企画・連載

創価学会は人々をつなぎ社会に「安定」をもたらす――インタビュー 日本大学教授 西田亮介さん 2024年10月10日

〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉

  
 政治への不信が高まり、民主主義の危機が指摘される現代において、私たちにできることは何でしょうか。日本大学の西田亮介教授に、社会における宗教の役割などを巡り、インタビューしました。
 (聞き手=掛川俊明、村上進)
  

■「イメージ政治」と「耳を傾けすぎる政治」

  
 ――政治資金問題や政治家によるパワーハラスメントの報道もあり、政治への不信が強まっています。現在の政治状況について、どう捉えていますか?
  
 日本における政治不信は、ある種の社会的な「諦念」「諦め」になっています。今では、世論調査で支持政党を尋ねても、最も多いのは「特に支持している政党はない」という回答で、“本当の第一党は無党派層”と言われることもあります。
 しかし、こうした状況は、今に始まったことではありません。内閣府が継続的に行っている「社会意識に関する世論調査」では、国の政策に民意が反映されているかを問う項目があります。昭和の時代から最近まで一貫して、「反映されていない」という回答が多数を占めています。
  
 一般に多くの国民は、政治について施策の詳細まで知ることは少なく、メディアなどの情報を通して、政策の良し悪しを判断していると考えられます。
  

  
 近年は、政治的な決定や選択において、「イメージ(印象)」が強く影響を及ぼすようになっており、政治家もイメージ重視です。
 私はこうした状況を「イメージ政治」と呼んでいます。人々は、政治において、必ずしも実態とは合致しないイメージを重要視しているのです。そして、政治や行政もまた、そうした印象重視の環境に対し、過剰に適応しています。つまり、政策の「中身」を吟味するよりも、パッと見て“良さそうだ”と感じる「イメージ」が偏重され、政治が動きかねない状況です。
  
 最近は、インターネット上の動画などで話題になった政党や政治家に、大きな注目が集まりがちです。政治家の側も、あらゆるネットメディアに登場して、イメージを発信することに力を入れており、実際にそれで一定数の支持者が集まることもあります。
  
 政治について腰を据えた議論が少なくなり、イメージばかりが重視された結果、どうなったでしょうか。私は「耳を傾けすぎる政治」が現れたと考えています。効果や合理性よりも、可視化された「わかりやすい民意」に安直に身を委ねる政治の在り方です。
  

  
 もちろん政治は、民意に耳を傾けるべきです。しかし、民意は常に正確であるわけではなく、合理性や効果に基づいた批判や提案をするとも限りません。自由民主主義の社会においては、表現の自由があり、正確でないとしても、民意が表現される権利は守られるべきです。
 だからこそ、誤った認識に基づく民意に対しては、政治は安直に身を委ねることなく、責任をもって対話を重ねることが求められます。合意に至らない場合は説明を尽くし、時には説得を試みたり、決断したりすることも必要です。
  
 しかし、「耳を傾けすぎる政治」は、こうした対話や説明を省略します。ワイドショーでの評判や、インターネットでの話題など、とにかく「わかりやすい民意」に、脊髄反射的に「反応」しようとします。それは実のところ、一貫性もなく、聞いているふりをしているだけの政治です。
 今、日本は、かつてのような経済成長は期待できず、地域のつながりも希薄になり、先行きの見通しも立たない社会になってきています。こうした不安に覆われた社会において、「イメージ政治」や「耳を傾けすぎる政治」が強まっていくことには、危うさを感じます。
  

■「目を向ける」だけでも十分——政治と生活はつながっている

  
 ――諦めやイメージ偏重が強まる中で、私たちは政治にどう関わればよいのでしょうか?
  
 主権者を育み、真っ当な政治参加を促すためには、政治教育が必要です。現在も見直しは進められていますが、真正面から「政治教育をどうするか」ということを、もっと議論するべきだと思います。
 例えばイギリスでは、政治学者のバーナード・クリックによって「市民性教育」が提唱され、中等教育の必修科目になっています。またヨーロッパでは、選挙権を与える年齢を16歳に引き下げようとする運動も広がっています。
  

  
 一方で日本には、こうした政治教育や運動は、ほぼ見当たりません。学校教育では、民主主義の理念や、衆議院・参議院の定数などを教えることはあっても、具体的な政党名や政策を挙げて、現実政治の知識を学ぶ機会は、ほとんどありません。また家庭でも、食卓を囲んで政治を議論するような場面は、あまりないでしょう。
 例外なのは、創価学会の皆さんかもしれません。以前、学会青年部のイベントに招かれた際に、学会員の家庭では、選挙や政治の話を頻繁にすると聞きました。そういう環境があることは、良いことですね。
  
 ――創価学会第2代会長の戸田城聖先生は、「青年は心して政治を監視せよ」と教えました。この言葉は、私たちが政治に関わる上で、重要な指針になっています。
  
 私はこれまでも、創価学会の皆さんが公明党も含めた政治に対し、きちんと意見している姿を見てきました。それは良いことだと思います。
 一方で、社会全体としては、多くの人が現実政治についての知識が乏しい状況です。もちろん、教員の地位を利用した選挙運動や、特定の政党に偏った教育は認められません。その上で、学校教育において創意工夫を凝らして、現実の政党や政策について理解するための授業が作られていけば、それが日本の民主主義の底上げになるはずです。そうした政治教育を行うための共通認識と環境づくりが必要だと考えています。
  

  
 何も難しいことではありません。まず知っておいてほしいことは、ただ一つです。それは、「政治は私たちの生活と密接に関係している」ということです。政治が自分の生活に関わらないと考えるのは、端的な間違いだからです。
 さまざまな仕事やビジネスの在り方は、「業法」と呼ばれる法律によって定められています。例えば、鉄道会社が運賃やダイヤを変更するときは、国土交通省に届け出なければなりません。また最近、国立大学の授業料の値上げが議論されていますが、その引き上げ額は文部科学省の省令で決められています。
  
 こうしたルールを変えるためには、政治家が動いて、法律を変える必要があります。つまり、政治や行政でしか解決できない課題があるということです。
 政治への不信が「諦め」に近い状態にある今、自分たちの生活と政治はつながっていると認識できれば、まずはそれだけでも十分でしょう。たとえ短い時間であったとしても、政治に「目を向ける」ということは、政治への関わり方として大切です。
  

■「政教分離」についての誤解——憲法リテラシーの問題

  
 ――これまで、創価学会と公明党の関係について、憲法20条の「政教分離」の原則に反するかのような誤解・曲解に基づいて、いわゆる“政教一致”批判も繰り返されてきました。
  
 日本国憲法における「政教分離」は、統治機構(政府)が特定の宗教を排除・弾圧したり、優遇したりしないことを定めたものです。国民の自由な信仰や、宗教団体の政治活動を阻害するためのものではありません。
 ゆえに、「政治と宗教は関わるべきではない」と捉えるのは、誤った認識です。つまり、政教分離にまつわる批判は、憲法リテラシー(情報を読み解く力)の低さの問題ではないでしょうか。
  

  
 キリスト教が広く普及したヨーロッパでは、宗教政党が当たり前のように存在しています。例えばドイツには、「キリスト教民主同盟」や「キリスト教社会同盟」という政党があり、与党になることもあります。また、イギリスのように国教を定めている、政教一致の国もあります。
  
 ともあれ、本来、政治が目指すべきは「国民益」の拡大です。しかし現実には、政府が考える「国家益」は、必ずしも「国民益」と合致するわけではありません。国家と国民の間に利益の違いがあるならば、両者をつなぎ留める役割が必要になります。現代の創価学会は、学会員にとどまらない幅広い生活者の要望をすくい上げ、政治につなげており、広く国民益を実現する役割を果たしています。
  

■創価学会は「隠れたマジョリティー(多数派)」

  
 ――創価学会は宗教的価値観をもとに、平和・文化・教育など、幅広い活動を行っています。学会が、日本社会の中で果たすべき役割とは何でしょうか?
  
 かつては日本でも、職能団体や労働組合、地域コミュニティーなどが、国家と個人を結ぶ「中間集団」として機能していました。宗教団体も、その一つです。
 宗教は、人々に心理的な安らぎや、自分を承認してくれる居場所を提供し、それらを通して社会に安定をもたらす社会的役割を担っています。
 しかし、現代では中間集団の多くは、活発ではなくなっています。そうした中で、創価学会は会員数も多く、分厚い中間集団です。また、宗教団体の多くにおいて、設立初期に社会との摩擦が少なからずあるものですが、現在の創価学会は社会と調和し、安定して存在しています。これは、他の新興宗教との大きな違いだと思います。
  
 戦後の日本社会は、経済状況が基盤となって、人々のつながりを支えました。けれど、今の日本は、今後の急激な経済成長、国際競争力の向上などを見込むことが難しい状況です。少子化や高齢化も進んでおり、近年は物価高にも直面しています。厳しい状況は、数十年から100年単位で続く可能性もあります。
  

  
 こうした苦難の時代において、経済以外で、人がつながり、自分の存在を承認され、孤立を防ぐ居場所が重要になってきます。宗教や宗教的連帯は、うまく機能すれば日本社会の不安定性に対抗する足がかりになるともいえるでしょう。
 宗教社会学は、社会と宗教は、お互いに存立する基盤を提供し合ってきたと説明します。ゆえに、社会と共存できない宗教、つまり破壊的・暴力的であるような極端な宗教は、許容されません。その点でも、数十年にわたって、社会との安定的な関係を持っている創価学会は、他に類を見ない存在だといえるでしょう。
  
 私は、創価学会を「隠れたマジョリティー(多数派)」と考えています。会員の多さや多様さを包含する、その存在は実は多数派です。「隠れた」というのは、存在感が大きいにもかかわらず、その活動内容が一般にはあまり知られていないという意味です。だからこそ、創価学会の皆さんには、より積極的に活動を社会に発信し、コミュニケーションすることを期待したい。
  
 インターネットが登場する以前は、マスメディアが人々をつなぐ役割を担っていました。新聞やテレビを通して、多くの人が共通の話題や情報に触れていました。しかし、現在はネットが中心になり、どんな情報やコンテンツを見ているかは、人によってさまざまです。共通性を持ったコミュニケーションが難しくなり、時代はあまりにも多様になっています。
 そうした多様性が大きく進んだ社会においては、人々をつなぎ合わせる機能が、希少な価値を持ちます。その意味でも、創価学会は日本社会の中で、重要な役割を果たす存在だと考えます。
  

 にしだ・りょうすけ 1983年、京都府生まれ。日本大学危機管理学部教授。東京科学大学特任教授。慶應義塾大学大学院博士課程単位取得退学。博士(政策・メディア)。専門は公共政策の社会学。情報と政治、ジャーナリズム等を研究。著書に『17歳からの民主主義とメディアの授業』(日本実業出版社)、『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)など多数。
  

  
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