ダイバーシティー(多様性)」「インクルージョン(包摂)」といった言葉は、現代社会のキーワードであり理想的理念でもありますが、熱狂の渦に巻き込まれた途端に、そうした価値観は最優先のものでは無くなりかねない。
 
 熱狂のど真ん中にいながらも、異なる価値観を視野に入れつつ問題に向き合う姿勢を取り続けられるか。それが、まさに沖縄の学会員の挑戦だったと感じました。学ぶことが多く、また率直に、尊敬の念を抱いた取材になりました。
 
 名護市の仲嶺太斗さん・太輝さん兄弟と父の眞宏さんは、米軍基地の移設が進む辺野古で、地域の課題に向き合っていました。
 
 <兄弟共に10代の頃は荒れた生活を送った。先に発心した太輝さんが変わっていく姿を見て、太斗さんも信仰に励むように。造園業を営む眞宏さんは地区部長を務めている>
 
 もともとある米軍基地と隣り合わせで生活する辺野古の方たち。親子が住む地域にも高いフェンスが連なっています。ただ、太斗さんにとっても太輝さんにとっても、基地は生まれた時から、すぐそこにあるものでしかなかった。基地を巡る葛藤にも、興味がなかった。それは地方で暮らす若者の感覚として自然なことだとも思います。しかし、信仰に励むようになり、朝晩の勤行・唱題の中で世界の平和を祈念する中で、自分にできることは何かを考えるようになった、と。
 
 二人は地元で生まれ育った者として、「基地反対」と大きな声を張り上げる人の気持ちも分かると言います。だから決してその人たちを否定しない。一方で、「基地反対」と叫ぶだけでは、地域は良くならないという感覚も持っている。
 地域の行事に参加してくれた基地関係者は、温かい人たちだった。飲み屋で出くわした米兵と、腕相撲をして盛り上がったこともある。それでも基地は無ければ無いほうが良い。現実に基地が存在してきたことを前提に、一言でこうすべきと割り切れない現場に生き続ける立場から、身近な課題と地域の未来をもっと見つめていくべきだと、二人は語ってくれました。
 
 辺野古集落(区)には11の班があり、第11班は米軍基地のキャンプ・シュワブにあたります。運動会やハロウィーン等の行事をはじめ、区内では、米兵との交流が盛んに行われているといいます。「辺野古というと基地の話ばかりで、そうした交流の様子がほとんど取り上げられない」と、眞宏さんが実感を込めて語っていたのも印象的でした。

仲嶺眞宏さん(右端)、太斗さん(左から2人目)、太輝さん(左端)と
仲嶺眞宏さん(右端)、太斗さん(左から2人目)、太輝さん(左端)と
「答えなき問い」に向き合う

 すぐには白黒つけられない、答えの出ない問題が、現代社会にはあふれています。これは基地問題に限りません。にもかかわらず、「分かりやすい対立の構図」が煽られ、単純化された「悪者」や「正義」が可視化されていく。
 そして現代の政治・メディアは、誰もが情報の受発信の主体となることを強いてくる。熱狂を煽り、自らも熱狂させられてしまう。その連鎖の構造が、現代社会の焦燥感と閉塞感を増幅しています。そこから抜け出すために必要なのは、「答えなき問いに向き合い続ける力」です。
 
 沖縄の基地問題以外にも、例えば、この10年ほどを振り返れば、原発、特定秘密保護法、平和安全法制、あるいは、コロナ禍の中でのワクチン接種等々を巡る議論、また、米国での議会議事堂襲撃事件など海外の動きも含めて、人々の熱狂が断続的にスポットライトを浴び続ける日々がありました。熱狂が世界を救い、そこに乗らなければ世界が破滅でもするかのような、センセーショナルな言説がそれを後押しし続けてきた。
 しかし、問われるべき問題の根本に何か変化はあったのか。「分かりやすい」答えが出たのか。時間と、持続可能性のないエネルギーを消費しながら、“焼畑農業”のように、次々とテーマを変えながら白黒つかない何かに、あたかも白黒つけられるかのように熱狂することだけが、目的化しています。そして熱狂から醒めたら、まだ残っている問題を、皆で見て見ぬふりしている。
 
 そうした態度の対極にあるのが、熱狂に揺るがず、まっすぐにそこに生きる人々の姿を見つめながら、少しずつ現実を変えようとする姿勢であり、それが学会員に共有されている部分が確実にあることを感じました。「現実にある基地を見つめながら、自分にできる平和とは何かを考える」。仲嶺さん親子の言葉が象徴的です。
 
 では、その現実変革の方途とは何か。桃原さんが、日々の勤行・唱題、学会活動、そして折伏・対話であると明確に整理してくれたのが印象的でした。
 答えなき問いを目の前にして熱狂し、疲れて、諦めて目をそらすのではなく、祈るという実践を通して他者に思いをはせていく。目の前の人の悩みを聞き、地域の課題を少しずつ変革すべく政治にも働きかける。その全ての根本は祈りにあるというのは、今回取材した人たちが、口々に語っていたことでもあります。
 
 熱狂の渦にのみ込まれることなく、持続され、継承されている、学会員の平和への思いと行動。その原動力は、祈り、人と会い、励ますといった、日常的な信仰の実践にあることを再確認できました。

宜野湾市内の展望台から、米軍の普天間基地を望む
宜野湾市内の展望台から、米軍の普天間基地を望む

 かいぬま・ひろし 1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学大学院情報学環・学際情報学府准教授。専門は社会学。『漂白される社会』『日本の盲点』など著書多数。

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 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613

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