企画・連載
〈SDGs×SEIKYO〉 「自分探し」から「生き方探し」へ――屋久島のトビウオ燻製職人 2023年1月12日
鹿児島県の屋久島でトビウオなどの魚を燻製にして販売する田中啓介さん(49)=先駆長(ブロック長)=は、バックパッカーとして世界各地を旅し、屋久島に根を下ろしました。「自分探しの旅」の果てにたどり着いたのは、「自分のためだけでなく、誰かのためにも人生を使う」という生き方でした。(今回はSDGsの8番目の目標「働きがいも 経済成長も」について考えます。取材=石塚哲也、内山忠昭)
「働きがい」――それは“好きなことを見つけて、仕事にすることだ”と、若き日の田中さんは考えていた。大学までは「多くの人が歩む社会のレール」の上を歩んできたが、その先にある、人と同じ生き方は「面白くない」と感じた。
大学卒業後、「自分探しの旅」に出た。オーストラリア、インド、タイ、岐阜、北海道……。旅先で人の話を聞くことで、「自分も何かを実践したい」と思い始めた。国内外を巡り、腰を下ろしたのが屋久島だ。野菜を育て、まきを集め、さらにトビウオ漁船の乗組員になった。大自然に囲まれた充実の日々を過ごす中、思いもかけない出来事があった。
2007年、漁船の係留ロープにつまずき、左ひざを複雑骨折した。医師からは「しゃがむ姿勢は難しい。漁船には戻れないだろう」と告げられた。仕事ができず、将来に不安を覚えた田中さんを支えたのは、創価学会の先輩たちだった。
田中さんは島に住む「近所のおばちゃん」から折伏を受け、骨折の前年に入会していた。ある男子部の先輩は、田中さんが入院している鹿児島市内の病院に、島から見舞いに来てくれた。「一緒に信心で乗り越えていこう。題目だよ」。言葉と真心がうれしかった。
その感動から、積極的に学会活動に取り組むようになる。会合へ参加したり、座談会の司会を買って出たり、先輩の訪問・激励にも同行したり。毎日の勤行・唱題も、欠かすことなく行うようになった。祈る中で、また先輩が学会の友を励ます姿に接する中で、田中さんは、自分自身に変化を感じたという。
「けがをして、これまでの生活ができなくなり、“俺はどう生きたいんだろう?”と悩みました。自分の充実も大切。その上で、もう一段突き抜けたかった。学会の先輩のように、人や地域に尽くす生き方を、俺にできることで表現したらと考えるようになりました」
以前から、取れた魚の中で、傷や規格に満たないなどの理由から出荷されないトビウオの存在が気にかかっていた。“海の恵みを無駄にせず、おいしく食べる方法を広めたい”と、トビウオの燻製を思い立った。けがから2年後の09年、漁船の乗組員を辞め、「くんせい屋 けい水産」を起業した。
開業から13年、島に来てからは21年が過ぎた。経営を軌道に乗せることはもとより、仕事の中身も改善を重ねた。
例えば、燻製に使用するスモークチップは、台風などで折れた桜の木を再利用。これは地元住民からの「倒木に困っている」という声に応えて生まれた。田中さんは「食材だけでなく、製造工程にも“地産地消”を実現したい」と。
トビウオのみならず「魚食」の普及活動にも加わった。島内の小・中学生や全国の大学生を相手に課外授業を行い、屋久島の広報活動にも取り組む。2児の父でもある田中さんは、「子どもたちの未来のためにも挑戦し続けたい」と語る。
今、田中さんが作る燻製は、屋久島を代表する名産品になった。元来の島の名産であるトビウオから、燻製というさらなる逸品を生んだ“持続可能な経済成長”の歩み。それは「偶然ではなく必然」と田中さんは感じている。
日蓮大聖人の御書の一節に「人のために火をともせば、我がまえあきらかなるがごとし」(新2156・全1598)とある。人のために尽くす哲学にたどり着いたからこそ、生計を立てられる仕事も自らつくり出すことができた。
燻製を作る過程で、使わなかった部分は自分たちの食材にしたり、近隣の農家からもらった果物でジュースを作ったり。島の暮らしには、「生活の糧になるものが尽きることがなく、やりたい知恵もどんどん湧いてくる」と田中さん。
「自分探し」の旅は「生き方探し」となった。今は、好きなこと、なりわい、地域貢献を兼ね備えたSDGs達成への道を、一歩ずつ進んでいる。
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