企画・連載

〈未来対談〉 “いじめ”はなくせるの?――自分を信じ、相手を信じる「信頼のスパイラル」 2025年9月29日

創価学会青年世代×苫野一徳さん(熊本大学大学院准教授)
テーマ②“いじめ”はなくせるの?

  
 創価学会の青年世代が、各界の識者と共に、これからの社会について語り合う連載「未来対談」。
  
 前回(9月4日付)に続き、哲学者・苫野一徳さん(熊本大学大学院准教授)と語らいました(勉強会を本年8月に開催)。
  
 今回のテーマは「“いじめ”はなくせるの?」。池田大作先生の思想に学びながら、読者の皆さんと一緒に考えたいと思います。
  

■いじめをする人は、実は「自分自身」にムカついている

〈青年世代〉
 なぜ「いじめ」をテーマに取り上げるのか。それは、いじめが学校の中だけの問題ではなく、社会の姿を映すものだからです。
 大人の社会には、ハラスメントや誹謗中傷など、さまざまな分断や差別があります。子どもたちは、そうした大人の姿から影響を受け、結果的に学校でいじめが繰り返されてしまう。
 この問題を止めるには、教育現場だけでなく、社会全体でいじめに向き合う必要があります。いじめを考えることは、子どもたちの問題にとどまらず、私たち自身の生き方や社会の在り方を問い直すことでもあります。
  
〈苫野准教授〉
 そうですね。他人がいることによって、私たちは思うままには生きられないと考え、そんな他人を排除しようと思ってしまう。
 それが、あからさまで大きな暴力になると「戦争」です。一方で、ねちねち、こそこそやると「いじめ」になります。
 私は、いじめの根本的な原因の一つは「自己不十全感」だと考えています。例えば「あいつ、何だかムカつく」というように、いじめをする人が、まず抱くのが「ムカつく」という感情です。
 ところが、なぜムカつくのかと考えると、必ずしも相手に対する不満や、いら立ちからではありません。実は「自分自身」にムカついているのです。
  
〈青年世代〉
 ドキッとする言葉ですね。自分に対する不満やムカつきといった感情は、誰もが少なからず抱いているものではないでしょうか。そう考えると、誰かをいじめる心は、私たち一人一人の中にも潜んでいるのかもしれません。
 インターネット上では、特定の人や事物に非難や中傷が集中する「炎上」が、頻繁に起こります。顔が見えず、匿名のまま、一方的に攻撃的な言葉を投げつけてしまう――その背景にも、自分自身へのいら立ちがあるように思えてなりません。
  

  
〈苫野准教授〉
 そうだと思います。そもそも自分が幸せな状態だったら、誰かをいじめようとは思いませんよね。
 いじめの問題の根っこには、みんなが「自由」に生きたいと思っていることが関係しています。人間は、ただ「生存する」だけではなく、「生きたいように生きたい」という自由への欲望を持っています。それゆえに、それぞれの自由への欲望がぶつかると、いじめが起き、ついには戦争につながることもあります。
  
〈青年世代〉
 お互いの自由がぶつかった時に、どうするか。そこに人間関係の鍵があると思います。
 ある男子部員から、こんな話を聞きました。彼がどれだけ仕事を頑張っても、上司からの評価が低い。当初、その不満や文句ばかりを口にしていました。ところが、男子部の活動を続けるうちに、上司の愚痴を言わなくなったのです。理由を尋ねると、御本尊に祈る中で「上司も中間管理職として苦しんでいるのかもしれない」と考えるようになり、やがて上司の幸せまでも祈るようになったというのです。その年、彼は職場で最高の評価を受けたと語っていました。
 私たちは、創価学会での活動を通じて「自他共の幸福」を目指しています。それは、誰かが犠牲になるのではなく、自分の幸せも相手の幸せも、共に実現していく挑戦です。そこに、人間としての成長のチャンスがあるのではないでしょうか。
  

■お互いの自由がぶつかる時には「自由の相互承認」が必要

〈苫野准教授〉
 大事な話ですね。確かに、お互いの自由がせめぎ合う時、単なる自己主張を押し通せば、傷つけ合うばかりです。そこで哲学者たちが導き出した考え方は、お互いがお互いに、相手が「自由」な存在であることを、まずは認め合うということです。ドイツの哲学者ヘーゲルは、これを「自由の相互承認」の原理と呼びました。
 自分が自由に生きたいなら、相手の自由もまた承認する必要があります。その上で、争い合うのではなく、争いにならないように調整し合うこと。とてもシンプルな考え方です。
  
〈青年世代〉
 認め合うことから始まるという考え方に、強く共感します。
 そもそも「自由」とは、単に遊ぶ時間があることや休日が多いことではないはずです。池田先生は「気分のまま、気ままに生きるのは『放縦』であって『自由』ではない。自由とは、いかに、自分自身を高揚させていくか、自分自身の目的に向かっていくか」(『青春対話2』普及版)だと語っています。さらに先生は「ある意味では、すべての人が幸福にならない限り、自分の真の幸福はないとも言える。そう自覚しているのが仏法でいう菩薩の生き方です。同じ意味で、すべての人が自由にならない限り、自分の真の自由はないとも言える」(同)と。
 この菩薩の生き方は、まさに「自由の相互承認」にも通じると思います。本当の意味での自由や幸福は、自分の中だけでは完結せず、相手と結びついてこそ実現される。そこに、人間としての成熟や、社会をより良くする力があるのではないでしょうか。
  

  
〈苫野准教授〉
 同感です。先ほどのエピソードにも表れていたように、「自由の相互承認」といっても、具体的には日常の生活を通して、つまり実際の人間関係において育まれる感性です。
 例えば、子どもたちは保育園や学校などで生活を共にするうちに、自分の自由を押し通すだけでは、けんかになって嫌な思いをすることに気付きます。お互いに気持ちよく過ごすためには、まずは認め合う必要があることに、環境さえ整えれば自然と気付けるようになるのです。
 それは、何もお互いに「称賛し合う」というような、大げさなことではありません。相手がどんな趣味や価値観を持っていても、それが自分と合おうが合うまいが、人を著しく傷つけるのでなければ、取りあえず容認する。ひとまずは、それくらいのことで良いのです。
  
〈青年世代〉
 もちろん、私たちは一人一人違う人間ですから、意見が合うこともあれば、合わないこともあります。対立や衝突が起こるのは、ごく自然なことで、決して否定すべきものではありません。大切なのは、ぶつかった時にいじめや暴力に訴えるのではなく、「違いがある者同士」として語り合おうという姿勢ではないでしょうか。「承認」というと難しく聞こえるかもしれません。しかし、相手の意見に賛成できなくても、まずは相手の存在そのものを「認める」ことならできます。その一歩が、対話を始める土台になるのだと思います。
  

  
〈苫野准教授〉
 その通りですね。私も、相互承認の手前に「相互信頼」があると考えています。まずは相手の「存在自体はOK」という意味での、根本的な「信頼」です。
 相手を信じられず、不信感でいっぱいだったら、認めることもできませんし、攻撃さえしたくなるでしょう。
 それは、最初に話した「自己不十全感」の問題ともつながります。自分に不満を抱くのは、どこかで自分を認められず、信じられないからです。
 そうした状況から、自分を信頼できるようになるためには、まず人から信頼されることが必要です。私たちは、信じてもらった経験、認められた実感を通して、自分自身を信じられるようになっていきます。
  

■「それでもなお信じる」ことを可能にする二つの要素とは

〈苫野准教授〉
 その意味で私は、教育の基本は「信頼して、任せて、待って、支える」ことだと考えています。「あれをしなさい」「これはダメ」と言って、過度に管理することは、信頼していないことの裏返しです。子育てでいえば、私自身も一人の親として、それを実践することの難しさに直面していますが……(笑)。
 それでも、相手を信じ切れるかどうかが、試されているのだと思います。心から信じて、じっくり待つことで、人はきっと変われる。そんな希望を失わずにいたいです。
  
〈青年世代〉
 深く共感します。あるメンバーは、自信を失って落ち込んでいた時、「創価学会の先輩が、自分以上に自分のことを信じてくれた」と話してくれました。
 身近な人が、自分のことを心から信じて、励ましてくれる――そんな存在が、どれほど力になるか。学会には、そうした人と人との真心の触れ合いが数多くあります。池田先生の言葉に「たとえ諸君が、自分で自分をだめだと思っても、私はそうは思わない。全員が使命の人であることを疑わない。だれが諸君をばかにしようと、私は諸君を尊敬する。諸君を信じる」(『青春対話1』普及版)とあります。ある意味で、学会活動とは「自分を信じ、相手を信じる」ことの繰り返しです。
  

  
〈苫野准教授〉
 すごいことですね。最近、私はいろいろなところで「信頼と承認のスパイラル(循環)」を回そうと伝えています。
 今、至る所で、自分を信じられず、相手を認められないことで、お互いに傷つけ合ってしまう問題が起きています。そんな相互不信の悪循環を逆回転させ、相互信頼と相互承認のスパイラルを回していきたいと願っています。
  
〈青年世代〉
 「信じる」ということ。それは信仰を持つ私たちの根本的な姿勢でもあります。私たちは「南無妙法蓮華経」と唱えますが、南無とは、漢語では「帰命」と訳され、簡潔に言えば“根本として随う”という意義になります。すなわち、「自分の全てをかけて信じる」ということです。その意味で、私たちの日々の祈りは、自分自身の中に、そして他者の中にも、同じ仏の生命があることを信じ抜くという実践だといえます。
 初代会長の牧口常三郎先生は、もし他人を信じられず、また他人からも信じてもらえなければ、人は野に立つ一本杉のように孤立無援に陥ってしまう、と。そして、お互いが安心して生きていくためには、自分自身と他者への「信」を確立することが不可欠であると強調されています(『創価教育学体系梗概』)。
  

  
〈苫野准教授〉
 一人一人の「信じる」という力が、孤立した一本杉のようにならずに、竹林が地下茎でつながっているように、お互いを支え合うということが大切ですね。
 ドイツの教育哲学者であるオットー・フリードリッヒ・ボルノーは、教育において子どもを「信頼する」ことの重要性を強調しました。一方で、彼は、信頼は必ず裏切られるとも言います。例えば、どれだけ言っても、宿題をやってこなかったり、忘れ物をしたり、けんかをしたり。そうやって、信頼は何度も裏切られることになります。
 しかしボルノーは、それが当たり前なんだと言います。大切なのは「それでも信頼する」ということです。もちろん、それでもなお信じるというのは、並大抵のことではありません。信じることへの意志を持ち続けるためには、何が必要なのでしょうか。
 その一つの答えが、今日の皆さんとの対話の中で、見いだされたように思います。信じることの根っこには、ある時は仲間の存在があり、またある時は信仰の力があるのだ、と。
  
〈青年世代〉
 私たちの学会活動もまた、「信じる」という挑戦の連続です。
 池田先生は、こう語っています。「一人の人と会う。だれかのために祈る。手紙を書く。たとえ約束を破られても、何度も足を運ぶ。それは、ささいなことのように思える。時には、『こんなことをしてもムダではないか』と思うことがあるかもしれない。しかし、あとから振り返れば、何ひとつムダではなかったと必ず、わかる」(『青春対話2』普及版)
 確かに、学会活動の中には大変なことも多く、きれいごとでは済まない現実もあります。けれど、それは決して「自己犠牲」ではありません。むしろ、相手のために祈り、心を尽くした行動を重ねた先には、自分自身の大きく、豊かな成長があることを実感しています。
  
 (次回へ続く)
  
  

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