1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下された。爆風と熱線は一瞬で街を壊滅させた。目に見えない放射線は人体をむしばみ、その年のうちに約14万人もの命が奪われたとされる。生き延びた人々も、白血病やがんへの不安、被爆者への差別や偏見に長く苦しめられた。あれから81年、当時を知る人は年々少なくなっている。21歳で被爆した清水笑香さん=東京都大田区、地区副女性部長=は、102歳。爆心地から約2キロの職場で被爆した。「あの日」の残酷な光景を、2人の孫へ折々に語り残してきた。
「地獄絵図」さながらの光景
1924年(大正13年)、清水さんは広島県賀茂郡(現・東広島市)で生まれた。4人きょうだいの3番目。生家は農業を営み、生活には困らなかった。尋常高等小学校を終え、女学校進学を機に広島市にある叔父夫婦の家に下宿した。「親元を離れた寂しさはあったけど、叔父も叔母もとてもかわいがってくれてね」。子どものいなかった叔父夫婦に望まれ、卒業後は養子となった。
その間も、戦火は忍び寄っていた。家から近い宇品の港(現・広島港)からは、兵士が次々に出兵していく。軍に入隊する弟を、泣きながら万歳して見送ったことは今でも忘れない。やがて清水さんは、たばこをつくる広島地方専売局の事務職として働き始める。原爆投下の2カ月前だった。
1945年(昭和20年)8月6日朝。その日は、いつもより早い時間の市電に乗って職場へ向かった。専売局の購買店で買い物をし、2階の自席に戻った時だった。強烈な閃光と爆音。“お母さん、助けて!”――顔を上げると、床一面にガラスの破片。その一片が自分の腕に突き刺さっていた。
1階へ下りると、全身やけどを負った人が診療所に助けを求めて、集まっていた。爆心地付近から逃げてきたのだと後になって知った。爆風で洋服もちぎれ、皮膚はだらりとぶら下がっていた。「痛い、痛い」と泣き叫ぶ悲鳴が耳朶から離れない。
友人と天神町にある自宅の方へ向かった。家は爆心地から500メートルの場所にあった。道は遺体であふれていた。下を向き呆然と歩く人。皮膚が溶け落ちていて誰だか分からない。養父ではないかと顔をのぞきたかったが、怖くてのぞけなかった。防火水槽に頭を入れたまま動かない人、電車のつり革にぶら下がったままの人……。まさに「地獄絵図」さながらの光景だった。あまりの熱気と炎に阻まれ、引き返さざるを得なかった。避難した防空壕で、一睡もできずに夜を明かした。
数日後、田舎にいた実の両親と再会できた。養父母の家を訪ねた父から、2人が白骨となって見つかったことを聞いた。清水さんは泣き崩れるしかなかった。
何があっても信心を貫く
終戦から数年後、広島出身の夫・甫迪さん(故人)と見合いで結婚。夫の勤め先の関係で東京・大田区へ移った。