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電子版連載〈Chronicle〉 第8回 若者と文化

池田先生の若き日を学ぶ

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 1952年4月、日本は対日講話条約の発効によって独立を回復。終戦直後の窮乏や混乱をひとまず切り抜け、大衆文化が花開く一方、新たな問題も生じました。そうした中、54年3月に、池田先生は青年部の室長に就任します。連載「クロニクル」(年代記)の第8回は、「若者と文化」という視点から、池田先生の足跡に迫ります。

「その日暮らし」からの解放

 1952年4月、独立を果たした日本は、転換点を迎えた。終戦後から深刻だった食糧不足は次第に解消に向かい、多くの国民が「その日暮らし」から解放された。52年には1人あたりの国民所得が戦前の水準を上回り、生活にゆとりが生まれていった。

 この頃から大衆文化が花開く。50年頃には、パチンコが庶民の娯楽として流行した。53年2月からは、NHKによるテレビ放送が開始。同年8月には日本テレビも開局し、テレビ時代の幕が開いた。文学界では、野間宏や中村真一郎などが登場し、「アプレゲール」(戦後派)と呼ばれる。既成の権威を否定し、新しい価値を求める文学活動を指したこの言葉は、やがて“理解を絶する戦後世代の行動やものの考え方”を意味するものへと転化していく。

アプレゲール犯罪

 社会は豊かさを取り戻しつつあったが、新たな問題も生じてきた。若者による犯罪だ。“ヤミ金融”を運営する東京大学の学生社長が摘発された「光クラブ事件」(49年)をはじめ、「日大ギャング事件」(50年)、「カービン銃ギャング事件」(54年)など、それまでの価値観では理解できないような若者の犯罪が相次いだ。

 ジャーナリストの半藤一利氏は、当時の若者の心境を次のようにつづる。「戦争に引っ張られ、こき使うだけこき使われて、終戦になれば放り出された。青春を返してくれ。それに引き換え、大人どもはおれたちをだまし、実に上手に世の中を泳いだ。あいつらは信用ならん」(『昭和史 戦後篇1945―1989』)

 時代の変化のはざまで若者が起こした一連の事件は、「アプレゲール犯罪」と呼ばれた。

覚醒剤の流行

 若者たちが荒廃する世相を表すのが、覚醒剤の流行だ。戦時中、「戦意高揚剤」として兵士や工場労働者に配られた「ヒロポン」は、その多くが戦後に流出し、芸能人や夜間従業者などに愛好されるようになる。その後、マージャンクラブやキャバレーなどに出入りする人々や不良集団の間で広まった。

 こうした状況を危険視した政府は、51年に「覚醒剤取締法」を制定。ヒロポンは違法薬物に指定された。54年には、約5万6000人が同法違反で摘発されたという。

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