企画・連載
〈ライフウオッチ〉 ルポ 就職氷河期世代と信仰② 2025年8月28日
現代社会の課題を見つめ、学会活動の価値を再考・再発見する「ライフウオッチ」。1990年代半ばから2000年代前半に社会へ踏み出し、未曽有の就職難に直面した「就職氷河期世代」の一人一人に、創価学会の信仰はどのような希望をもたらしてきたのでしょうか。2人の女性部員の歩みを通して見つめます。(記事=小野顕一)
1990年代、バブル経済の崩壊は日本の雇用環境を大きく揺るがした。
企業は採用を急速に絞り、非正規雇用が徐々に増加。派遣や契約社員として働き始めると、正社員への転換は難しく、職を転々としながらキャリアを歩まざるを得ない。
その影響は今なお、就職氷河期世代に重くのしかかっている。
尾上純子さん(東京・練馬栄光区、地区女性部長)が大学を卒業したのは、1999年。高知から上京し、東京の音楽大学でフルートを専攻した。
「大学の掲示板に出ていた求人は、前の世代に比べて、ずっと少なく感じました」
音大を出たからといって、すぐに音楽で生計を立てられるわけではない。プロのオーケストラに入れるのは、ほんの一握り。尾上さんも飲食店等でアルバイトをしながら、吹奏楽の指導や結婚式場での演奏を続けた。しかし収入は安定せず、生活は次第に厳しさを増す。
高額な学費を奨学金でまかなっていたため、その返済も始まっていた。食費を切り詰めるのはもちろん、遠方の演奏会場にも自転車で向かい、新幹線ではなく普通列車を選ぶなど、交通費も節約を重ねた。
「でも、音楽と信心は一生続ける。そこだけは揺るぎませんでした」
30歳を前に地元へ戻る選択肢も浮かんだ。
学会の富士交響楽団の先輩に相談すると、「生活の基盤を固めれば、音楽活動は続けられる。生まれ変わったつもりで祈ろう」。
東京での挑戦を決心した。
尾上さんはハローワークに通い、志望先で面接に臨んだ。
しかし、経歴に話が及ぶと、「それなら音楽を続けた方がいいんじゃないですか?」と突き放された。
正社員への道は遠く、人材派遣会社への登録を余儀なくされる。
「“楽器しかやってこなかった”という負い目がありました。人づてに頼んでビジネスマナー研修を受けたり、パソコンの基本操作を教わったり。必死でした」
同世代の多くも大卒後に正社員になれず、派遣や契約社員として働いていた。
就職氷河期世代は初職の正規雇用率が前後の世代に比べて低い。特に女性は、さらに不利な状況に置かれていた。
それでも尾上さんは時間を工面して祈り、学会活動にも全力で取り組んだ。同じアルバイト先で出会った同世代の学会員と近況を分かち、励まし合って気持ちを支えた。
2005年、尾上さんはIT企業で派遣社員として働き始める。
「派遣は半月ごとに給料が入るので、やっと生活に見通しが立ちました」
しかし現実は厳しかった。業務をなかなか理解できず、「仕事をなめているのか」と叱責された。
「“まず3年続けよう”と思っていたんですけど、“とにかく1年は辞めない”と目標を下げました」
当時は「派遣切り」が社会問題化した時期である。
2008年のリーマン・ショック後、「雇い止め」も相次いでいた。
尾上さんの部署は、正社員と同等の仕事量が課せられており、逆に仕事を失う不安は少なかったという。
だが職場の人間関係に悩み、誰とも一言も話さない日が続く。ストレスで動悸が止まらないこともあった。
そんな日々を支えたのは、同志の絶え間ないエールだった。大学の同窓、音楽家の先輩、同じく仕事に悪戦苦闘する友……。
「どんな時も、どんな所にも、私の明日を信じ、励ましてくれる人がいた」と尾上さんは振り返る。
人間関係を見つめ直す中で気付いたことがある。「理不尽にしか思えない言動も、相手の立場に立てば違って見える。そこに気遣いがあれば、ふっと空気が和らぐ」
この時、尾上さんの胸にあったのは、池田先生が“「はたらく」とは「はた(周囲)を楽にすること」”との言葉を引いて語った指針だった。
「牧口先生は3種類の人間がいると言われた。
『いてもらいたい人』『いてもいなくても、どちらでもよい人』『いては困る人』。
君たちは『いてもらいたい人』になりなさい。
職場で好かれる人に、頼られる人になることです」
「どうしたら周りの人を楽にしてあげられるか」――その意識は、同僚への感謝やねぎらいの言葉となり、職場のムードはいつしか温かく変わっていった。
やがて、派遣社員から契約社員への切り替えを打診される。派遣には上限年数があるが、それ以上に尾上さんの働きぶりが評価された証しであった。
「音大出身で片手間で働いていると思われたくなかった。“いてもいなくてもいい人”ではなく、“一番いてほしい人”になりたかったんです」
努力を重ねた末、尾上さんは正社員登用試験に合格。2013年、ついに正規雇用となった。その背中は後輩たちの模範となり、何人もが後に続いている。
そして2023年にはマネジャーに就任。30人をまとめる存在となった。
かつて厳しく指導をされた仕事の先輩も、今では最大の理解者として尾上さんを支えている。
「仕事の仲間は“第2の家族”。本当の家族より一緒にいる時間が長いかもしれない。だからこそ、ここでの時間をいいものにしたいんです」
平日は夜遅くまで職場に身を置き、週末は音楽活動に打ち込む尾上さん。仕事と音楽――その両方が最高に充実しているという。
「“信心に一つも無駄はない”っていいますよね。本当にその通りだと実感しています」
「もう人生、終わったなっていうか。目の前が真っ暗でした」――宮坂佳織さん(東京・港太陽区、白ゆり長)が崖っぷちに追い込まれたのは、大学4年の年末だった。
中学からバレーボールの強豪校に進み、全国大会やインターハイ、春高バレーの常連として活躍。大学もスポーツ推薦で進学し、着実に成果を重ねて、夏には実業団への内定を勝ち取っていた。
だが2001年大みそかの前日、電話口で告げられたのは、実業団の廃部による「内定取り消し」だった。
卒業論文も書き終え、後は卒業を待つばかりの時期。宮坂さんは「“明けましておめでとうございます”も吹き飛びました」と述懐する。
この時期、就職難は深刻さを極めていた。
就職氷河期世代の新卒就職率は平均69・7%と、前後の世代に比べて10ポイント程度低いが、とりわけ1999~2003年度は50%台半ばまで落ち込んだ。
新卒採用ゼロや内定取り消しも珍しくなく、本年春に卒業した大学生の就職率が98・0%であることを考えると、その厳しさは歴然としている。
年が明け、片っ端から企業を訪ねるも、就職先は決まらず、進路未定のまま卒業式を迎えた。
ただ心は折れなかった。
自身のけがと家庭の経済危機を唱題根本に乗り越えた確信があり、苦しい時はいつも同志がそばにいてくれた。
駆け込みで決まったのは英会話学校の営業職。努力が実り、入社5年目には営業成績1位を収めるまでになった。
だが、その直後に会社は経営破綻。
「費用を頂いたのに、授業を提供できないという状況でした。私が被害者を増やしてしまったと、強く自分を責めました」。
英会話業界は、景気低迷で大手が破産するなど、会社が相次ぎ倒れていた。
スポーツ関連企業に就職したいと祈り、スポーツテーピングを扱う会社への就職を果たすも、海外拠点の生産不備により1年余りで倒産。飲食店のアルバイトで生活をつなぐ。
2008年にスポーツマネジメント事務所にアルバイトとして入り、翌年、正社員に。
日本のプロ野球選手をはじめとするアスリートらのマネジャーを5年間務めたが、異動してきた上司とうまくいかず、退職を選んだ。
「どうしてこんなに仕事で悩まなければいけないのか。自分のせいならまだしも、なぜここまで追い詰められるんだろうって」
ふさぐ心に飛び込んできたのは、戸田先生が池田先生に語った、「人生は悩まねばならぬ。悩んで初めて信心もわかるんだよ」との言葉だった。
池田先生は記している。
「『悩む』とは、本気で生老病死の宿命と格闘することです。翻弄され、嘆き悲しんでいるだけでは、宿命を破ることなどできません。宿命は、勝って乗り越えるために存在しているのです。仏法の眼から見れば、宿命は、妙法の偉大さを証明するための『方便』です。全部、仏の生命を涌現し、自分の使命に目覚めるためにあるのです」
宮坂さんの祈りに熱がこもる。
「悩むことに抵抗がなくなりました。思いっきり悩んで、思いっきり祈れば、次が開ける。悩むってすてきなことなんだとさえ思えました」――大学時代から継続してきた年100万遍の唱題は、目標を大きく超えて続いた。
転機は2013年の夏。今までに経験のない広告会社の採用に挑戦し、契約社員として働き始めることに。2018年には希望していた同じグループのスポーツマーケティングの会社に正社員として転職し、多数のアスリート、スポーツ関連業務の経験を積むことができた。
「マネジメント事務所側の気持ちも選手側の気持ちも分かる。両方に寄り添えるから一番いい仕事ができる」――これまでの経験が結実し、昨年度は社長賞を受賞したプロジェクトにも携わった。
就職氷河期世代は40~50代半ばに入り、親の介護に直面する人が増えている。
上の世代に比べ、きょうだいが少なく、単身者が多いことも、負担が集中する要因という。
この世代で介護に向き合う人は、今後10年間で約75万人から約200万人に増える見込み(日本総研)で、介護離職の問題も指摘される。
宮坂さんが介護を担ったのは2022年2月。仕事が軌道に乗り、国内外を飛び回っていたさなかのことだった。
母(佳津子さん)がやけどを負い、その後、脳梗塞などを発症。認知症も進行した。翌年には救急搬送が9回に及んだ。
母子家庭で育ち、一人っ子だった宮坂さんには、頼れる家族がいない。
施設から自分以外の緊急連絡先を求められても書くことができず、入居を断られたこともあった。
母は大使館に定年まで勤務し、宮坂さんにありったけの愛情を注いできた。
「私のために仕事を遠慮しないで」と母は繰り返したが、宮坂さんは「仕事も介護も一歩も引かない」と心に決めていた。
出張に出る時は後ろ髪を引かれる思いだったが、その間は不思議と母の調子が良く、祈りに守られているように感じたという。
それでも、スマートフォンの見守り機能に映る母が、自分の名前を呼び続けるのを目にした時は、居ても立ってもいられなかった。
宮坂さんの祈りに包まれ、母が息を引き取ったのは2024年8月9日。
最後に自然と母に投げかけた言葉は「信心させてくれて、ありがとう」だった。
「もちろん“育ててくれてありがとう”なんですが、母と一緒に信心を貫けたから、ここまで来れたと思うんです」
宮坂さんが抱き締めてきた『青春対話』の一節がある。
「悩んだ人のほうが、その分、人の心がわかる。人生の深さがわかる。だから『負けない』ことです。負けなければ、苦しんだ分だけ、将来、必ず大きな花が咲くのです」
宮坂さんが言葉を継いだ。
「ちょっとやそっとのことじゃ絶対負けない自分になれた。自分で悩んでつかんできたことだから、それは間違いないって断言できます」
本年4月、宮坂さんは新しい部署に異動した。
これから積み重ねる経験もまた、自らの力をさらに磨く糧となることを確信している。
2人の女性部員が、いずれも「無駄なことは一つもなかった」と口にしていたのが印象的だった。
就職氷河期世代という厳しい時代、理不尽ともいえる現実の中でつかんだ深い実感に思えた。
尾上さんは「働くとは、はたを楽にする」と視点を転じ、後輩たちが続く道を開いた。
宮坂さんは内定取り消しや2度の倒産を経験しながらも、「悩んで初めて信心もわかる」という確信を胸に、自らの道を切り開いていった。
その背後には、困難からも価値を見いだし、自身の未来を信じさせてくれる師の言葉と、同じ時代を生き抜く同志の存在があった。
人生の曲がり角で重ねた一つ一つの選択が、今の姿につながっていた。
生きる時代は選べない。だが、生き方は選べる。
2人の歩みは、そのことを力強く物語っていた。
〈参考文献〉近藤絢子著『就職氷河期世代』中公新書、下田裕介著『就職氷河期世代の行く先』日経BP・日本経済新聞出版本部。