終戦から10年となる1955年。自由民主党と日本社会党による「55年体制」が始まり、日本政界は転換点を迎えます。時を同じくして創価学会は、統一地方選(55年)、そして参院選(56年)に候補者を擁立します。連載「クロニクル」(年代記)の第9回は、創価学会の政治参加と池田先生の足跡に光を当てます。
55年体制の始まり
1952年に独立を果たした日本の政界では、保守と革新の対立が深まった。当時、政権を担っていた保守陣営の政策を、戦前の体制に回帰しようとする「逆コース」として革新陣営は批判した。
その一つは、占領軍が去った後の治安維持だった。占領解除から3日後の52年5月1日には「血のメーデー」と呼ばれる大規模暴動が起きた。こうした事態に対し、政府は、7月に破壊活動防止法の制定や警察の取り締まり権限の強化などを行った。54年には、「自衛隊」を発足させ、“再軍備”に踏み切った。保守陣営を中心に、日本国憲法の改正や自主憲法の制定などの議論も高まっていく。
55年10月、保守政権による「逆コース」に対抗するため、左右に分裂していた日本社会党の再統一が行われた。対して、景気回復のためにも政治の安定が必要と考えた経済界は、革新勢力の合同に危機感を抱き、保守勢力の合同を要請。同年11月、日本民主党と自由党が合流して自由民主党が誕生する。こうして保守陣営の自由民主党と、革新陣営の日本社会党が対立する「55年体制」が始まる。
経済団体連合会(経団連)を中心とする財界からの支援を受けていた自民党は、加えて小規模自営商工業者や農民といった旧中間層を基盤とした。一方、労働組合が支援団体についていた日本社会党は、都市高学歴層や比較的所得の高いホワイトカラー層(新中間層)から多くの票を得ていた。(参照:境家史郎著『戦後日本政治史』中央公論新社)
社会参画する宗教者たち
1945年8月の敗戦、そして、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民主化政策により、戦時下の弾圧から解き放たれた宗教団体の社会運動や政界進出が活発になった。46年4月に行われた戦後初の衆議院選挙では、既成仏教や天理教の関係者らが立候補し、当選を果たす。
他にも、自前の政党をつくったり、特定の政党を応援したりして、政治に関与する動きが見られた。しかし、50年代には政治進出を断念する教団が現れるなど、宗教者の政治への関わりは試行錯誤が続いた。
戦後10年がたち、56年の経済白書には「もはや戦後ではない」との言葉が記載されたが、経済成長に取り残され、生活苦にあえぐ庶民は少なくなかった。「55年体制」を支える自由民主党と日本社会党の両党は、新旧の中間層を支持基盤とした。そのため、経済成長に取り残された民衆の声は政治に届かなかった。その中にあって、創価学会は、55年の統一地方選で政治参加の第一歩を踏み出す。各地で候補者を立て、53人が当選を果たした。
運命の一戦に臨む
「55年体制」に、多くの民衆が取り残されていた。その声を国政に届けるべく、創価学会は、56年7月に実施される参議院選挙に同志を推すことを決め、その準備を進めた。戸田先生は、参院選の大阪地方区の勝利のため、池田先生を責任者に登用する。
当選ラインは20万票以上。大阪の会員世帯は3万に満たない。まさに不可能を可能へと転ずる挑戦となった。池田先生は、「一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり」(新1099・全790)との御書を生命に刻み、「運命の一戦」に挑んだ。
56年1月2日、祈りを重ねる中、先生の脳裏に「法華経とは将軍学なり」との一節が浮かんだ。先生は、あくまで勝利の要諦は信心に尽きると確信した。そのための実践が、一人でも多くのメンバーに会い、渾身の励ましを送ることだった。
池田先生は関西の幹部を前に語った。「どうか、会員の一人ひとりに、直接、会って、よく話を聞いてあげ、今の悩み深い境涯から、信心によって必ず脱出できることを、真心込めて懇切に話してあげてください」「決して焦ることはない。来る七月の戦いのことなど話す必要は、いささかもありません。皆さんは、関西の指導者として、一人の会員も漏らさず、懇切に指導することを、今は、お願いしておきます」