「青年不戦サミット(第35回青年平和連絡協議会)」が6月13日と14日、沖縄で開催され、全国の代表が、平和と核兵器廃絶を誓いました。「最も苦難を味わった広島・長崎・沖縄が平和をテーマに継続的な協議会をもってはどうか」との池田先生の提案を踏まえ、1989年(平成元年)に3県の代表による、「3県平和サミット」が広島で行われました。以来、3県で巡回開催され、2015年(同27年)からは「青年不戦サミット」との名称に。本年の模様を紹介します。
ガマの中に入って
1945年(昭和20年)3月に始まった沖縄戦は、住民を巻き込んだ地上戦で、県民約9万4千人を含む20万人以上の人が犠牲に。県民の4人に1人が亡くなった。住民はガマ(自然洞窟)などに避難したが、米軍の無差別攻撃や、日本軍による食料の強奪、壕からの追い出し、スパイ視による虐殺や拷問を受けた。米軍に捕まれば殺されるという恐怖から、多くの人が集団自決(強制集団死)に追い込まれた――。
那覇空港に集合したサミット一行は、最初に、糸数アブチラガマ(南城市)へ向かった。中は、光が届かず、懐中電灯の明かりを消せば、目を開けても閉じても同じ暗闇が広がる。足元の岩場はところどころ水たまりがあり、ぬかるんでいた。天井には、沖縄戦当時の爆発でめり込んだと思われる一斗缶が。奥へと進むと、避難していた人々が使っていた食器などの遺物や、カマドなどの跡が残る。内部を見渡して感じる息苦しさや、恐怖感。ここで何カ月も死と隣り合わせの日々が繰り返されていたことを想像して、目をふさぎたくなった。
「ひめゆりの塔」と「平和の礎」
次に向かったのは、ひめゆり平和祈念資料館と平和祈念公園だ。日本軍は兵力不足を補うため、住民を「根こそぎ動員」した。那覇市にあった「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からは、生徒・教師240人が看護要員として動員され、うち136人が亡くなった。2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後、彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれた。患者の手当てや世話を、休みなく続けていたという。
展示室には、亡くなった人たちの名前や、かつての日常の写真も展示されていた。皆に家族があり、将来があった。陸軍病院の分室であった糸数アブチラガマを、直前に訪れていただけに、命や日常の尊さが、より強く感じられた。
師匠の魂のバトンを受け継ぐ協議会