企画・連載

〈未来対談〉 氾濫する情報との付き合い方とは?――「何のため」を問い直す対話を 2025年10月24日

創価学会青年世代×苫野一徳さん(熊本大学大学院准教授)
テーマ③氾濫する情報との付き合い方とは?

  
 今回のテーマは「氾濫する情報との付き合い方とは?」。創価学会の青年世代が、哲学者で、熊本大学大学院の苫野一徳准教授と語り合いました(本年8月)。
  
 SNSなどの普及によって、大量の情報にさらされる現代社会では、デマや偏った情報もあふれています。私たちは、こうした時代をどう生きていくのか。
  
 「青くさい根っこの話」「何のためを掘り下げる“そもそも”論」など、青年世代と苫野さんの対話から、氾濫する情報との向き合い方も見えてきます。そして、私たちは対話の果てに、かつて池田大作先生が語った「シビレエイ」のエピソードにたどり着きました――。
 先行き不透明な時代の生き方を、読者の皆さんと一緒に考えたいと思います。

  

■「哲学不在の時代」において必要なこと

〈青年世代〉
 私たちは毎日、膨大な量の「情報」に接しています。インターネットが普及し、現代人が1日に触れる情報は、かつてとは比べものにならないほど増えています。今では、スマートフォンで高精細の動画も送受信でき、40年間で通信速度は約100万倍になったといいます(『情報通信白書』令和5年版)。
 一方で、デマやフェイクニュースの問題が深刻です。そうした偽・誤情報の拡散や情報の偏りによって実害が生じる現象は「情報災害」とも呼ばれています。
 氾濫する情報とどう付き合うか――これは、現代社会を生きる私たちにとって、避けては通れないテーマではないでしょうか。
  
〈苫野准教授〉
 そうですね。これは「知識」と「知恵」の関係として説明することもできると思います。大量の情報を浴びて、単に知識だけを増やしても、私たちが抱える問題は、なかなか解決されません。そこで、知識を何のために、どうやって活用するかという知恵が重要になります。
 その意味で、現代社会の最大の課題は「何のため」という根本的な問いが欠けていることだと思います。知恵を発揮して、「何のため」という視点で“そもそも”論を問い直す。そのためには、哲学が必要です。哲学とは、物事の意味や価値の本質を問う営みだからです。
  

  
〈青年世代〉
 よく分かります。かつて池田先生は、思想や哲学が空白状態になっているとして、現代を「哲学不在の時代」「哲学の大空位時代」と指摘しました(『法華経の智慧』普及版〈上〉)。
 さらに、先生は「『知識の飛躍的増加』が進む情報社会にあって、知識を使いこなすための『智慧の飛躍的増大』が、至急になされなければならない」(同)と。そして、人類は「自分が、また社会が『どこへ』『何のために』進めばよいのか。それを教えてくれる智慧を求めている」(同)と語りました。
 私たちにとっては、南無妙法蓮華経と唱える祈りは、「何のため」に生きるのかという本質に立ち返る実践でもあります。現実生活は慌ただしい毎日で、スマホを手に取れば、求めていなくても情報が止めどなく入ってきます。だからこそ、いったん立ち止まって、自分自身と向き合い、思索する時間は、とても大切だと感じます。
  

■「本質観取」という対話のスタイル

〈青年世代〉
 哲学がないと、自分も、また社会も進むべき道が分からなくなります。すると、生きる意味が見えにくくなり、その穴を埋めるように、拝金主義や快楽主義などの風潮が強まり、さらには、極端なナショナリズム(民族主義)が分断をあおります。
 そこに、自分の手の届かないところで政治や経済が決められているという「無力感」が加わると、悪循環になります。池田先生は、この無力感の対極にあるのが「一人の人間の可能性と尊貴さを、極限まで教えた」仏法であると語っています(『法華経の智慧』普及版〈上〉)。創価学会の信仰は、「何のために生きるのか」という根源的な問いに答える実践でもあるのです。
  
〈苫野准教授〉
 なるほど。皆さんが語る言葉に奥深さを感じるのは、「何のため」という本質的な問いから出発しているからですね。
 私自身は哲学者、教育学者として「本質観取」というスタイルの対話を重視しています。これは、物事の本質について皆で話し合いながら、一緒に言葉にして編み上げていく実践です。
 先日、定期的に続けている「子ども本質観取の会」という会で、小中学生と一緒に「学びとは何か」をテーマに本質観取をしました。その日は最終的に、学びとは「自らの問いと気付きを通して、生が豊かになっていく営み」という言葉が編み出されました。
 皆で対話するからこそ、思いがけない発見があり、自分一人では生み出せない言葉が出てきます。そうした対話の過程には、自分が本当に大事だと考えるものが、他者にも承認されるという、大きな喜びがあります。
  

■最初に話したい“青くさい根っこの話”とは

〈苫野准教授〉
 私は、至る所にそうした「対話の文化」が浸透していってほしいと考えています。
 対話には、いくつか具体的なポイントがあります。その一つは、最初に“青くさい根っこの話”をすることです。例えば、学校の先生の研修会で、まず初めに「なんで教師になったのか」「どんな先生になりたいのか」「子どもたちのどんな姿を見た時に、うれしくなるか」といった話をするんです。青くさいかもしれないけれど、根っこの部分の話をすると、“こんなピュア(純粋)なところがあるんだ”と、先生たちの間にお互いへの関心や尊重が生まれます。そういう話し合いを目の当たりにすると、やっぱりピュアなものは、人の心を打つんだなと感じます。
  

  
〈青年世代〉
 深く共感します。私も先日、同世代の友人と話した際に、それを実感しました。その相手は、学会とは異なる信仰を持った方で、お互いの宗教観を語り合う中で、「一人の人間として、何のために生きるのか」という話題になったんです。気付けば、お互いに熱くなって話し込んでいて、友人として仲が深まったことを感じました。
 学会でも、同世代のメンバーと話すと、夢や目標を語り合ったり、目の前の課題や悩みを打ち明けあったり、思わず熱い話になることが、よくあります。なんで信心をしているのか、という“原点”の話を聞くと、お互いに心の距離が縮まって、一緒に前を向いて進んでいこうという気持ちになります。
  
〈苫野准教授〉
 学会の皆さんには、本質観取の対話の文化が根付いているんですね。
 もう一つ、私のゼミを卒業する学生たちに毎年、伝えていることがあります。職場や地域などで、何だか行き詰まったなと感じた時に、対話が生まれる“魔法の言葉”があるよ、と。それは「そもそもこれって『何のため』なんでしたっけ?」という一言です。
 “過去形”で聞くのがポイントで、「何のためですか?」と言うと、角が立つようなことも、これなら少し柔らかく、原点を振り返るような尋ね方になっています。こうやって問われると、思考が回り始めるのです。
  

■自分なりの正義を振りかざす「徳の騎士」にならないために

〈青年世代〉
 ぜひ実践してみたいです。一方で、対話をすればするほど、その難しさも痛感しています。今では、大量の情報があふれ返っているがゆえに、「自分の見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じる」という傾向も強まっていると感じます。
 インターネット上では、自分が興味のある情報ばかりが表示され、似通った情報にしか触れられなくなる「フィルターバブル」に陥ることがあります。またSNSでは、似た考えばかりに触れ、それが増幅される「エコーチェンバー」現象も起こっています。
 ネット上の論争を見ていると、共通点を見いだすような対話よりも、一方的に主張をぶつけ合い、分断が深まっているようにも見えます。
  

  
〈苫野准教授〉
 重要な視点ですね。現代社会においては、ともすると、自分なりの正義に燃えた人ほど、他者を攻撃してしまうことがあります。
 哲学者ヘーゲルは、そういう人を「徳の騎士」と呼びました。激しい信念に駆られるあまり、自分なりの正義を笠に着て、それに従わない人を攻撃してしまうのです。
 難しいのは、掲げる正義自体は、正しい側面があることです。例えば、「困っている人に手を差し伸べる」ことは大切ですが、だからといって「なぜ、あなたはボランティアをやらないのか!」と、人を責めてしまっては、かえって非道徳的な行為にもなりかねません。
  
〈青年世代〉
 仏法では「善悪一如」と説きます。一人の生命の中に、善も悪も具わっているというのです。自分の中にも、誰かを傷つけようとする悪の側面があることには、自覚的でありたいと思います。
 また法華経には、釈尊の過去世における修行の姿の一つとして、「不軽菩薩」が説かれます。仏道修行を重ね、自らを迫害する人々に対してさえ、必ず成仏できるという言葉をかけて、出会った全ての人を礼拝した菩薩です。
 相手の仏性を尊重するからこそ、自分の仏性も輝きます。仏法の実践とは、安易に誰かを悪だと決めつけず、自分にも他者にも、尊い善性があることを信じることでもあります。
  

  
〈苫野准教授〉
 自分にも相手にも、相通じる尊厳がある。これは大事にしたいですね。
 人類史を振り返ると、多くの「命令の思想」がありました。それは文字通り「人を傷つけてはならない」などと命令するのですが、これは、もろい思想です。なぜなら、いくら命令しても、それに従わない人は必ず出てくるからです。
 私は、それを脱却した「条件解明の思考」が必要だと考えています。「困っている人を助けよ」と命令するのではなく、「どうすれば、人は困っている人に手を差し伸べようと思うのだろう?」と条件を考える姿勢です。
 学会の皆さんが、現実のさまざまな悩みを受け止め、共に支え合っていることは、この条件解明の思考に通じていると感じます。
  

■シビレエイは自分がしびれているからこそ…

〈青年世代〉
 私たちには、仏法が説く人間の尊厳に立脚した、ぶれない軸があります。常にその原点に立ち返って、より良い社会を築くために対話を続ける。それは並大抵のことではありませんが、私たちがそうした実践を続けられるのは、池田先生という師匠の存在があるからです。
 先生自身が戦後、「何のために生きるのか」といった価値観が崩壊した時代の中で、戸田城聖先生を師匠と定め、師弟に生き抜かれました。
 かつて池田先生は、ソクラテスが“シビレエイが相手をしびれさせることができるのは、自分がしびれているからだ”と例えたことを引いて、「ともかく、人間の心を動かすものは、人間の心以外にありません」と結論しました。
  
〈苫野准教授〉
 皆さんが語る師弟の話は、すてきだなと感じます。
 私にも、哲学の師匠である竹田青嗣先生(早稲田大学名誉教授)がいます。ある意味で、師弟とは、弟子によって生じる関係だと思います。私には「自分が竹田先生という師匠を見つけたぞ」という感覚があるのです。
 いつまでも教えを乞いたいと思える人に出会えることは、奇跡的なことです。そうした師弟関係には、たとえ年齢を重ねても失いたくないロマンを感じます。
 西洋哲学には、ミメーシス(感染的模倣)という概念があります。大人がワクワクしていると、自然に子どもたちにもそれが伝染します。先ほどのシビレエイの話のように、師弟の間には影響し、伝わる確かなものがあります。
  

  
〈青年世代〉
 苫野先生との対話を通して、混迷を極める現代社会の中で氾濫する情報にどう向き合うかの、一つの答えが見えてきました。それは、あふれ返る情報に振り回されるのでもなく、かといって、膨大な情報に目を閉ざし、触れないようにするのでもありません。
 さまざまな情報に接しながらも、出会った人々と「何のため」を深める対話を続け、より良い人生と社会を実現するための条件を模索し続ける――その困難な実践をやり通せるのは、「師弟」のロマンと学びの感動に打ち震えているからこそです。
 情報が氾濫する今こそ、私たちはロマンに燃え、分断を超えて人間をつなぐ対話に挑戦し続けます。
  
(次回に続く)
  
  

  
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