企画・連載

〈ストーリーズⅡ 池田先生の希望の励まし〉第5回 自分に勝った人は三世の勝利者 2024年9月29日

師匠と「同じ誓願」「同じ理想」「同じ行動」を貫くならば、必ず師匠と同じ境涯に達することができる
決意と落胆のせめぎ合い

 桜の蕾がほころび始めていた。1983年4月2日、池田大作先生は広島を訪問。広島文化会館に到着すると、桜の木を見つめた。戸田先生の逝去から25年。恩師の慈顔を偲んだ。
 夜に行われた広島県総会。先生は、恩師の不惜身命の実践を通して「難を乗り越える信心」について述べ、「自分自身の強き強き一念が、一切の人生の戦いの根本である」と、峻厳な信心の姿勢に言及した。
 この日、先生は一人の女性との再会を喜んだ。がんで闘病していた村井純子さんである。
 ――決意と落胆のせめぎ合いは81年に始まった。村井さんが患ったのは、胎盤の絨毛がん。当時、まだ33歳。がくぜんとした。村井さんは2歳9カ月の時、母を亡くしている。長女は同じ2歳9カ月で、長男は1歳だった。
 体力には自信があった。青年部時代、中国女子部長(当時)として、各地で励ましを届けた。“まさか自分が”。絶望が渦巻くなかで、「宿命転換」の言葉を抱き締めた。子宮と卵巣を摘出。これで山を越えたと信じた。
 翌82年、息子を抱いた時、左胸に違和感があった。乳がんだった。左乳房を全摘出。皮膚の移植手術も受けた。ここが地獄か――。そう感じた。
 日中国交正常化提言が発表された学生部総会など、先生との思い出は数多い。師匠に応える道を、これから先も進もうと誓っていた。だが、激しい宿命の嵐が襲いかかる現実。医師から、乳がんが再発した場合、命の危険があることを告げられた。
 「信心は信じること。信強く生きよう」と心に決めても不安にかられた。唱題を重ねていたある日。尾道市・向島の自宅のチャイムが鳴った。90歳を超えた婦人部の先輩だった。
 農作業着で首に手ぬぐいを巻き、背中には竹かごを担いでいた。田舎道を地下足袋で歩いてきてくれた。
 「あんたさんは、大丈夫ですで。池田先生から、たんとたんと、訓練されとってですけえ。大丈夫ですで!」
 この先輩も言うに言われぬ苦難を信心で勝ち越えてきた。玄関先の姿は、忘れられない光景となった。
 83年の4月2日。池田先生は村井さんに励ましを送り、その場にいた婦人部のリーダーと共に、「広島を頼むね」と語った。師の万感の期待に、村井さんの心は燃えた。

無言の叱咤

 1984年の夏、またも病が村井さんを襲った。肺がんを発症したのだ。医師の見立ては、手術をしても「余命2年」。生き抜く決意と、戸惑う気持ち。振り子のように心は激しく揺れ動いた。
 唱題に唱題を重ね、蘇生への誓いを込めて、先生に手紙を書いた。即座に伝言が届く。
 「絶対に勝ってください。私も、もう一度、村井さんのことを祈ります」
 抗がん剤治療を選択し、病魔と戦った。84年10月、先生は広島を訪問。「やあ、来たよ!」。広島文化会館に着き、出迎えた地元幹部に声をかけた。その中に、闘病中の村井さんもいた。
 先生が移動を開始すると、ある友が「先生、村井さんが来ています」と叫んだ。先生は振り返り、村井さんに歩み寄ると、じっと顔を見つめ、館内のエレベーターの方へと向かった。
 香峯子夫人は「お体に気をつけてね」と包み込むように励ました。
 今まで見たことのない師の厳しいまなざしだった。「師子であるならば、千尋の谷から這い上がれ」と呼びかけられている気がした。その夜、師の厳愛に、生き抜く覚悟を新たにした。
 先生は後に、この日の村井さんへの励ましを記している。
 「元気そうな笑顔だったが、張り詰めた心が伝わってきた。定まらない弱い一念では、宿命を転換することはできない。私は無言で叱咤した」「心から回復を祈った」
 言葉はなくとも、一念を変革する無限の広がりを持つ励ましだった。村井さんは「不安や甘え、全て見透かされた一瞬でした。厳愛のまなざしは惰弱な私の生命に、求道の炎を点火しました」と振り返る。
 死魔をはね返す一日一日が始まった。「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし」(新1791・全1360)の一節を心肝に染め、治療に挑んだ。
 時には、そのまま永眠してしまうのではと感じ、眠ることが怖かった。一方で、命の限りを思うと、眠る時間さえ惜しかった。闘病記録をノートにつづり、先生の指導を書き込んだ。
 「広宣流布という法戦においても、最終的に勝敗を決するものは、一人また一人の胸の奥に刻み込まれた、金剛にして不壊なる一念という大感情であることを決して忘れてはならない。“正”と“邪”、“善”と“悪”、“幸”と“不幸”、“仏”と“魔”との戦いであり、仏が、正法が、善が勝たねばならないのである」
 病気を治す過程を、「池田先生の真の弟子になる戦い」と定めた。師との心の距離を縮めるように、強盛に祈りを重ねた。その中で、惑う心を突き飛ばすことができたと感じる瞬間があった。「その時の心境が、歓喜の中の大歓喜でした」
 85年、病状が好転し始める。同年10月、広島訪問の折、先生は「よく頑張ったね」と村井さんをたたえた。後に、病を完治させた村井さんは、広島県の婦人部長に就任。長女は中国女子部長として希望を広げた。
 77歳の村井さんは今、元気いっぱい中国広布に駆ける。仏間には、広島県東部の婦人部で届けたアルバムに、先生が記した言葉が飾ってある。
 「自分自身に勝った人は三世の勝利者 友のために戦いぬいた人は三世の栄光の人」――村井さんの生涯の指針である。

子どもたちの会話

 「瞬間」に「過去」も「未来」も含まれる。池田先生と全国・全世界の友との記念撮影は、「過去の思い出の一枚」ではない。未来への決意みなぎる「師弟の原点」である。
 1965年5月6日、東京第7本部の地区部長会が新宿で開かれた。まず、記念撮影が行われた。会館の屋上で、9回に分けての撮影。先生は「全員に1枚ずつあげよう」と声をかけ、激励を重ねた。
 「信心を続けている人は、まことの大聖人の弟子となります。その人が病気になろうが、悩みがあろうが、本有常住にしてすでに仏界を涌現した人になり、本有の妙法に照らされた人になります」
 撮影会に参加した川井一助さんは、21歳の青年だった。この日の師との出会いを、胸に深く刻んだ。
 建設会社に勤務し、朝は誰よりも早く出社。自主的にトイレを清掃した。“社会で実証を示そう”と、どんな仕事も積極的に取り組んだ。
 妻・マサさんとの結婚を機に、信濃町で暮らし始めた。働いていた建設会社は倒産の憂き目に遭うが、建築設計事務所に転職することができた。
 83年、家族4人の生活は突然、暗転する。マサさんが脳動脈瘤を患った。一命を取り留めたものの、退院後、ほとんど寝たきりの状態になった。
 川井さんは仕事、家事、育児に奔走した。昼休みは弁当を買って、マサさんのもとへ。マサさんがしていた、聖教新聞の配達も担った。
 マサさんは発作を起こし、幻覚を見ることもあった。命が危ないと思うことは一度や二度ではなかった。
 苦境の中にあって、川井さんが思い返したのは65年の記念撮影会だった。先生の言葉が、川井さんの心を支えた。
 「仏法は勝負です。仏法は証拠主義、実証主義であり、観念論、抽象論ではない。負けないでいただきたい」
 マサさんにも、記念撮影の思い出があった。72年1月15日、新宿区内の体育館で行われ、先生が渾身の励ましを送った。
 83年当時、地元の地区では、宝寿会(多宝会)の友が週1回、未来部の勤行会を行っていた。二人の子は喜んで参加した。ある日の夜、川井さんが料理をしていると、子どもたちの会話が聞こえてきた。会合で学んだ御書の一節を、競って暗唱していた。
 「我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし」(新117・全234)
 子どもたちの声を聞きながら、何があろうと絶対に宿命転換をしてみせると、川井さんは心に固く誓った。
 84年10月14日、「我らは幸の城の仲間」とのテーマで開催された新宿記念文化祭。川井さんは参加できなかったが、2人の子どもが出演した。池田先生が出席し、友の喜びが爆発した。本陣・新宿は86年から3年連続で、弘教日本一の歴史を築いた。
 マサさんの体調は、薄紙をはぐように回復していく。脳動脈瘤の発症から7年ほどが過ぎたある日、仕事から帰宅すると、マサさんと子どもたちが談笑していた。
 内容は闘病していた頃のこと。つらかった過去を笑顔で振り返っていた。その姿に「勝った!」と確信した。
 川井さんが大切にしている先生の指導がある。
 「師匠の智慧と慈悲に弟子たちが到底、及ばないと思っても、師匠と『同じ誓願』『同じ理想』『同じ行動』を貫くならば、必ず師匠と同じ境涯に達することができる」
 “子どもの結婚までは、とても生きられない。ましてや孫なんて”と悲観することもあったマサさんと一緒に、川井さんは孫の成長を見守る日々だ。
 今年、小平市へ転居。長女家族の近くで団地暮らしを始めた。幸福城部の使命を胸に、夫婦で幸の城の歴史を築こうと奮闘を重ねている。

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