ユース特集
やさしさに、疲れていませんか?――哲学研究者・稲垣諭さん 2026年5月9日
「相手を傷つけてはいけない」「どう思われるかが気になる」――そんな思いに縛られ、疲れてしまうことはありませんか。配慮が求められる時代の中で、人との距離の取り方に戸惑う人は少なくありません。『やさしいがつづかない』(サンマーク出版)の著者で、哲学研究者の稲垣諭さん(東洋大学教授)は、その息苦しさの先に、別の関わり方があると語ります。
――人との関係で、気を使いすぎて疲れてしまうことは珍しくないと感じます。
他者を傷つけないように、正しくあろうとする。そのこと自体は大切です。ですが、そればかりに意識が向くと、「自分はどう感じているのか」という、自分の感覚に触れるといったことが置き去りになってしまう場合があると思います。
――自分の感覚に触れる、とはどういうことでしょうか。
例えば、最近は男性の美容意識も高まっています。でもそれは単に、「どう見られるか」といった他者評価のためだけではなくて、自分の肌に触れて、その感触を確かめること自体に意味があると思うんです。
これは肌の感触に限った話ではありません。自分の気持ちにも同じことが言えます。不安なのか、疲れているのか、それとも気持ちが高ぶっているのか。そうした内側の動きに気づくことも、大切なんです。
自分の感覚に触れていないと、いつの間にか余裕がなくなっている。余裕がなくなれば、他者に優しくすることも難しくなります。
――自分の感覚に触れるためには、どんなことが必要になるのでしょうか。
今は「通知社会」と呼べるような状況です。スマホに次々と情報が流れ込み、注意が引き寄せられる。自分のペースで立ち止まることが難しくなっています。そういう環境では、どうしても感情的な反応に引っ張られやすくなる。だから、時には意識して立ち止まることが必要です。
例えば、自分が住む地域には、どんな鳥がいるのか知っているでしょうか。時には鳥の鳴き声に耳を傾けながら、携帯を持たずに散歩してみる。そうした少し無目的な時間を持つことも、自分の感覚を取り戻す一つの方法だと思います。
――他者への配慮は「共感」の重視にもつながっていると思います。一方で、分断はむしろ加速しているようにも見えます。
今、「共感」はとても良い言葉として使われていますよね。でも、共感には二種類あります。
一つは情動的共感です。相手と同じように悲しんだり、喜んだりするような共感です。もう一つは認知的共感で、その人がどういう世界を生きているのかを理解しようとすることです。
問題は、情動的共感だけに頼ると、共感できるものにしか共感しなくなることなんです。
よく例に出すのが、レッサーパンダとアリクイです。どちらも保護が必要だとしても、寄付はどうしても「かわいい」レッサーパンダに集まりやすい。でも、本当に守るべきはアリクイかもしれない。ここでは、情動的共感よりも、認知的共感の方が大切になります。
――「かわいそう」「分かる」と思える対象にばかり気持ちが向く、ということでしょうか。
そうです。SNSは、特にその傾向が強いと思います。短く、分かりやすく、テンポよく、感情を動かすものが広がりやすい。情動的共感に訴える投稿は強いんです。
でも、その勢いは陰謀論にもつながりやすい。複雑な現実を、単純な敵味方の話にしてしまいやすいからです。
配慮や共感が大事だと言われながら、分断が進んでしまう。その背景には、「共感できる相手」にだけ強く反応してしまう構造があると思います。
――稲垣さんは「共感」ではなく、他者を「くぐり抜ける」ことが大切だと指摘しています。
「共感する」というと、つい「相手の気持ちが分かる」というイメージになりがちです。でも本当は、他者のことなんて簡単には分かりません。その「分からなさ」を引き受けながら、それでも相手の世界に少し身を置いてみようとする。それが「くぐり抜ける」ということです。
――専門にされている現象学とも関係しているのでしょうか。
現象学という学問では、私たちが普段あまりに自然に生きているために、見えなくなっている経験を捉え直そうとします。
例えば、人と向き合って話す時、相手の顔を見ていますが、その視界には自分の鼻も入っていますよね。でも普段、私たちは「鼻を見ている」とは意識していません。ところが、そう言われた瞬間、急に鼻が気になってくる。
本当は経験しているのに、見えていないものがたくさんあるんです。
現象学では、自分の当たり前の見方をいったん保留することを「エポケー」と言います。自分が当然だと思っている見方を一度やめてみる。そうすることで、見えていなかったものが見えてくる。
それは他者についても同じです。異性はどんなふうに街を歩いているのか。障害のある人はどんな世界を生きているのか。自分とは違う身体や立場の人が見ている世界は、今の自分のままでは見えません。
だからこそ、「自分は分かっている」と決めつけず、いったん自分の見方を保留する必要があるんです。
――「自分には見えていなかった」と気づかされた経験はありますか。
知り合いの女性が「帰り道で、人に後をつけられることがある」と話していて、以前の僕は正直、「考えすぎじゃないか」と思っていたところがありました。
でも、それは自分にその経験がなかったからだったんだと思います。彼女の了承を得て実際に後ろから歩いてみたところ、本当に後をつけている人がいたんです。
そこで、自分には見えていなかった現実があることに気づかされました。自分の世界の中にはないことでも、別の人にとっては日常として起きていることがあるんです。
――他者を理解することは難しいし、時には苦しいことでもあります。でも稲垣さんはそこに「面白さ」もあるとおっしゃっています。
未知のものに揺さぶられること自体、本来は面白いはずなんです。
ただ今は、ドラマや映画の結末をあらかじめ確認して、安心してから楽しむような“ネタバレ消費”が若い世代の間で広がっていますよね。それ自体が悪いわけではありません。揺さぶられたくない、安心していたいという感覚も自然なものだと思います。
ただ一方で、他者と出会うことの面白さは、やっぱり予測できないところにもある。自分の予定通りには進まないし、分からないことに出合う。そういう経験があるからこそ、世界が少し広がることもあると思うんです。
――「自分の見方と相手の反応とのズレ」は、日常の関係でも起きているのでしょうか。
例えば、電車で席を譲ったのに、相手が座らなかった時に傷つくことがあります。でもそれは、「こう反応してほしい」と、自分の前提で相手を見ていたからかもしれません。
大事なのは、「どう受け取られるか」をコントロールしようとすることではなく、自分がどんな見方で相手に関わっているのかに気づくことです。
その上で、結果がどうであれ、誰かに何かを差し出そうとした、その行為や思い自体は大切なものだと思います。
僕はそうした小さな親切を「マイクロカインドネス」と呼んでいますが、これは決してささいなものではありません。相手にどう受け取られるかが分からない中で、それでも他者に手を差し出すというのは、それ自体が大きな試みなんです。
――親切な行動を続けるためには、何が必要になるのでしょうか。
善意や優しさは、自分に余裕がなければ発揮できません。「なぜ、自分は優しくできないんだろう」と悩む人もいますが、そもそも優しさは続かないものなんです。続かないのが普通だと思った方がいい。
だからこそ、余裕を持てるようになるためにも、一度立ち止まれるような時間を生活の中に組み込んでみる。その上で、小さな親切をしてみようと思えたなら、その時点ですごいことなんだと、もっと自分をほめていいと思います。その積み重ねの中で、他者との関係も少しずつ変わっていくのだと思います。
〈プロフィル〉
いながき・さとし 哲学研究者、東洋大学文学部哲学科教授。北海道生まれ。青山学院大学法学部卒業。東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了(文学博士)。自治医科大学総合教育部門(哲学)教授を経て、現職。専門は現象学、環境哲学、リハビリテーションの科学哲学。著書に『大丈夫、死ぬには及ばない 今、大学生に何が起きているのか』(学芸みらい社)、『絶滅へようこそ 「終わり」からはじめる哲学入門』(晶文社)、『「くぐり抜け」の哲学』(講談社)など。
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