企画・連載

〈ストーリーズⅡ 池田先生の希望の励まし〉第21回 自分自身が“楽器”であり“芸術” 2026年1月30日

あなたのために創価学会がある

 心が高ぶる、新出発だった。1991年3月12日――その日は、大野俊三さんにとって、渡米17年目に入る前日だった。故郷・中部で行われた全国青年部幹部会に参加。席上、池田大作先生の声が響いた。
 「きょうは、中部が生んだ世界的ジャズ・トランぺッター、ミスター・シュンゾウ・オオノくんが参りました! 皆を元気づけたいと、青年部出身ですから駆け付けてくださった」
 場内がどっと沸く。先生は続けて、中部音楽隊からアメリカに渡った大野さんの活躍を紹介しつつ、語った。
 「“真剣さ”は、見ていても気持ちがいい。立場や形ではない。人間であり、生命である。ひたむきに仕事に打ち込む。信念の行動に励む。こうした姿こそ美しいし、周囲の心を洗う」
 先生は、交通事故を乗り越えた大野さんをたたえ、自ら司会進行を担ってこう語った。
 「いよいよ世界最高のトランぺッター、大野選手が登場します」
 トランペットを口に当て、大野さんが「オーバー・ザ・レインボー」を演奏した。先生との思い出が詰まった曲だった。この日の日記に、大野さんはつづる。「渡米十七年目の大出航!」
 岐阜市で食堂を営む家庭で育った。運命の楽器との出合いは小学生の時。少年がトランペットを吹く映画を見て夢中になった。
 61年、母と共に信心を始めた。3人きょうだいの一番下の妹の耳が聞こえなかった。その後、父も入会した。
 大野さんは音楽隊に入隊。プロの先輩にジャズを教わった。信心で心を鍛え、練習を通して技術を培った。
 音楽漬けの高校生活を終えて、上京後、ジャズのビッグバンドのメンバーに。トランぺッターへの道を一直線に進んだ。その後、ジャズの大御所アート・ブレイキーに誘われて、アメリカへ。有名バンドの一員として出したアルバムはミリオンセラーに。B面には大野さんが作曲した曲も入った。
 世界中を飛び回る。喝采を浴びた。だが、信心の実践からは遠のいてしまう。私生活は乱れた。代理人とケンカ別れし、バンドから脱退。収入を失い、悪縁にも振り回された。
 どん底の毎日に手を差し伸べたのが、SGI(創価学会インタナショナル)の友人だった。題目を唱えた時、新鮮な感覚に心が包まれた。座談会に出席し、語り合う中で、決意が芽生えた。大野さんは、荒廃した自分を変えることを固く誓う。皿洗い、ビルの解体工事……。生活のために、どんな仕事でもした。その合間に、トランペットを吹くことを怠らなかった。
 81年6月、先生との初めての出会いを刻んだ。ニューヨーク郊外での交歓会。“虹の彼方まで、この仏法が世界に流布していくように。自分が広げていこう”。そんな思いを乗せて「オーバー・ザ・レインボー」を吹いた。

 1980年代、大野さんは楽団の一員として、音楽界の栄誉「グラミー賞」に2度輝いた。85年、日本で再会した池田先生は期待を込めた。
 「世界の大芸術家になっていきなさい。それが今世の君の使命であり、今世の仏道修行だよ」
 永遠の指針となった。ニューヨークでは、男子部本部長として励ましを広げた。トランぺッターとして演奏を披露しつつ、方面の音楽隊長を務めた。
 ある真冬の練習会。靴下をはいていない未来部員がいた。大野さんは自身の靴下を脱ぎ、彼に手渡した。10年以上が過ぎても、彼は先輩のぬくもりを忘れず、大野さんに感謝を伝えた。
 手にした栄誉を鼻にかけ傲慢になるのではなく、どこまでも自身を磨き、広い境涯で他者を包みこんでいく――学会員と触れ合う中で、大野さんは自らの人間革命を成し遂げていった。
 88年、試練が襲う。交通事故に遭い、車の後部座席にいた大野さんは、大けがを負う。トランぺッターにとって最も大切な唇が裂け、前歯が折れていた。
 トランペットに空気を吹き込んだ。音は出なかった。まるで地獄にいるようだった。だが、世界の大芸術家になるという師匠への誓いを、片時も忘れることはなかった。
 過酷な現実に、崩れ落ちそうになっては題目。そして題目、また題目。基礎練習を何度も何度も繰り返し、音を取り戻していった。
 90年、ロサンゼルス郊外で先生と再会した。師の声は力強かった。
 「治して復活するんだ!」「芸術で世界の大野になっていけば、1000万人の折伏と同じなんだ」
 「あなたのために創価学会がある。創価学会のためにあなたがいるんじゃない。あべこべになっちゃいけない」
 「もう一回、不死鳥のごとく!」
 新たな精進が始まった。アメリカから先生へ、幾度も手紙を送った。自身の決意をつづり、実践する中で、音楽活動を軌道に乗せていった。
 95年11月、関西で行われた本部幹部会で、大野さんは演奏を披露。先生は感謝を込めて語った。
 「トランペットの響きは、『勇気』と『希望』の象徴である」
 法華経の普賢菩薩勧発品第28にある「法鼓を撃ち、法螺(ほら貝)を吹き」(法華経676ページ)の一節を通して続けた。
 「今でいえば、ドラムやトランペットのような力強い楽器であろうか。“生命という楽器”は、それ以上に力強い。そうした楽器をにぎやかに吹き、鳴らし、そして高らかに合唱するように、妙法を語りに語り、『諸の魔衆』(魔軍)を打ち破れ! これが正義の人生、最高の人生なのだ――法華経は、こう呼びかけている。この『朗らかさ』が、法華経の真髄である」
 「仏法を持てば、自分自身が“楽器”であり“芸術”である。自分自身が“世界”である。自由自在に、人生を開き、人をも楽しませる力が出る」
 この年の末だった。大野さんの体に病が見つかる。扁桃がんのステージ4。“二度とトランペットは吹けない”――医師が非情な現実を突きつけた。だが、絶望はなかった。“世界一のトランぺッターになるためのステップになる。必ずしてみせる”
 手術や放射線治療など、最善を尽くした。苦痛にも、心の火は消えなかった。弱気をねじ伏せる唱題を貫いた。
 後遺症と闘う渦中の96年6月18日、ニューヨーク市のカーネギー・ホールで世界青年平和文化祭が開かれた。先生が出席した祭典の舞台に、大野さんは立った。ウェイン・ショーターさんなど、世界一流の仲間との演奏。視線の先に師匠がいた。生命の底から感じる歓喜があった。
 扁桃がんとの闘いに勝ち、数々のステージに立った。東日本大震災の被災地への訪問は、90回を超えた。希望を伝えようと精進を重ねる。
 再起不能といわれた事故。音楽を奪おうとする病。76歳の今、3度目の試練と戦っている。がんの放射線治療の影響により、右の下顎の骨が壊死。周囲の歯茎に化膿が生じて頰にまで広がった。抗生物質を使用し、治療に取り組みつつ、“今の身体で、どうすれば最高の演奏ができるか”と、トランペットの吹き方を追求し続ける。今年3月にはニューアルバムを出す予定だ。
 先生はかつて、大野さんの音について語った。
 「それは死線を乗り越え、学会と運命をともにしようと誓った人だけが発する『妙音』の響きである。自ら苦難と戦い、鍛え上げてきた『生命の楽器』から、『生き抜け!』『勝ちゆけ!』と、魂を揺さぶる勇気の曲が轟きわたる。私には、そう聞こえる」
 “不死鳥”の闘魂が奏でる音色は、聞く人の心に感動を与え続ける。

「音楽隊訓」を胸に

 着物や羽織など、和服を仕立てる職人の和裁士。大森貴之さんは、日本の伝統美を守る使命に生きる。祖父が大阪の地で和裁業の看板を掲げたのは、1919年。父は名をはせる腕利き職人だった。「継げ」と言われたことはない。大森さん自身、継ぐつもりはなかった。
 少年時代、ジャズが好きな父に勧められ、音楽に親しんだ。アメリカで活躍するトランペッター・大野俊三の曲も、いつしか耳なじみになっていた。
 高校時代、ブラスバンド部に関西音楽隊の先輩がいた。ある日、その先輩に誘われて練習を見学しに行った。隊員たちが「音楽隊訓」を唱和した。その気迫に魅了された。何より、音に感動した。“自分も音楽隊に入りたい”。父は猛反対だった。
 音楽隊の友は、大森さんを“仲間”として迎えた。ある日、池田先生から音楽隊に激励が届いた。ノートだった。先輩は信心していない自分にも手渡してくれた。嬉しくて、大森さんはノートに先生への思いを書き記した。
 父の反対は続き、高校3年の夏、音楽隊の活動を断念。それでも先輩は、何度も激励に来てくれた。
 就職を機に神奈川へ。職場の先輩に学会員がいた。先輩の勧めで80年、入会。念願だった音楽隊にも入った。
 同年の秋、仏法対話のため、友人と神奈川文化会館へ。その時、多宝会の友に励ましを送る先生の姿が目に入った。友の肩に手を置き、全精魂を注いでの激励。友は涙を流していた。
 初めての師との出会いは、大森さんの心に鮮烈な感動を残した。学会員であることの喜びが心に満ちた。
 84年9月9日、横浜スタジアムで行われた神奈川青年平和音楽祭。雨の中、先生はグラウンドを一周し、エールを送った。神奈川音楽隊で出演した大森さんは、師の姿を胸に刻んだ。
 数年後、大森さんは大阪に戻り、家業を継ぐ決断をする。父のことは、いつも気にかかっていた。何より“信心してほしい”との思いが強かった。業界の厳しさを知る父は反対した。8度目の懇願で、やっと許しを得た。
 想像以上に厳しい世界だった。和裁は運針に始まり、運針に終わる――といわれる。運針とは「針の運び方」。手縫いの基本で、表裏同じ縫い目に縫う手法をいう。和裁における基本であり、大切な技術だ。
 数カ月間、大森さんはまず、運針の習得に取り組んだ。父は、ほかの弟子よりも厳しく息子に指導した。周囲からは“名人の息子”と見られた。心の支えにしたのは、音楽隊訓だった。
 「虚栄や、技術や、才能を超越して、清純にして、怒濤をも打ちくだく情熱と、信心のほとばしる音律こそ、大衆の心を打たずにはおかないとの、強き強き確信をもって前進されたい」
 歯を食いしばって腕を磨いた。トランペッターの大野俊三さんが、音楽隊の先輩であることを知ったのは、この苦闘の時だった。自身も“不死鳥”のごとく進み続けることを誓った。
 98年、父が大腸がんに。家業を託された。ほどなく、大口取引先の百貨店の閉店など苦境が重なる。父は心を病み、感情を表に出さなくなった。
 大森さんは父の健康を祈り続け、それまで以上に仕事に力を注いだ。懸命に家業を支える息子の姿に、両親の心が動いた。2000年に父、03年に母が信心を始めた。
 病床の父に、ある日、大森さんはジャズを聴かせた。父はヘッドホンに手を当て、耳を澄ませていた。
 ――少年の日、父がくれた音楽が、今度は息子から父へ返っていく。父は涙を流していた。
 父が安らかに旅立った後も、大森さんはさらに信頼を積み上げる。22年、大阪府優秀技能者表彰「なにわの名工」を受賞。現在は一般社団法人「日本和裁士会」の会長として、和裁業界と技術の振興に尽力する。
 音楽も続け、壮年・女性・未来部員と組んだバンドで会合や地域に喜びを広げる。その胸には、師が示した「音楽隊訓」が、いつも輝いている。

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