企画・連載

【電子版先行】〈時評 いまを読む〉第3回 「中間団体」の社会的役割とは 立命館大学 富永京子准教授 2026年1月28日

 分断や孤立が語られがちな社会では「国家か個人か」「市場か自己責任か」といった二項対立が強調されやすい。しかし、その間にあったはずの存在について、私たちはどれだけ意識してきただろうか。労働組合や宗教団体、地域組織といった「中間団体(集団)」は、時代遅れとみなされながらも、声になりにくい不安や違和感を受け止め、人と社会をつないできた。「時評――いまを読む」の第3回では、社会運動研究者で立命館大学准教授の富永京子さんが、中間団体の社会的役割に光を当て、その可能性を問い直す。

●中間団体の役割とは――
・個人の困りごとや不安を社会につなぐ
・意見の違いを抱えつつも
 多様な人々が関わり続けられる場を提供
・共助と公助の橋渡しをし、孤立を防ぐ

●ポイント① 共助と公助の基盤を軸とした新しい連携

 「中道」という言葉が、政治を巡る文脈で改めて注目されている。
 新党「中道改革連合」の結成が、その背景にあるだろう。
 ただ、この動きを政党間の連携や選挙戦略だけとして捉えると、重要な側面を見落としてしまう。
 
 それは、この動きが「中間団体」同士の連携として現れているという点である。
 
 日本社会において、中間団体は「時代遅れ」「オワコン(もう役割を終えた存在)」と見なされがちだ。
 ところが今、そうした団体が共助や公助という価値を軸につながろうとしている。
 この動きそのものが、現代社会の重要な変化を示しているのではないか。
 
 社会学の研究に携わっていると、「中間団体」という言葉自体が、どこか古びた概念として扱われていると感じることがある。
 労働組合、宗教団体、地域組織、自治会――かつて生活に深く根差していた存在が、今では距離を置かれ、敬遠されがちだ。
 
 「日本版総合的社会調査(JGSS)」では、宗教団体を「信頼していない」と答える人が7割近くに上る。
 労働組合についても、「分からない」とする人が3割前後いる。
 連合(日本労働組合総連合会)の「勤労者短観」を見ても、自分の職場に労働組合があるか分からない人は、この20年で約10ポイント増え、2割程度になっている。
 
 おそらく、PTAや町内会、自治会、青年会議所、生活クラブなどでも、状況はそれほど変わらないだろう。
 私自身、いくつかの中間団体と仕事をしてきたが、どの組織も似た悩みを抱えている印象がある。
 

 では、中間団体は役割を終えたのだろうか。
 国家や市場、そして「自己責任」を負わされた個人だけでは受け止めきれない問題が増える現代だからこそ、むしろ、その重要性は高まっているのではないか。
 
 私たちの暮らしには、目に見えるはっきりとした形ではなくても、確かに存在する困りごとや不安がある。
 それらを国に直接訴えるには小さい存在に感じられ、市場に委ねれば効率やコストの問題として処理され、個人で抱えれば自己責任とされがちだ。
 
 中間団体は、そうした「声になりきらない思い」を受け止め、「それは、あなた一人の問題ではないかもしれない」と、共有できる形で社会の中で可視化してきた。
 共助の基盤であるとともに、共助と公助の橋渡しを担ってきた存在である。
 
 私自身、労働組合や宗教団体と関わりながら仕事をしてきた。
 歴史や性格は異なるが、内部で相互扶助を行い、制度や政策を通じて社会に働きかけてきた点は共通している。
 
 こうした活動は目立ちにくい。
 環境が改善されても、どの組織の働きかけによるものなのかは見えにくく、外から「何をしているか分からない」と受け取られやすい。
 しかし、見えにくいからといって機能していないわけではない。
 
 例えば、産業別労働組合である「UAゼンセン」が進めてきたカスタマーハラスメント対策は、条例化に至った地域もある。
 街中で見かける「カスハラ防止」の表示は、組合員でない人も含め、多くの人が恩恵を受けている例だろう。
 
 中間団体は、このように意識されない形で社会を支えてきた。
 だからこそ、その存在が忘れられた時、私たちは個人として、より直接に社会の荒波にさらされることになる。
 

●ポイント② 中間団体が弱まれば孤立のリスクに

 中間団体の価値が実感されにくくなった背景には、社会構造の変化だけでなく、私たち自身の自己理解の変化もある。
 多くの人が、自分を「どこかに属する存在」ではなく、「単独で生きる主体」と捉えるようになった。
 実際には制度や他者に支えられて暮らしているにもかかわらず、「自分一人でやっている」という感覚が強まっている。
 
 いわば「マインドとしてのフリーランス化」である。
 雇用形態に限らず、価値観や人間関係の面でも、「依存しない」「縛られない」ことが望ましいとされるようになった。
 その結果、共助や公助は、自分の外部にあるサービスのように理解されやすくなる。自分が支え合いの一部であるという感覚は、次第に薄れていく。
 
 この変化は、中間団体の役割を一層見えにくくしている。
 中間団体による支えは、その多くが日常に溶け込んでいるため、制度や環境が改善されても、「誰かが動いた結果だ」とは感じられず、「最初からそうだったもの」として受け取られてしまう。
 

 もう一つ重要なのは、中間団体が、「主体性」や「自律性」と必ずしも両立しない点である。
 中間団体には、会合への参加や役割分担など、ある程度のレベルでの強制や動員が含まれる。
 これらは、現代的な感覚では、個人の自由を妨げるものとして否定的に見られやすい。
 
 しかし、社会は「完全に納得した人」だけで成り立ってきたわけではない。
 労働組合の調査では、「義務感で参加している」「気が進まないが続けている」という声も少なくない。
 
 理念的には評価されにくい、こうした動機が、現実の社会を見えないところで下支えしてきた側面もある。
 
 中間団体の強みは、そこに属する人の強い動機や完全な一致を前提としない点にある。
 全てに賛同していなくても居続けることができ、意見が違っても関係は切れない。
 この「納得しきれなさ」を抱えたまま参加できる構造が、多様な人々を社会につなぎとめてきた。
 
 もし中間団体が弱まれば、個人は自由になるどころか、むしろ孤立しやすくなる。
 違和感や不満を調整する場が失われると、それらはある時、外に向かって一気に噴出し、社会は「賛成か反対か」「敵か味方か」という二項対立に傾きやすくなる。
 
 分断が深まる背景には、意見の違いそのものよりも、「違いを抱えたまま居続けられる場所」が減っていることがあるのではないか。
 中間団体は、対立を解消する場というより、対立があっても関係が続く場だった。
 その役割が見えにくくなっていくと、社会は急速に硬直していく。
 
 こうした視点から見ると、労働組合や宗教団体といった中間団体同士が連携を模索し、人から見て分かるようになる動きは示唆的である。
 異なる歴史や文化を持つ組織が、「完全な一致」ではなく、「つながること」自体に意味を見いだそうとしている。
 その姿勢は、分断が進む時代への一つの応答だといえる。
 

●ポイント③ 宗教運動は連帯を支える社会運動の一形態

 中間団体について考える時、私が引っかかるのは、「価値は確かに享受されているのに、その存在が理解されにくい」という点だ。
 これは、中間団体がもともと抱えてきた構造的な特徴でもある。
 
 中間団体の内部には、意見や動機の異なる多様な人々がいる。
 全員が同じ理念に強く賛同しているわけではないが、違いを抱えたまま関係を続けることが優先されてきた。
 そのあり方は、分かりやすく即時的な共感を求めがちな現代社会とは、必ずしもかみ合わない。
 
 しかし、まさにその点にこそ中間団体の強みがある。
 価値観や動機の強さを問わないからこそ、多様な人々を排除せずにつなぎとめてきた。
 これは、明確な主張とその一致を前提としがちな、あらゆる社会運動との大きな違いでもある。
 
 社会運動論の観点から見れば、私たちの社会は、無数の社会運動の成果に支えられている。
 駅のバリアフリー化や点字ブロックの整備、女性専用車両の導入など、今では当たり前となった環境の多くは、誰かが問題として声を上げ、粘り強く働きかけてきた結果である。
 
 調べてみると、そうした改善の背景に、公明党の取り組みがあり、そこに至るには創価学会員から寄せられた小さな声があると分かることも少なくない。
 それにもかかわらず、多くの人はその事実を意識せず、ただ「便利になった」「よくなった」と受け止めているのが現実である。
 

 この中間団体の価値の見えづらさの理由は、中間団体の運動が社会を「提供されるもの」ではなく、「一緒につくるもの」と捉えてきた点にもある。
 人々を単なる受益者ではなく、関わり続ける主体者として社会につなぎ直すこと――その地道な作業が中間団体の重要な役割だった。
 
 この視点から宗教団体を見ると、その位置付けは一般的な見え方とは少し違って見えてくる。
 宗教運動もまた、人々の連帯や持続的な関わりを支える社会運動の一形態である。
 しかし宗教は、内面的で私的なものとして切り離されてきた。
 その理由の一つは、「祈り」という行為が、社会運動の実践として理解されにくいからだろう。
 祈りは受動的で消極的な行為とみなされがちだが、創価学会の若い会員たちとの対話を通して、私はその見方を改めた。
 
 祈りとは、単に願いを託す行為ではない。
 怒りや不安といった感情を一歩、俯瞰した視線で見つめ、世界との向き合い方を捉え直す実践でもある。
 そうした時間があるからこそ、他者や社会との関係を断ち切らずにいられる。
 
 また祈りは、個人的な行為でありながら、自分と同じように悩み、願い、現実に向き合っている人々を想像させる。
 そうした意識が社会とのつながりを保つ支えとなる。
 その意味で祈りは、個々の内面にとどまらない、確かな社会的実践といえる。
 

●ポイント④ 現実と祈りの間を往復しながらの価値ある選択

 祈りは内面に閉じた行為ではなく、人を社会と結びつける実践として機能しうる。
 そのことを日常の中で体現してきた中間団体の一つが、創価学会である。
 
 学会の内部には、外部から想像されがちな一体感だけでなく、実際には大きな幅がある。
 熱心に活動する人もいれば、距離を保って関わる人もいる。
 義務感や惰性、付き合いの中で参加している人も少なくない。
 だが、その「完全には納得していない人」を包み込んできた点にこそ、中間団体としての学会の強さがある。
 
 社会運動の現場では、問題は明確に意識され、正面から解決されるべきだと考えられがちだ。
 しかし、現実の組織や社会が持続するためには、対立を常に正面から解消し続けることは難しい。
 むしろ、なあなあで済ませられる余白や、感情を吐き出せる場があるからこそ、人々は関係を断ち切らずにいられる。
 
 中間団体としての労働組合における職場相談や、宗教団体における語らいは、そうした意味での「ガス抜き」の側面を担ってきた。
 それは問題を矮小化することではなく、日常のレベルで人を支え、社会との接点を保つための知恵だった。
 
 中間団体に属していれば、時に動員され、人と関わらざるを得ない。
 煩わしさを感じることもあるだろう。しかし、その網の目の中にいるからこそ、完全に孤立せずに済む。
 全てが自己選択に委ねられ、「関わりたくなければ関わらない」生き方は、自由で効率的に見えるが、人を社会から切り離していくともいえる。
 

 そうした意味では、創価学会の実践が示しているのは、個人の主体性を過度に肥大化させない、もう一つの生き方である。
 祈りを通じて、自分よりも大きな存在や関係の中に身を置くこと。
 自分の判断や感情が常に正しいとは限らないと知ること。
 その感覚は、個人を弱くするのではなく、他者や社会と関わり続ける余地を広げてくれる。
 
 信仰があるからこそ、いい意味で「自分はちっぽけだ」と思える。
 自己否定ではなく、自分を超えたものを感じることで、現実と祈りの間を往復しながら、価値ある選択を重ねていくことができる。
 
 現代社会では、瞬時に「自分で選び、結果を出すこと」が強く求められる。
 だが、人生は一度の失敗で終わるものではなく、社会もまた、全てを一人で背負える人だけで成り立っているわけではない。
 中間団体が支えてきたのは、迷いやつまずきを抱えながらも、人が互いに関わり続けるあり方だった。
 
 労働組合や宗教団体といった中間団体が連携を模索する動きは、そうした価値を社会に示し直す試みでもある。
 考え方が完全に一致しなくても、つながり続けること。
 勝つことや“バズる”ことだけを目的とせず、困った時に頼れる関係を維持すること。
 その姿勢は、分断が進む社会に対する一つの答えになりうる。
 
 創価学会が積み重ねてきた、関係を保ち続けることを重んじる実践は、今、語られる「中道」を、分断を超えて人と人がつながり直す社会の像として提示している。
 

 とみなが・きょうこ 1986年生まれ。立命館大学産業社会学部准教授。専攻は社会運動論。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2015年より現職。著書に『なぜ社会は変わるのか』『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』『みんなの「わがまま」入門』『社会運動と若者』など。

 ●記事のご感想をこちらからお寄せください

 ●こちらから「時評」の過去の連載をご覧いただけます。