戦後、日本はハイパーインフレーション(過度の物価上昇)に見舞われ、その対策として「ドッジ・ライン」が実施されます。その結果、日本経済は「安定恐慌」となり、戸田先生の事業にも影響が及びました。連載「クロニクル」(年代記)の第6回は、池田先生の苦闘と、その中で不動のものとなった「覚悟」に焦点を当てます。
戦後のハイパーインフレーション
終戦直後から、日本は、ハイパーインフレーション(過度の物価上昇)に見舞われた。戦争に費やした膨大な軍事費用を大量の国債で賄ったため、通貨の価値は下落。さらに戦時中の空襲によりさまざまな設備が破壊され、生産能力を失い、深刻な物不足に陥った。これが戦後日本のハイパーインフレの要因といわれている。食糧・生活物資の欠乏と物価の高騰によって、国民はその日暮らしで食いつないだ。
徐々に、戦後の配給統制が緩和され、物資が出回り始めると、国民は預貯金を引き出して物資を買いに向かった。さらに、〝新しい税金の創設〟〝新しい円の採用〟などのうわさが出回ると、預貯金の引き出しはいっそう増大した。
日本銀行のデータをもとに1934年~36年の物価指数を1とすると、51年には、300倍を超えるまでに上昇した計算になる。政府はインフレを抑制しながら経済復興を果たすため〝傾斜生産方式〟を実施し、石炭・鉄鋼などの分野に資材・資金を重点的に投入した。
アメリカの対日援助の増加にも支えられ、1948年には、鉱工業生産は、戦前の5割前後にまで回復する。しかし、この後のインフレ抑制策が、日本経済に深刻な影響を与えることとなる。
ドッジ・ラインによる安定恐慌
1949年3月、日本経済の安定と自立を図るため、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の経済顧問となったジョゼフ・ドッジが主導し、財政金融引き締め政策「ドッジ・ライン」を実施。緊縮・均衡予算と1ドル=360円の単一為替レート設定などにより、物価は安定化し、インフレの収束と黒字財政をもたらす。為替レートの設定には、通貨価値安定の具体的基準を定め、国内経済を国際経済に結び付け、自由経済を実現する狙いがあった。
しかし、日本経済の自立を図ったこの政策は、国民の生活を揺るがすことになる。49~50年にかけて、「安定恐慌」と呼ばれる不況が発生。国内経済は一転してデフレ(物価下落)不況に向かい、中小企業が相次いで倒産し、失業者が増大した。
国鉄(現在のJR)では、各地でレール座り込みなどの実力行使が起こり、GHQがスト中止命令を出すほど緊迫した事態に。その後、下山事件(49年7月)や三鷹事件(同)、松川事件(同年8月)など、国鉄に関連する事件が立て続けに起こり、社会不安が高まっていった。
人は変れど われは変らじ