若き日の池田先生が過ごした時代を解説する連載「クロニクル」(年代記)。第2回は1930年代後半から、45年までを取り上げます。39年9月に欧州で始まった第2次世界大戦は、多くの国を巻き込んだ総力戦となりました。開戦当時、池田先生は11歳。戦争に翻弄された少年時代でした。
第2次世界大戦始まる
中国東北部では、1931年の満州事変以来、日本の傀儡国家である満州国の支配が続いていた。37年7月、北京郊外の盧溝橋という橋での軍事衝突を契機に、「日中戦争」が勃発。同年12月、日本軍は当時の首都・南京を占領するが、粘り強い抵抗に遭い、戦いは泥沼化していく。
39年、ドイツのポーランド侵攻を機に、第2次世界大戦が始まった。日本は「日独伊三国同盟」を結び、41年7月、フランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)南部への侵攻を開始した。こうした日本の行動に、アメリカは、中国などからの撤兵等を求めたが和平交渉は決裂。日本は41年12月、アメリカの真珠湾を攻撃し、「太平洋戦争」が始まった。こうして、戦火は世界規模に広がった。
「進め一億火の玉だ」
戦争の影は、国民の生活にまで浸食していく。「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」――「国民精神総動員運動」を始めた政府は、さまざまな標語を生み出し、国民の戦意高揚を図った。一方、出版物の「検閲」や「言論統制」も強まり、戦争に反対する人々や団体は取り締まりの対象になった。
1938年から、綿糸やマッチ、米などの物資が順次、「配給制」に。日がたつにつれ、国民の生活は窮乏を強いられていく。
41年、小学校は「国民学校」に改められた。そこでは軍国教育が行われ、剣道や射撃などの訓練も実施された。彼らは小学生ではなく、「少国民」と呼ばれ、「お国のために尽くす人材」になるよう教育された。43年には、戦局の悪化と物資の不足を受け、「勤労動員」が強化され、「学徒出陣」が始まった。大学生が戦場に駆り出され、10代の若者も、物資や兵器の製造に従事させられたのである。
空襲、原爆、玉音放送
戦争の序盤こそ連戦連勝だった日本軍だが、ミッドウェー海戦(1942年6月)を転機に戦局が悪化していく。各地で日本軍の敗退が続くが、政府はその事実を国民に公表することはなかった。
45年3月、東京への米軍の大規模爆撃が行われ、下町地域一帯が焼け野原になった(東京大空襲)。翌4月には、沖縄本島での地上戦が始まり、日本軍だけでなく、多くの一般島民が亡くなった。8月6日には広島、9日には長崎に原子爆弾が落とされた。
日本は、連合国への無条件降伏を決定。45年8月15日、天皇の声で戦争終結がラジオ放送された(玉音放送)。約6年に及ぶ世界大戦では、日本の軍人・民間人約300万人を含む6000万人ともいわれる尊い命が失われた。
何のための戦争か
1940年、池田先生は、尋常小学校を卒業し、高等小学校(現在の中学校に相当)へ。翌年12月に「太平洋戦争」が始まった。当初は「連戦連勝」のニュースが飛び交い、国中が沸いた。「軍人にあらずんば人にあらず」という時代。先生も少年航空兵を志した時期もあったが、父親の猛反対に遭い、断念する。