ロシアによるウクライナ侵攻が続く欧州では核攻撃の脅威を見据え、核兵器の輸入や製造禁止の緩和を進める国も現れ、日本国内では非核三原則の見直しを訴える声さえ上がる。こうしたなか、まもなく広島への原爆投下の8月6日を迎える。『広島平和記念資料館は問いかける』の著者で、同資料館元館長の志賀賢治氏に“原爆資料館”が伝える被爆の実像、遺品など展示資料に込められた思いを聞いた。
固有名詞で語られる遺品
資料館の展示の多くを占めるのは、被爆の傷痕を残す瓦や石などの資料と犠牲者の遺品です。遺品には持ち主や被爆の状況、場所などが記され、犠牲者のさまざまな物語や寄贈された遺族の思いが込められています。
血染めのブラウスは妹さんが結婚する姉に贈ったお祝いでした。母のタンスに大切にしまわれていた綿入れは、目にすることのなかった兄の形見。高齢となった遺族はその大切な遺品を、あとに残したい、二度とこうした悲劇は繰り返してほしくないという思いで資料館に預けてくださっています。これほど固有名詞で語られる遺品が展示される例は他に見られないのではないでしょうか。
「原爆資料館(広島平和記念資料館)」は、1955年に開館しましたが、その出発点、原点には初代館長を務めた長岡省吾の存在があります。地質学研究者だった彼は原爆投下の翌日から広島市内で被爆資料の収集を始めますが、それは科学的な関心から始まりました。しかし、その収集の範囲は、次第に犠牲者の衣類などの遺品にも広がっていきました。彼の科学者としての執念は原爆が人間にもたらした悲惨も含めて被爆の全体像を把握したいという思いへ変わっていたのだと私は考えています。
さらに長岡とともに多くの職員が資料の収集に尽くし、遺族から大切な遺品をお預かりすることで、資料館の展示はでき上がってきました。原爆の被害を明らかにし、核兵器を廃絶することに資料館の目的があるのはもちろんですが、それ以上に、原爆が奪い去った人々の人生を記憶し続ける役割が資料館にはあるのではないか――お預かりした遺品の一点一点が、そう訴えかけているように私には感じられます。
熱線が残した人影から