【長崎市】福岡育ちの記者が、初めて「原爆」に触れたのは小学生の時だった。平和学習で訪れた広島平和記念資料館の展示室。黒焦げの三輪車や衣服に胸がざわついた。同い年くらいの子どもの写真があった。こちらをじっと見ている気がした。息が詰まり、一人、展示室を出た。その日から戦争に触れることが、どこか怖くなった。昨年、長崎支局に赴任した。想像できない苦しみを経験した被爆者が、信仰を通し、生きる意味をどう変えてきたのか、知りたいと思った。戦争とは。平和とは。自らに問いながら、一人の女性を訪ねた。(長崎支局)
【長崎市】福岡育ちの記者が、初めて「原爆」に触れたのは小学生の時だった。平和学習で訪れた広島平和記念資料館の展示室。黒焦げの三輪車や衣服に胸がざわついた。同い年くらいの子どもの写真があった。こちらをじっと見ている気がした。息が詰まり、一人、展示室を出た。その日から戦争に触れることが、どこか怖くなった。昨年、長崎支局に赴任した。想像できない苦しみを経験した被爆者が、信仰を通し、生きる意味をどう変えてきたのか、知りたいと思った。戦争とは。平和とは。自らに問いながら、一人の女性を訪ねた。(長崎支局)
夏の風が街路樹の葉を揺らし、バス停にはスマホをいじる高校生の姿があった。
稲佐山の麓に位置する長崎市光町。中村ユキヱさん(85)=地区副女性部長=が「昔はね、自転車とリヤカーばっかりやったよ」と言い、ふと歩道の片隅で足を止めた。
日傘の陰からそっと顔を上げ、「ここで被爆したんです」と小さく言った。
1945年(昭和20年)8月9日。「その日は、ちょっと早めのお昼を食べてたの」。当時5歳。前年に病で母を亡くし、姉がいつも台所に立ってくれた。
午前11時2分。2口目のそうめんをすすったその時、窓から目のくらむ閃光が走った。
爆心地から約1・8キロの自宅(当時の稲佐町3丁目)。窓ガラスが砕け散り、熱線で家が炎に包まれた。
きょうだい4人で死に物狂いに逃げた。
夏の風が街路樹の葉を揺らし、バス停にはスマホをいじる高校生の姿があった。
稲佐山の麓に位置する長崎市光町。中村ユキヱさん(85)=地区副女性部長=が「昔はね、自転車とリヤカーばっかりやったよ」と言い、ふと歩道の片隅で足を止めた。
日傘の陰からそっと顔を上げ、「ここで被爆したんです」と小さく言った。
1945年(昭和20年)8月9日。「その日は、ちょっと早めのお昼を食べてたの」。当時5歳。前年に病で母を亡くし、姉がいつも台所に立ってくれた。
午前11時2分。2口目のそうめんをすすったその時、窓から目のくらむ閃光が走った。
爆心地から約1・8キロの自宅(当時の稲佐町3丁目)。窓ガラスが砕け散り、熱線で家が炎に包まれた。
きょうだい4人で死に物狂いに逃げた。
浦上川にさしかかった時、足首に何かがぬるりと触れる。皮膚のめくれた誰かの手だった。
「水を……水をく……」
言い切らぬまま、事切れた。「あのうめき声が、ずっと耳の奥にこびりついている」
原爆によって焦土と化した街を歩き、どれほど黒焦げになった遺体の匂いを嗅いだだろう。中村さんは爆心地の方角を見つめ、「あんな悲惨なことは、絶対に繰り返したらいかん」と、声に怒りをにじませた。
浦上川にさしかかった時、足首に何かがぬるりと触れる。皮膚のめくれた誰かの手だった。
「水を……水をく……」
言い切らぬまま、事切れた。「あのうめき声が、ずっと耳の奥にこびりついている」
原爆によって焦土と化した街を歩き、どれほど黒焦げになった遺体の匂いを嗅いだだろう。中村さんは爆心地の方角を見つめ、「あんな悲惨なことは、絶対に繰り返したらいかん」と、声に怒りをにじませた。
●原爆が生んだ差別
●原爆が生んだ差別
戦後は三菱長崎造船所の設計士だった父のおかげで、暮らし向きは悪くなかった。
21歳で夫・徹夫さん(87)=副本部長=と結婚。穏やかな日々に包まれた。
だが、夫の仕事で横浜に引っ越した時、原爆による差別を思い知ることになる。
職場で同僚といる時、何げなく「長崎から来た」と話した。その一言で周囲の空気が凍りついた。
何の不調もないのに「白血病、うつるんじゃないの?」と距離を置かれた。根拠のないうわさが広がり、職場を追われた。
新しい命にも被爆の影はついて回った。
「原爆症の人からは奇形児が生まれる」という、でたらめな風評も独り歩きしていた当時。長男をおなかに宿すと、病院で胸に太い注射を突き刺された。白血病の検査だった。
「針が痛かったんじゃない。偏見のまなざしが痛かった」
赤ちゃんが産声を上げた時、性別より先に「指10本あります。正常です」と聞かされた。
戦後は三菱長崎造船所の設計士だった父のおかげで、暮らし向きは悪くなかった。
21歳で夫・徹夫さん(87)=副本部長=と結婚。穏やかな日々に包まれた。
だが、夫の仕事で横浜に引っ越した時、原爆による差別を思い知ることになる。
職場で同僚といる時、何げなく「長崎から来た」と話した。その一言で周囲の空気が凍りついた。
何の不調もないのに「白血病、うつるんじゃないの?」と距離を置かれた。根拠のないうわさが広がり、職場を追われた。
新しい命にも被爆の影はついて回った。
「原爆症の人からは奇形児が生まれる」という、でたらめな風評も独り歩きしていた当時。長男をおなかに宿すと、病院で胸に太い注射を突き刺された。白血病の検査だった。
「針が痛かったんじゃない。偏見のまなざしが痛かった」
赤ちゃんが産声を上げた時、性別より先に「指10本あります。正常です」と聞かされた。
創価学会の同志は違った。長男を産む前年の62年、近所の人から仏法の話を聞いた。
御書を開き「あなたが幸せになる道が、ここにちゃんと書いてある」と、やわらかな笑顔で理路整然と話してくれた。
夫婦が創価学会に入会するのに迷いはなかった。
同志は家族のように寄り添ってくれた。長男の水浴のため、タライを持ってきて、あやしてくれた。そこには人間の心があった。
病弱な息子が入退院を繰り返すと、原爆の影が脳裏をかすめた。
くしくも、横浜は戸田先生が原水爆の禁止を宣言した不戦の聖地。中村さんは、反核の咆哮をわが胸にとどろかせ、子どもを背負って、折伏に励むようになった。
創価学会の同志は違った。長男を産む前年の62年、近所の人から仏法の話を聞いた。
御書を開き「あなたが幸せになる道が、ここにちゃんと書いてある」と、やわらかな笑顔で理路整然と話してくれた。
夫婦が創価学会に入会するのに迷いはなかった。
同志は家族のように寄り添ってくれた。長男の水浴のため、タライを持ってきて、あやしてくれた。そこには人間の心があった。
病弱な息子が入退院を繰り返すと、原爆の影が脳裏をかすめた。
くしくも、横浜は戸田先生が原水爆の禁止を宣言した不戦の聖地。中村さんは、反核の咆哮をわが胸にとどろかせ、子どもを背負って、折伏に励むようになった。
長女出産のため、67年に里帰りすると、そのまま暮らしを長崎に移した。
徹夫さんが椅子装飾の仕事で独立したが、経営不振で巨額の不渡り手形を出してしまった。
創価学会を露骨に嫌う親族からは「学会を辞めれば、肩代わりしてもいい」と言われた。
中村さんは「うちはどこまでも創価学会ばい。必ず乗り切るけん、よう見ときんしゃい」と言い切った。
朝な夕な、御本尊に向かった。徹夫さんも誠実の汗を流し、仕事を立て直していった。数年がたち、ようやく返済のめどが見えた頃、新たな試練が徹夫さんに牙をむく。
胃潰瘍が重篤化し、医師から「3日の命」と宣告を受けた。
池田先生から紫色のふくさが届いた。“健康であれ”との励ましに胸が熱くなる。
「うちらには池田先生が付いとるとよ」。師弟の題目で不安を勇気に塗り替える。徹夫さんは見事に蘇生の実証を示した。
長女出産のため、67年に里帰りすると、そのまま暮らしを長崎に移した。
徹夫さんが椅子装飾の仕事で独立したが、経営不振で巨額の不渡り手形を出してしまった。
創価学会を露骨に嫌う親族からは「学会を辞めれば、肩代わりしてもいい」と言われた。
中村さんは「うちはどこまでも創価学会ばい。必ず乗り切るけん、よう見ときんしゃい」と言い切った。
朝な夕な、御本尊に向かった。徹夫さんも誠実の汗を流し、仕事を立て直していった。数年がたち、ようやく返済のめどが見えた頃、新たな試練が徹夫さんに牙をむく。
胃潰瘍が重篤化し、医師から「3日の命」と宣告を受けた。
池田先生から紫色のふくさが届いた。“健康であれ”との励ましに胸が熱くなる。
「うちらには池田先生が付いとるとよ」。師弟の題目で不安を勇気に塗り替える。徹夫さんは見事に蘇生の実証を示した。
●学会活動に平和がある
●学会活動に平和がある
忘れ得ぬ82年の5月。池田先生が諫早を訪れていると聞き、中村さんの足は自然と会館に向いていた。
木陰に隠れていると、一人また一人と、婦人部(当時)が横に並び、続々と同志が集まる。「一目だけでも」。皆が同じ思いだった。
池田先生の提案で急きょ、自由勤行会が開催されることになった。
師弟の笑顔が咲いた五月晴れの原点。この日、池田先生は語った。
「原爆投下の地・長崎にあって、正法の信仰者である我々は、世界平和のために、反戦・反核の運動を展開していくが、その基盤はあくまでも、日蓮大聖人の仏法をもっての前進なのである。この道は絶対に正しく、勇気ある一人一人の信行の行動こそが、その目的の実現につながっている」
忘れ得ぬ82年の5月。池田先生が諫早を訪れていると聞き、中村さんの足は自然と会館に向いていた。
木陰に隠れていると、一人また一人と、婦人部(当時)が横に並び、続々と同志が集まる。「一目だけでも」。皆が同じ思いだった。
池田先生の提案で急きょ、自由勤行会が開催されることになった。
師弟の笑顔が咲いた五月晴れの原点。この日、池田先生は語った。
「原爆投下の地・長崎にあって、正法の信仰者である我々は、世界平和のために、反戦・反核の運動を展開していくが、その基盤はあくまでも、日蓮大聖人の仏法をもっての前進なのである。この道は絶対に正しく、勇気ある一人一人の信行の行動こそが、その目的の実現につながっている」
どこまでも、学会活動の中に平和がある。地道で遠回りのように見えても、目の前の心に語りかけ、生命尊厳の風を広げゆく。
「そこに私の人生がある」
中村さんは平和の翼を広げ、広布に歩いた。被爆証言を頼まれ、ビデオカメラの前で反戦の願いも語った。
家族が健やかに歩いてこられた。冗談を飛ばし合える夫がいて、すぐそばで息子と娘が支えてくれる。「ばあちゃんの祈りはすごかね」と、信心の芽を伸ばす孫がいる。
何げない毎日の平穏が続くよう、中村さんは核兵器のない世界が来ることを、絶対に諦めない。ひたぶるに平和を祈り、自らが希望としてきた池田先生の言葉を、その足で、その声で多くの心に咲かせゆく。
〈人生は、幸せになるためにある〉 (伸)
どこまでも、学会活動の中に平和がある。地道で遠回りのように見えても、目の前の心に語りかけ、生命尊厳の風を広げゆく。
「そこに私の人生がある」
中村さんは平和の翼を広げ、広布に歩いた。被爆証言を頼まれ、ビデオカメラの前で反戦の願いも語った。
家族が健やかに歩いてこられた。冗談を飛ばし合える夫がいて、すぐそばで息子と娘が支えてくれる。「ばあちゃんの祈りはすごかね」と、信心の芽を伸ばす孫がいる。
何げない毎日の平穏が続くよう、中村さんは核兵器のない世界が来ることを、絶対に諦めない。ひたぶるに平和を祈り、自らが希望としてきた池田先生の言葉を、その足で、その声で多くの心に咲かせゆく。
〈人生は、幸せになるためにある〉 (伸)