今月9日に兵庫池田文化会館で行われた聖教文化講演会で、作新学院大学(栃木・宇都宮市)の渡邊弘学長が「いま、創価学会と創価教育に期待すること」と題して講演した。その要旨を紹介する。(渡邊学長と兵庫教育本部の代表が交流した模様は15日付に掲載。こちらから無料で閲覧できます)
今月9日に兵庫池田文化会館で行われた聖教文化講演会で、作新学院大学(栃木・宇都宮市)の渡邊弘学長が「いま、創価学会と創価教育に期待すること」と題して講演した。その要旨を紹介する。(渡邊学長と兵庫教育本部の代表が交流した模様は15日付に掲載。こちらから無料で閲覧できます)
今日の危機を越える羅針盤こそ創価教育
今日の危機を越える羅針盤こそ創価教育
私が創価教育と出合ったのは、31年前の1994年6月。東京で開かれた「創価教育学と教育の未来」と題する講演会に参加した時のことです。講師は、日本を代表する教育学者で、私の恩師でもある村井実先生(慶應義塾大学名誉教授)でした。
私自身、教育学を専門とし、教育思想家・実践家を研究しておりましたが……大変に申し訳ないことに、創価学会初代会長の牧口常三郎先生は、認識から抜け落ちていました。
私が創価教育と出合ったのは、31年前の1994年6月。東京で開かれた「創価教育学と教育の未来」と題する講演会に参加した時のことです。講師は、日本を代表する教育学者で、私の恩師でもある村井実先生(慶應義塾大学名誉教授)でした。
私自身、教育学を専門とし、教育思想家・実践家を研究しておりましたが……大変に申し訳ないことに、創価学会初代会長の牧口常三郎先生は、認識から抜け落ちていました。
講演会からの帰宅途中で、村井先生は、私にこう言ったのです。「牧口常三郎は“日本のデューイ”と呼ばれた人で、著名な地理学者だから調べてみてごらん」
実際に調べていくと、私は、その崇高で壮大な教育思想と実践に大きな衝撃を受けるとともに、強い教育的関心を持ちました。以来、牧口先生、戸田城聖先生、そして池田大作先生の三代にわたる会長の教育思想を調べ、論文や雑誌、書物に掲載し続けて今日に至ります。4年前に第三文明社から発刊した『創価教育と人間主義』も、その一つです。
講演会からの帰宅途中で、村井先生は、私にこう言ったのです。「牧口常三郎は“日本のデューイ”と呼ばれた人で、著名な地理学者だから調べてみてごらん」
実際に調べていくと、私は、その崇高で壮大な教育思想と実践に大きな衝撃を受けるとともに、強い教育的関心を持ちました。以来、牧口先生、戸田城聖先生、そして池田大作先生の三代にわたる会長の教育思想を調べ、論文や雑誌、書物に掲載し続けて今日に至ります。4年前に第三文明社から発刊した『創価教育と人間主義』も、その一つです。
■時代に流されず
■時代に流されず
「創価教育の思想と実践」は、間違いなく、今日の危機的状況にあるわが国の教育をはじめ、多くの分野の「羅針盤」となり得るものと確信しています。
まずは「教育」における「宗教」の重要性について、お話ししたい。牧口先生が日蓮仏法に出合い、入信したのは昭和3年(1928年)。小学校の教員・校長を務め、古今東西の哲学者や教育思想家の書を読破し、一流の地理学者・教育学者となっていた牧口先生が、なぜ宗教を求めたのでしょうか。
『創価教育学体系』(1930年刊)の中で牧口先生は、宗教の必要性を次のように述べます。「一貫する因果の法則を見出して、絶対至高なる正邪善悪の標準を確立し、その規範に則ることによって、初めて至幸至福といふべき生活を遂げんとするのが人心の深底に横たはる要求で、宗教の起る所以である」
つまり人間が「至幸至福の人生」を求めていく場合、道徳や科学の領域だけでは限界があり、おのずと宗教が必要になってくると言うのです。
「創価教育の思想と実践」は、間違いなく、今日の危機的状況にあるわが国の教育をはじめ、多くの分野の「羅針盤」となり得るものと確信しています。
まずは「教育」における「宗教」の重要性について、お話ししたい。牧口先生が日蓮仏法に出合い、入信したのは昭和3年(1928年)。小学校の教員・校長を務め、古今東西の哲学者や教育思想家の書を読破し、一流の地理学者・教育学者となっていた牧口先生が、なぜ宗教を求めたのでしょうか。
『創価教育学体系』(1930年刊)の中で牧口先生は、宗教の必要性を次のように述べます。「一貫する因果の法則を見出して、絶対至高なる正邪善悪の標準を確立し、その規範に則ることによって、初めて至幸至福といふべき生活を遂げんとするのが人心の深底に横たはる要求で、宗教の起る所以である」
つまり人間が「至幸至福の人生」を求めていく場合、道徳や科学の領域だけでは限界があり、おのずと宗教が必要になってくると言うのです。
加えて、教育思想史的な観点から見た時、牧口先生が仏法に心のよりどころを求めたもう一つの理由が、「歴史的状況」にあったと私は考えます。牧口先生と戸田先生が『創価教育学体系』を発刊した当時は、大正末期の悪法として名高い「治安維持法」による思想統制が進み、軍国主義の足音が聞こえ始めた時期です。
ややもすると、自分の教育理念が揺らいでしまう恐れがあり、現に自由主義的思想を掲げた多くの教育者が国家主義へと転向していく時代でした。例えば、子どもたちの自主性を尊重することを中心とした「大正自由教育運動」のメッカといわれたある県が、真っ先に青年たちを戦場に送り込んでいたのです。
しかし、日蓮仏法を精神的基盤とした牧口先生は、時代の偏向的思潮に決して流されませんでした。「人類の幸福」と「世界の平和」の実現のために、その宗教的信念は、治安維持法の違反と不敬罪の容疑で逮捕・投獄されても変わらず、昭和19年(1944年)に獄中で亡くなるまで、貫かれていったわけです。
加えて、教育思想史的な観点から見た時、牧口先生が仏法に心のよりどころを求めたもう一つの理由が、「歴史的状況」にあったと私は考えます。牧口先生と戸田先生が『創価教育学体系』を発刊した当時は、大正末期の悪法として名高い「治安維持法」による思想統制が進み、軍国主義の足音が聞こえ始めた時期です。
ややもすると、自分の教育理念が揺らいでしまう恐れがあり、現に自由主義的思想を掲げた多くの教育者が国家主義へと転向していく時代でした。例えば、子どもたちの自主性を尊重することを中心とした「大正自由教育運動」のメッカといわれたある県が、真っ先に青年たちを戦場に送り込んでいたのです。
しかし、日蓮仏法を精神的基盤とした牧口先生は、時代の偏向的思潮に決して流されませんでした。「人類の幸福」と「世界の平和」の実現のために、その宗教的信念は、治安維持法の違反と不敬罪の容疑で逮捕・投獄されても変わらず、昭和19年(1944年)に獄中で亡くなるまで、貫かれていったわけです。
■何のためか
■何のためか
池田先生もまた牧口先生と同様、「教育」と「宗教」を別々なものではなく一体のもの――いわば相互連関的なものとして捉えました。小説『新・人間革命』第15巻「創価大学」の章に、こう書かれています。
「教育には、宗教的な基盤は不可欠である。宗教なき教育は、羅針盤を失った船に等しい。いかに多くの知識という燃料を注入しても、宗教という生き方の芯がなければ、人生の航路を見失ってしまうことになるからだ」
池田先生が、宗教あるいは宗教的信念を「船の羅針盤」「生き方の芯」に例えた点に、注目したいと思います。創価教育においては、人間には誰にも「価値創造力」「仏性」という偉大な善性が備わっていると考え、それを発揮させる役割が教育にあると考えます。その善性を信じ抜き、引き出すには「宗教的信念」がなければならないということです。
池田先生もまた牧口先生と同様、「教育」と「宗教」を別々なものではなく一体のもの――いわば相互連関的なものとして捉えました。小説『新・人間革命』第15巻「創価大学」の章に、こう書かれています。
「教育には、宗教的な基盤は不可欠である。宗教なき教育は、羅針盤を失った船に等しい。いかに多くの知識という燃料を注入しても、宗教という生き方の芯がなければ、人生の航路を見失ってしまうことになるからだ」
池田先生が、宗教あるいは宗教的信念を「船の羅針盤」「生き方の芯」に例えた点に、注目したいと思います。創価教育においては、人間には誰にも「価値創造力」「仏性」という偉大な善性が備わっていると考え、それを発揮させる役割が教育にあると考えます。その善性を信じ抜き、引き出すには「宗教的信念」がなければならないということです。
「教育は百年の計」といわれます。教育は、すぐに効果が表れるものではありません。だからと言って教育を軽視することは、すなわち人間そのものを軽視するということです。
一方で「何のための教育か」という教育観、そして「人間とはどういう存在か」という人間観が浅く偏ったものであれば、誤った方向に進んでしまうでしょう。
日本は戦前・戦中においては「戦争のための教育」を行い、戦後は、「経済のための教育」に傾倒しました。いずれも、その時その時の「国家」にとって“役に立つ人間”を育てようという発想です。それに対して池田先生は、一貫して「人間のための教育」を志向し、子どもの幸福を第一とする「教育のための社会」への転換を訴えてこられました。
幼児教育から高等教育まで一貫して、「人間のための教育」を今こそ実行していかなければなりません。その最たるモデルになるのが「創価学会」であり、「創価教育」であると私は考えています。
「教育は百年の計」といわれます。教育は、すぐに効果が表れるものではありません。だからと言って教育を軽視することは、すなわち人間そのものを軽視するということです。
一方で「何のための教育か」という教育観、そして「人間とはどういう存在か」という人間観が浅く偏ったものであれば、誤った方向に進んでしまうでしょう。
日本は戦前・戦中においては「戦争のための教育」を行い、戦後は、「経済のための教育」に傾倒しました。いずれも、その時その時の「国家」にとって“役に立つ人間”を育てようという発想です。それに対して池田先生は、一貫して「人間のための教育」を志向し、子どもの幸福を第一とする「教育のための社会」への転換を訴えてこられました。
幼児教育から高等教育まで一貫して、「人間のための教育」を今こそ実行していかなければなりません。その最たるモデルになるのが「創価学会」であり、「創価教育」であると私は考えています。
■揺るがぬ人間観
■揺るがぬ人間観
では、創価学会と創価教育の特質とは何か。きょうは7点にわたって挙げたいと思います。
まず1点目に、「精神の継承」です。牧口先生と戸田先生が出会われた1920年(大正9年)から、今年で105年。創価教育の根本精神が100年以上にわたり、揺らぐことなく継承され続けている事実は、改めてすごいことだと感じます。
2点目は「人間観」です。牧口先生は『創価教育学体系』で「人格とは価値創造力の豊かなるもの」と表現しています。つまり、人間の内部に価値創造を成し遂げる力が備わっているということ。創価教育の根本に、この揺るぎない人間信頼の精神があり、それを基盤として創価教育は成り立っているのです。
第3の点は、生命尊厳を根本とした「平和主義の精神継承」です。昨年3月、東京・国立競技場で開催された、核兵器や気候危機の問題解決を目指す「未来アクションフェス」は大変に意義深いものでした。学会の若い方々が、多くの若者・市民団体と協働する中で「平和主義の精神」を発揮された姿を通し、「世界が変わっていく」と感じました。
では、創価学会と創価教育の特質とは何か。きょうは7点にわたって挙げたいと思います。
まず1点目に、「精神の継承」です。牧口先生と戸田先生が出会われた1920年(大正9年)から、今年で105年。創価教育の根本精神が100年以上にわたり、揺らぐことなく継承され続けている事実は、改めてすごいことだと感じます。
2点目は「人間観」です。牧口先生は『創価教育学体系』で「人格とは価値創造力の豊かなるもの」と表現しています。つまり、人間の内部に価値創造を成し遂げる力が備わっているということ。創価教育の根本に、この揺るぎない人間信頼の精神があり、それを基盤として創価教育は成り立っているのです。
第3の点は、生命尊厳を根本とした「平和主義の精神継承」です。昨年3月、東京・国立競技場で開催された、核兵器や気候危機の問題解決を目指す「未来アクションフェス」は大変に意義深いものでした。学会の若い方々が、多くの若者・市民団体と協働する中で「平和主義の精神」を発揮された姿を通し、「世界が変わっていく」と感じました。
■開かれた対話
■開かれた対話
4点目は「世界市民を育成する精神」です。牧口先生は『人生地理学』で「世界民」であることを大切にし、戸田先生は「地球民族主義」を提唱。池田先生は「世界市民」育成の流れを全世界に広げられました。今後、教育の面でも世界市民の育成は、大きな課題になっていくでしょう。
第5の特質は、「開かれた対話の精神」です。平和の文化を創造するために、創価三代の会長は「開かれた対話」を積極的に行ってきたわけです。「開かれた」とは、あらゆる差異を超えて「万人」に開かれているということです。
人間は「相手が同じ人間である」との事実が、さまざまな「とらわれ」ゆえに見えなくなる場合が、往々にしてあります。「独善的なイデオロギー」「小さな利害や感情」「誤った知識・先入観」にとらわれ、根本的には「人間と生命への無知」にとらわれて、自分で自分を狭い世界に閉じ込めてしまう。
池田先生は、そんな“とらわれの鎖”を断ち切り、目の前の人を同じ「人間として」尊敬することから、「人間として」の開かれた対話が始まると訴えました。
4点目は「世界市民を育成する精神」です。牧口先生は『人生地理学』で「世界民」であることを大切にし、戸田先生は「地球民族主義」を提唱。池田先生は「世界市民」育成の流れを全世界に広げられました。今後、教育の面でも世界市民の育成は、大きな課題になっていくでしょう。
第5の特質は、「開かれた対話の精神」です。平和の文化を創造するために、創価三代の会長は「開かれた対話」を積極的に行ってきたわけです。「開かれた」とは、あらゆる差異を超えて「万人」に開かれているということです。
人間は「相手が同じ人間である」との事実が、さまざまな「とらわれ」ゆえに見えなくなる場合が、往々にしてあります。「独善的なイデオロギー」「小さな利害や感情」「誤った知識・先入観」にとらわれ、根本的には「人間と生命への無知」にとらわれて、自分で自分を狭い世界に閉じ込めてしまう。
池田先生は、そんな“とらわれの鎖”を断ち切り、目の前の人を同じ「人間として」尊敬することから、「人間として」の開かれた対話が始まると訴えました。
■五つの関わり
■五つの関わり
6点目は、「最大の教育環境としての教師」という考え方です。これまで教育本部主催の「人間教育実践報告大会」に何度も参加させていただきましたが、どの報告も光り輝く奮闘記ばかり。私は、皆さまが実践している次の「五つの関わり」に、深い感銘を覚えています。それは、①信じ抜く②ありのまま受け容れる③励まし続ける④どこまでも支える⑤心をつなぐ――の五つです。
ただ信じるのではありません。こちらの思いが何度、裏切られても、一人一人の無限の可能性を「信じ抜く」。単に子どもを受け入れるのではなく、あらゆる子どもたちを「ありのまま受け容れる」。ただ励ますのではなく、何があっても「励まし続ける」。ただ支えるのではなく、「どこまでも支える」。だからこそ子どもたちと「心をつなぐ」ことができるのです。
これらの関わりが、教師の宗教的信念という「羅針盤」「生き方の芯」に基づいた人間革命から生まれているものであることは、もう、皆さんお分かりでしょう。
6点目は、「最大の教育環境としての教師」という考え方です。これまで教育本部主催の「人間教育実践報告大会」に何度も参加させていただきましたが、どの報告も光り輝く奮闘記ばかり。私は、皆さまが実践している次の「五つの関わり」に、深い感銘を覚えています。それは、①信じ抜く②ありのまま受け容れる③励まし続ける④どこまでも支える⑤心をつなぐ――の五つです。
ただ信じるのではありません。こちらの思いが何度、裏切られても、一人一人の無限の可能性を「信じ抜く」。単に子どもを受け入れるのではなく、あらゆる子どもたちを「ありのまま受け容れる」。ただ励ますのではなく、何があっても「励まし続ける」。ただ支えるのではなく、「どこまでも支える」。だからこそ子どもたちと「心をつなぐ」ことができるのです。
これらの関わりが、教師の宗教的信念という「羅針盤」「生き方の芯」に基づいた人間革命から生まれているものであることは、もう、皆さんお分かりでしょう。
最後の7点目に「連帯の精神」を挙げたいと思います。人間の尊厳と生存を脅かし、人類の未来をむしばんでいる飢餓、紛争、人権抑圧、環境汚染、生態系の破壊など、「地球的問題群」が以前にも増して深刻化している今こそ、創価の「連帯の精神」が何よりも必要です。
「子どもの幸福」「世界の平和」へ――皆さまが、特に若い方々が一人の人間革命から始まる連帯の精神を広め、ムーブメントを起こしていかれることを切に願っています。
最後の7点目に「連帯の精神」を挙げたいと思います。人間の尊厳と生存を脅かし、人類の未来をむしばんでいる飢餓、紛争、人権抑圧、環境汚染、生態系の破壊など、「地球的問題群」が以前にも増して深刻化している今こそ、創価の「連帯の精神」が何よりも必要です。
「子どもの幸福」「世界の平和」へ――皆さまが、特に若い方々が一人の人間革命から始まる連帯の精神を広め、ムーブメントを起こしていかれることを切に願っています。
【ご感想をお寄せください】
<メール>kansou@seikyo-np.jp
<ファクス>03-5360-9613
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