1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。80年がたち、被爆者の生存者の数が減少する中、世界では今、核兵器使用のリスクが高まっています。
サーロー節子さんは、「あの日」を広島の地で体験し、ヒバクシャとして世界中で自身の体験を語り、反核運動を続けてきました。
「あの日」を繰り返さないために、私たちはこれからどう生きていくべきか――広島で生まれ育った、本社所属のスチューデントリポーター「きんつば」(ペンネーム)が、話を伺いました。
反核運動の原点
――サーローさんは、世界中で自らの体験を語り、2017年に核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞された際には、被爆者として初めて授賞式で演説されました。長年にわたる活動の原点を教えてください。
1945年、私は広島女学院高等女学校(現在の広島女学院中学・高校)の2年生でした。前年から勤労動員が実施され、私は1945年7月、第二総軍司令部の暗号班に配属されました。
8月6日は、訓練を終え、暗号解読の助手として作業する初日でした。出勤し、木造の建物の2階に上がり、いよいよ作業という時、すさまじい閃光に包まれました。机の下に隠れようと思った時には、爆風で体ごと吹き飛ばされ、意識を失いました。
第二総軍司令部は爆心地から1・8キロの距離にあり、建物は倒壊。意識を取り戻すと、がれきに挟まれて動けなくなっていました。
静寂の中で「お母さん」「神様、助けて」という同級生の声が聞こえました。私は「このまま死ぬのだろうか」と考えました。その時、誰かが私の左肩をつかみました。
「諦めるな。動いていけ。光が見えるだろう。這って行くんだ」――声の主の顔は見えません。わずかに光が差す方向を目指し、外に這い出ました。外は原爆によるきのこ雲で、夜のように暗くなっていました。市の中心部から、大やけどで皮膚がずるむけになった人々が向かってきました。髪が逆立ち、腹から内臓が飛び出した人が、よろよろと歩き、倒れこむ。それは、地獄絵図でした。
原爆の強烈な熱線は、爆心地から3・5キロ離れたところにいる人にもやけどを負わせ、1・2キロ以内で遮るものがないまま直撃すると、ほとんどの人が数日内に死亡しました。
爆風は約2キロ離れた木造家屋をも倒壊させました。そして大量の放射線は人体の奥深くに入り、爆発後に救護に関わった人々にまでも、死や障がいをもたらしました。1945年末までに人口約35万人だった広島で約14万人が死亡したと推定されていますが、正確なことは分かっていないのです。
――インタビューに際して、サーローさんの著作を読み、初めて社会に向けて声を発せられたのは、私(スチューデントリポーター)と同じ年ごろの学生時代であったと知りました。
広島女学院(中・高・大)で10年間学んだキリスト教の思想から、道徳的な責任感を持って、社会に貢献したいと思って育ちました。戦争が終わった後には、両親も家族もいない子どもたちや戦争から帰ってくる兵隊たち、夫の帰りを待ち続ける妻たちなど、多くの広島の人たちが苦しみました。私は、こうした危機に奔走して対処する大人たちの姿を眺めていました。
北米で反核運動を始めたきっかけは、1954年8月のアメリカへの留学です。その時分は、3月にアメリカが太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船・第五福竜丸が被ばくするという事件が起きていました。私がアメリカに到着して早々に、地元の新聞記者たちに、事件について感想を聞かれました。私は正直に、「広島と長崎で原爆は終わりにしなければならない」「人間と環境にどういう問題を引き起こすかアメリカは考えるべきだ」と思いを全部ぶつけました。
するとその記事が出た翌朝から、匿名の脅しの手紙が届くようになりました。「アメリカの政策に反対の者は日本へ帰れ」と。この社会で生きていくことができるのか不安で、恐怖を感じました。広島の体験について口を閉ざすべきなのか、と苦しみました。
しかし、1週間、自分の心を探って、最後には、「私が口をつぐんでしまうと、核兵器の恐ろしさを世界に伝える者がいなくなる。私は、脅しには屈しない」と結論しました。
今考えると、「1週間苦しんだだけで、よく、その勇気が出たね、節子」と、若い頃の自分の背中をたたいてあげたいと思う。
それから、何十年も同じように核廃絶の理由を皆さんに伝えてきました。
カナダ人の教師と結婚し、ソーシャルワーカーとして働きながら、被爆体験の講演を行い、新聞への意見広告を出し、展示活動も行いました。何一つとして、決して容易ではありませんでした。
時々人知れず涙を流したこともあります。私を支持してくれた夫がそばにいて、見守り励ましてくれました。
異なる見解の人々へ
――現在、“相手を殲滅できる強大な核兵器を持つことで、他国に攻撃を思いとどまらせる”という「核抑止論」のもと、核軍拡が進む懸念が広がっています。核抑止を主張する人たちに、サーローさんはどのように反論・対話されていますか。