池田先生の若き日を学ぶ連載「クロニクル」(年代記)。第3回では、戦後間もない1945~47年の出来事を中心に取り上げます。第二次世界大戦は、膨大な数の命を奪いました。そして、戦火はやんだものの、戦争は人々の心をさいなみ続けました。大好きだった長兄が戦死していたという知らせが、池田家にもたらされます。そうした中で、若き日の池田先生は、人生の指標を探し求めました。
民主主義国としての一歩
約3年半に及ぶ「アジア・太平洋戦争」が終わった。日本はポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏。程なくして、マッカーサーを最高司令官とするGHQによる占領統治が始まった。
軍隊は解体され、戦争指導者たちが逮捕された。そのうち、A級戦犯28人が起訴され、1946年5月3日に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれた。また、GHQによる占領政策として、①女性の解放、②労働者の団結権の保障、③教育の民主化、④秘密警察制度の廃止、⑤財閥の解体などの改革が、次々と打ち出されていった。
1945年11月、衆議院議員選挙法が改正され、女性に参政権が与えられるように。翌46年4月の選挙では、39人の女性議員が誕生した。同年11月、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本とする「日本国憲法」が公布され、翌47年5月3日に施行される。日本は民主主義国としての一歩を踏み出したのだった。
皆、生きるのに必死だった
「自由」「民主主義」が叫ばれる一方で、人々は毎日を生きるのに必死だった。物資不足とインフレーション(物価高騰)に直面し、1946年には臨時物資需給調整法が公布。これにより、食糧や生活必需品の「配給制」は、戦争が終わっても行われることとなった。
差し迫って深刻だったのは食糧不足だった。天候不順の影響で米や野菜の不作が続き、都市部では餓死者も出た。また、戦地からの復員や海外からの民間人の引き揚げが本格化する。その数は600万人に上り、失業者が急増した。
その中で生まれたのが「闇市」と呼ばれる自由市場だ。新橋や新宿、上野などの駅の近くには多くの露店が立ち並び、横流しされた軍需物資や、農村から持ち込まれた食料など、多くの品物が売られていた。人々が集まる場所では、戦争で家族を失った「戦災孤児」が靴磨きなどをして稼ぐ姿も多く見られた。
こうした社会の混乱、とりわけ食糧難に対して、昭和天皇はGHQのマッカーサー最高司令官に、皇室の所蔵品を贈る代わりに、国民への食糧援助を求めている。46年5月19日の食糧メーデーには、25万人が皇居前広場に押し寄せ、事態の解決を訴える。この時、日本共産党員の一人が「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」などと書いたプラカードを掲げ、不敬罪で逮捕されるという事件が起こった。24日、昭和天皇は、玉音放送以来となる放送を行い食糧難克服を国民に呼びかけた。戦後の混乱期の中、民衆は必死に生き抜かねばならなかった。