企画・連載

【SDGs×SEIKYO】 被ばくで苦しむ人は無数――「グローバル・ヒバクシャ」を追い続けて40年 2024年7月12日

インタビュー フォトジャーナリスト 豊﨑博光さん

 1945年7月16日は、アメリカ・ニューメキシコ州でトリニティ実験と呼ばれる人類初の核実験が行われた日です。フォトジャーナリストの豊﨑博光さんは、アメリカが核実験を行ったマーシャル諸島の島民をはじめ、被ばくで苦しんでいる世界各地の人を40年以上取材してきました。「核兵器の恐ろしさは、爆発によって多くの命を一瞬で奪うだけではなく、その被害には終わりがない」。いまだ広く知られていない「グローバル・ヒバクシャ」を追い続けてきた、豊﨑さんの思いに迫ります。(取材=松岡孝伸、宮本勇介)

<プロフィル>
 とよさき・ひろみつ 1948年、神奈川県生まれ。東京写真専門学院報道写真科を卒業後、フリーのフォトジャーナリストに。78年からマーシャル諸島をはじめ、世界の核実験場、ウラン鉱石採掘場によるヒバクシャなどを取材。『マーシャル諸島 核の世紀』で日本ジャーナリスト会議賞受賞。

今回のテーマは「平和と公正をすべての人に」

※以下、モノクロ写真は本人提供

■一人一人とのつながりで
――世界各地のヒバクシャの取材を始められたきっかけは何だったんでしょうか?

 きっかけは1978年に、「ビキニーやはり死の島」という見出しの新聞記事を見たことでした。現在はマーシャル諸島共和国に属するビキニ環礁が、アメリカの核実験によって深刻な放射能汚染と健康被害に見舞われているという内容でした。

 しかし当時は、核実験が終わってから既に20年以上経過していた頃。「何をいまさら」と思いましたが、ちょうどマーシャル諸島の近くへ行く機会があったので、取材に向かいました。

 実際に現地に行って分かったのは、放射能の被害は“見えない”ということです。核実験による死の灰(放射性物質を含んだちり)を浴びた島民は、やけどを負っているわけではないので、外見的には全く分かりません。おもてなしとして振る舞ってくれたヤシの実も、おいしそうに見えました。

 しかし、放射能は依然として残り、島全体に甚大な被害をもたらしていたのです。放射性物質を吸い込んだヤシの実を食べ続けた彼らは、被ばくし続け、がんなどの病気に次々となっていきました。

 このようにマーシャル諸島から始まって、他のアメリカの核実験場へ行ったり、オーストラリアのヒバクシャを紹介されたりと、一つ一つの現場でヒバクシャの方たちとの出会いがありました。

 そうした個々のつながりを大事にし続けた結果として、今の私があります。彼らのように、広島・長崎以外にも、被ばくで苦しんでいる人が無数にいる。そのことを多くの人に知ってもらうため、40年以上取材を続け、発信をしてきました。

■「ニュークリア・レイシズム」
――世界各地のヒバクシャの実態は、どうなっているのでしょうか。

 実際にどのくらいの人たちが被害に遭ったかという数字は、正直なところ分かりません。その大きな理由の一つは、核実験場やウラン採掘場のほとんどが先住民の地域であるからです。

 パリやロンドンなど主要都市の近くで核実験を行わず、こうした地域で行うことは、先住民に対する人権軽視であり、「ニュークリア・レイシズム」と呼ばれる、大きな差別です。

 核実験でも、ウラン採掘でも、そこに住んでいる住民は被ばくすることになります。さらに、そこで生まれた大量の廃棄物も、そのまま置いていかれ、被害はさらに広がります。

 しかも、先住民の地域であるため、そこに何人住んでいて、何人働いていたのかという詳しい数字は把握されていない。ですから、そうした被害を受けた方々の存在が世界で知られない状況が、これまで続いてしまいました。

 2021年に発効した「核兵器禁止条約」の前文に、「hibakusha(ヒバクシャ)」と書かれたことで、ようやく「グローバル・ヒバクシャ」の存在が認知されつつあります。

■“終わりのない”被害

 また、被ばく被害の実態という意味では、“終わりがない”ということも押さえておく必要があります。

 最初に放射能を浴びた人だけが被害を受けるのではありません。本人やその家族が、汚染された地域に住み続けたり、そこで取れた物を食べたりすることによって、被ばく被害は何代にも渡って続いていきます。また実際に被害が出なくとも、いつ病気を発症してしまうのかと、不安を抱えながら生きていかなければならないのです。

 反対に、被害を避けるために、他の地域に移り住むということになれば、今度はそれまで築かれてきた“文化が破壊”されます。

 マーシャル諸島の場合、島民たちはアメリカ政府から移住を迫られました。別の島に移ると、伝統的な魚の取り方、調理の仕方などが使えなくなるんです。伝統がなくなることで、それに伴う言葉も失われました。

 先進国のように恵まれた環境、文明の中で生きていると、こうした伝統的な生活が壊されることの重大さが実感しづらい。そのせいで、ヒバクシャたちが補償を要求することに対して、「エゴだ」と言うような人も出てきました。しかし、彼らは生存権、生活権を侵害されており、補償を要求することは、正当な権利なのです。

■認められている「ヒバクシャ」は一握り
――ヒバクシャの方々へ、十分な補償がされることは、必要最低限のことだと感じます。

 しかし現実には、核開発の過程で生まれたヒバクシャに対する補償は、ほとんどないと言ってよいでしょう。

 そもそも、先ほど言ったように先住民は、正確に人を把握できていないため、補償は難しい。また、各国で補償法がいくつか存在していますが、その中で「ヒバクシャ」として認められているのは、ほんの一握りです。

 例えば、日本でもちょうど70年前に、有名な「第五福竜丸」が被ばくしました。乗組員は23人でしたが、実際は第五福竜丸の一隻だけではなく、近海にいた992隻も被害を受けたといいます。一隻に20人の乗組員がいたと考えれば、2万人近くが被ばくしていたということです。

 しかし、彼らがどれくらいの放射能を浴びていたのかを示す資料が存在していないため、現時点で補償はされていません。同じように、被害を受けながらもヒバクシャとして認められなかった世界中の人々は、数え切れません。

――お話を聞くにつれ、「グローバル・ヒバクシャ」について知っていくことの重要性を感じます。

 「核兵器禁止条約」は、核兵器を持っている国からは決して出てこない発想でしょう。世界のヒバクシャが力を結集したからこそ、生まれた条約だと感じています。

 核保有国とヒバクシャの対立――その間を結んでいくことが、核廃絶へとつながる。だからこそ、ヒバクシャの体験を、より多くの人が知っていくべきなんです。

 しかし、現代のインターネットには情報が氾濫しているため、核に関しても、間違った情報が事実であるかのように書かれていることがあります。ですから、若い世代の方には、情報を安易にうのみにせず、英語で調べるなどして、可能な限り原典の資料に当たってほしいです。

■80年間を問う
――最後に、創価学会の青年世代に期待することはありますでしょうか。

 1982年にニューヨークの国連本部から始まった、国連広報局や創価学会などが主催した「核兵器――現代世界の脅威」展で、私の写真を使ってもらったことがありました。その時の青年部の皆さんの熱意に感動した記憶があります。

 また近年のSGIは、市民社会の側から、「核兵器禁止条約」を採択する要となったICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)と協働し、連帯を広げてきました。

 創価学会平和委員会が主催するフォーラム「グローバルヒバクシャ――終わらない核被害」や、SGIが協力して制作した、カザフスタンの核実験被害者の証言映像「私は生き抜く~語られざるセミパラチンスク~」も、「グローバル・ヒバクシャ」の声を届ける貴重な取り組みです。

 これからも、核廃絶運動で中心的な役割を担っていくことを期待しています。

 その中で、語弊を恐れずに言えば、広島・長崎の8月6日、9日にだけ、こだわり続けないでほしい。むしろそこから今日まで、われわれはどんな苦労をしてきたのか、どれだけの運動を広げ、核兵器を減らすことができたのか。この約80年間を問うてほしいんです。

 核兵器を持たない世界は、必ず実現できます。私自身も、その世界を目指して、自分の仕事を続けていきます。

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