企画・連載

ちょっとした言葉や行動が身近な関係性を豊かにする――インタビュー フェリス女学院大学准教授 引地達也さん 2026年10月10日

〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉

  
 傷ついた心に寄り添うケアと、情報や表現を伝えるメディア――その二つが掛け合わされた「ケアメディア」が、人と人の関係性を豊かにして社会の希望になると、フェリス女学院大学准教授の引地達也さんは語ります。ケアとメディアの在り方と可能性を巡ってインタビューしました。
 (聞き手=掛川俊明)
  

■生きやすい社会につながる

 ――近著『わたしたちのケアメディア』(晶文社)では、ケアを中心に据えたメディアについて構想されています。そもそもケアとは何か、またケアメディアとはどのようなものか、教えてください。
  
 ケアは本来、人と人との「関わり合い」「関係性」だと捉えています。
 人と人がつながり、言葉や振る舞いを通して関係性をつくっていく時、そこにケアが生まれます。このケアの性質は、私たちが本来、備え持っているものです。人間に限らず、例えばチンパンジーも、直接の利益や見返りがなくても、利他的な行動をすることが分かっています。
  
 公共政策などを専門とする広井良典は、ケアの意味を三つに分類します。第一に「配慮」「気遣い」という広い意味で、誰かを気にかけることや、髪をケアすることなども含まれます。第二は中間的で少し限定された意味で「世話」に相当します。第三が、医療や福祉分野に特化した最も狭い意味で、「高齢者ケア」などの使い方です。
 日本では、ケアという言葉は介護福祉制度の導入とともに使われるようになり、主に第三の狭い意味で定着してきました。
  
 けれど、本来のケアは、人々がお互いに助け合って生きていく、関係性自体を指します。看護学の分野ではミルトン・メイヤロフが、「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」(『ケアの本質』ゆみる出版)と書いています。
  

  
 次に、メディアです。言葉が使われる前は、身ぶりや表情でやり取りしていたことを考えれば、コミュニケーションの媒介としてのメディアは、身体から始まったともいえます。現在では、テレビやラジオ、新聞が一般的に想起されますが、絵画やインターネットなどもまたメディアであると理解できます。
 『メディア論』を書いたマーシャル・マクルーハンは、「メディアはメッセージである」と言います。メディアはただ媒介するだけでなく、それ自体がメッセージ性を帯びて、人々の認識や行動に影響を与えると論じたのです。
  
 私は、メディア行為の中心にケアの考え方を置く「ケアメディア」という概念を提唱しています。深い内省的な考えをもとにした行動がケアであり、それを広く外部へ表現する役割をメディアが担うことで、ケアメディアが形作られます。
 ケアメディアが目指すのは、私たちの社会が、ケアし合う人と人との豊かな関係性の中で構成されていることに気付かせ、誰もが生きやすい社会を実現していくことです。
  

■「正義の倫理」と「ケアの倫理」

 ――ケアメディアは、具体的にはどのような報道やメディア行為として実践されるのでしょうか。
  
 まずは、報道について「正義」と「ケア」の二つの視点で考えてみたいと思います。
 ジャーナリズムについて論じる際には、ジョン・ロールズの「正義の倫理」と、キャロル・ギリガンの「ケアの倫理」が対比されます。前者は何が正義にかなうか、どんな状態が公正かという問いであり、後者は他者のニーズにどう応答するかを問うものです。
  
 私はこの二つを軸に、日本では、どのような報道が評価されているかを分析しました。
 具体的には、新聞業界の名誉とされる「新聞協会賞」の歴代受賞作について、企業や政治家の問題を指摘するといった「正義」を基準とする報道と、疾患や医療、福祉や人々の生きやすさなどに関する「ケア」を基準とする報道に分けました。
 すると、1957年度から2024年度までの全受賞作のうち、約61%が「正義」に分類でき、「ケア」として判定したのは約7%でした。
  
 このように、一般的にメディア報道は、正義の倫理に基づいています。けれど、正義の視点を優先するだけでは、報道は分かりやすさに偏っていき、センセーショナルなものになりがちです。
  

  
 例えば、新聞報道における「精神疾患」や「精神障がい」は、どのように扱われてきたでしょうか。
 精神疾患の当事者などは、社会的にも制度上でもケアされるべき存在ですが、過去の事件報道を分析すると、加害者に精神疾患があることが不必要なほどに強調され、ゆえに疾患それ自体にネガティブな印象を与え続けてきたことが分かりました。
 すでに、これまでのさまざまな研究で、精神疾患と犯罪の因果関係は否定されています。最近の犯罪白書をもとにした研究でも、精神障がいがあることが、犯罪傾向を強めるとは言えないという見解が示されています。
  
 一方で、新聞協会賞の分析では、ケア領域での受賞は、地方新聞社・放送局が多いことが分かりました。ケアをはじめとする福祉は地域で実践されるものであり、地方紙では地域福祉が多く取材され、1面を飾るようなこともある。こうして当事者性を持った報道がなされやすいのです。
  
 例えば、1966年度の受賞作である、岡山の山陽新聞社の「連載キャンペーン『心身障害者に愛の手を』」は、当時、日の目を見ることがなかった重度障がい者に焦点を当てた連載です。これは60年代当時では画期的なテーマであり、そこに切り込んだ報道によって、募金を届けに来た読者や、お小遣いを寄付した小学生もいたと報告されています。
 ケアメディアが、地域で社会的弱者に焦点を当てて報道することで、読者が身近な問題として理解し、具体的な行動を起こしたのです。報道によって、社会のケア性が増したことを示しています。
  
 私は、メディアは正義だけではなく、ケアを積極的に行う役割も担っているはずだと考えます。言葉を生み出す現場であるメディアは、疾患や障がいのある人などへの表現について、言葉を熟考しなければなりません。
 もちろん、正義とケアのどちらも必要ですが、近代ジャーナリズムの反省点として、ケアの視点を忘れないでほしいと思います。
  

■人生の“小さな灯”を探す対話

 ――引地さんは、新聞社や通信社の記者を経験された後に、研究者になられています。どのような経緯で、ケアメディアという考え方に行き着いたのでしょうか。
  
 私は、新聞社や通信社で記者として勤務した後、コミュニケーションに関するコンサルタントになりました。そして、東日本大震災(2011年)の直後から「小さな避難所と集落をまわるボランティア」という活動を始めました。宮城県の沿岸部を中心に、道路が寸断され、徒歩でしか行けないような小さな集落を訪ねては、必要な物を聞き取り、物資を調達して届けました。
  
 傾聴的なボランティアを続ける中で、ある発見がありました。新聞記者時代は「書くため」に対話していたのが、純粋に「関係性を築く」対話に変わっていたのです。
 かつては、記者として何を聞き出し、どう書くかを常に考えていました。仕事として必要な側面もありましたが、それだけでは、報道に都合のよい言葉のやり取りになりがちです。
 そうした先入観をなくして、困りごとを傾聴し、自分にできることはないかと考えました。すると、一緒に人生の“小さな灯”を探すような対話ができ、そこには豊かな関係性がありました。
  
 被災地で傾聴と対話を重ねる中で、豊かな関わり合いであるケアメディアというイメージが、ぼんやりと立ち上がってきたように思います。
  

  
 ――メディアというと報道機関や企業を思い浮かべますが、ケアメディアの視点を持って、私たち一人一人にできることは何でしょうか。
  
 私は研究だけでなく、障がいのある人の就労や学びの支援、重度障がい者支援などの現場に身を置いてきました。
 2020年4月に開校した「みんなの大学校」も、その一つです。特に、重い障がいがある人にとっては、特別支援学校を卒業した後は、学べる環境がないことを課題に感じてきました。そこで、重症心身障がい者を中心に、在宅や入所先、通所先の施設等で、誰もがどこでもオンラインで学べる環境を提供してきました。
  
 ケアという、たった二文字の言葉が、人の心を落ち着かせる――。支援の現場では、そんな経験を積み重ねてきました。ある人は、ごみが天井まで積み上がった家で暮らしていて、2年かけて、一緒に掃除をしました。
 また、ある人は、保育園にも学校にも、一度も通ったことがないまま、27歳になっていました。ひらがなを一緒に覚えるところから始めて、やがて彼は、パソコンの修理の仕事に就きました。
  
 絶望の淵にいる人、最も大切にしていたものを失った人、思いと現実の違いに打ちひしがれている人と、言葉を交わして、一緒に未来を見ようとする時、ケアは傷ついた心に寄り添ったり、しみ込んだり、時に肩をたたいたりします。
  
 あるいは、言葉さえ不要な時もあります。障がいがあって、言葉が出るまで時間がかかる人もいます。世の中は、その時間を待ってくれず、その人は取り残されます。
 けれど、5秒では無理でも、1分あれば、10分あれば答えられるなら、私は待ちたい。自分の時間軸を少しだけその人に合わせることも、ケアになるのだと思います。
  

■宗教はケアに貢献する

 ――創価学会では、日常的に自分と他者の幸せを祈り、会って話すなどの関わり合いを大切にしています。また仏教には、あらゆるものが相互に関係し合う「縁起」という考え方もあり、ケアに通じるものがあると感じます。
  
 宗教は、ケアそのものではないでしょうか。
 私は世界各地を訪れるたび、寺院や教会に立ち寄ります。そうした宗教施設は、その土地のケアの中心としてあり続けてきたのだろうなと、想像を巡らせます。
 特に仏教とケアは、とても近いものだと感じます。一神教の場合は、まず神と信徒という垂直の関係があり、神の下では人々は平等だという関係があります。けれど仏教の場合は、最初からあらゆる人々が平等です。人間同士のやり取りにおいては、垂直方向の上下関係ではなく、こうした水平型のコミュニケーションによって、最もお互いをよく見ることができます。
  
 創価学会の皆さんのように、宗教的価値観を持っている方々は、ケアの概念とも響き合うものがあると思います。
 仏教もキリスト教もイスラム教も、それぞれアプローチは異なりますが、人々がケアし合うものであるという点では、共鳴できるのではないでしょうか。
  

  
 今はSNSをはじめとして、私たちの身の回りでは、うそも本当もごちゃ混ぜになって、ネガティブな情報があふれています。いろいろな情報が「質よりも量」になってきています。「量」が暴走して誰かを攻撃してしまう時、それを止める「質」こそが、ケアを中心に置いた宗教や哲学、倫理だと思います。
  
 現代は、個人がメディア化した社会です。パソコンやスマートフォンなどを使って、誰もが毎日、情報を受信するだけでなく、発信する主体にもなっています。ですから、ケアメディアの概念は、報道に関わる企業や団体だけでなく、私たち一人一人に関わるテーマでもあります。
  
 ケアは独り歩きしません。誰かによって伝えられるものです。その意味では、私たち一人一人が、身近な人との関係性を大切にすることが、ケアメディアの実践にもなります。
 ちょっとした言葉や行動が、誰かを幸せにしたり、絶望から救ったりすることがあるかもしれません。そうやって、メディア化した個人である私たちが、それぞれの地域でケアを実践することで、人と人がつながり、お互いに信頼し合うことができるはずです。それは、現代の日本社会にとって、希望の道筋になると信じています。
  
  

 ひきち・たつや 1971年生まれ。フェリス女学院大学准教授。一般社団法人みんなの大学校代表理事。文部科学省「障害者の生涯学習推進アドバイザー」。ケアメディアラボ共同代表。上智大学大学院博士後期課程修了。博士(新聞学)。著書に『わたしたちのケアメディア――誰もが生きやすい社会のコミュニケーション』(晶文社)、『ケアメディア論――孤立化した時代を「つなぐ」志向』(ラグーナ出版)など。就労移行支援事業所や就労継続支援B型事業所の運営や、全国で障がい者の就労や学びの支援にも携わる。
  
  

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