企画・連載

〈熊本地震10年〉 西原村の今・人・祈り 2026年4月16日

「ここでは、みんな家族だけん」

 もう10年。まだ10年。熊本地震で被災した一人一人に、それぞれの歩みがあります。震度7の激震に見舞われた西原村を今月上旬に訪ね、復興の現在地と、そこで生きる人々の思いを取材しました。(記事=大宮将之)

 山が近い。空が広い。
 西原村中心部の運動公園内にある広場は、日曜の晴れた昼下がり、家族連れでにぎわっていた。
  
 車で約10分の場所に阿蘇くまもと空港があり、飛行機好きの子は目の前を飛ぶ機体に歓声を上げる。「数年前までここに仮設住宅が立っていたなんて、信じられないですよね」。そう語る一人の父親は、熊本地震後に移住してきたという。
  
 総合体育館やテニスコート等も併せ持つ同公園は、村の復興のシンボルとして整備された。災害時は防災拠点となる。

 熊本地震は2016年4月14日夜に前震、16日未明に本震が起こり、いずれも最大震度7を記録。住宅の損壊は約20万棟、犠牲者は278人に上った(関連死を含む)。西原村でも家屋の50%以上が全半壊した。
  
 村の人口は一時減少したものの、24年7月に地震前の水準を回復。現在は過去最多の7149人に達している。子育てのしやすさや働きやすさに加え、隣の菊陽町に半導体受託製造の世界最大手「台湾積体電路製造(TSMC)」が進出してきたことも大きい。
  
 広場のそばに保育園がある。地震発災時、ここで園長を務めていた園田久美代さん(圏副女性部長)は、子どもが大好きだ。豊かに変わる故郷の景色に目を細めながら、年々歳々、朝な夕な、自宅の庭に整えた小さな追悼碑の前で、変わらぬ祈りを重ねてきた。

 「今日も頑張るけんね」――近くの実家で1人暮らしをしていた母・野田洋子さんを、地震で失った。

■よかとこね

 洋子さんが口ぐせのように語っていた言葉がある。「学会は、よかとこね」
  
 娘の久美代さんが短大時代、一家親族の中で初めて信心を始めた時、父・英明さんと一緒に猛反対していたことなど、誰も信じられないほどに――。
  
 洋子さんが入会したのは2011年の7月18日。がんと闘う英明さんの回復を願ってのことだった。だが5日後の23日、英明さんは眠るように逝いた。周囲の心配をよそに、洋子さんは言った。「父ちゃんを学会の友人葬で送りたい」
  
 西原村の学会員の温かさに触れ、娘の成長した姿を見て、感じていたものがあったのかもしれない。
  
 「この家ば守るけん」と、1人暮らしを選んだ母。それでも寂しさとは無縁の日々。朗らかな創価家族に囲まれ、信仰を深めていく。

 学会への偏見が強かった頃から村に尽くしてきた先輩夫妻は、御書を通し、励ましてくれた。「この仏法を信じて師匠の池田先生についていけば、必ず境涯革命できるけん!」
  
 教学部任用試験の勉強の際には、緑内障で目が不自由な洋子さんに、女性部の友が寄り添い、教材を一字一字、読み上げてくれた。合格の報を、村の同志がどれほど喜んだか。
  
 御書に「『喜』とは、自他共に喜ぶことなり」(新1061・全761)と。洋子さんは趣味の園芸で花を育てては近隣の人の目を楽しませ、会合があれば手料理を振る舞い、「読むと元気になるけん」と聖教新聞を手に対話に歩いた。
  
 題目が好き。同志が大好き。「学会は、よかとこね」――村の皆が幸せであるようにと、祈る母だった。

■ごめんね

 そんな日常が破られた、10年前の4月14日。震度6の揺れが村を襲う。久美代さんは「心配だけん、うちの家に来なっせ」と洋子さんに電話をかけたが、なぜか頑として聞き入れてくれない。「(亡くなった)父ちゃんが見守っとるけん、大丈夫ばい」と。
  
 16日未明――「ドオン!」という轟音。家財も、久美代さんの体も宙を飛ぶ。脳裏をよぎったのは「お母さん!」。暗闇の中を向かおうとする久美代さんを、夫・幸治さん(副本部長)が制した。「俺が行く」
  
 崩れ落ちた家屋。幸治さんがすき間に手を伸ばす。冷たい何かに触れた。
  
 夜が明けた。無言の母を見つめる久美代さん。どうして無理やりにでも自宅に連れていかなかったのか。「ごめんね……」

■村民で語り合い

 正しい選択とは。災害は発生後も、被災地の人々に苦しい問いを突きつける。
  
 久美代さんには、悲しみと向き合う暇もなかった。村で唯一の保育園を運営する園長として、臨時休園するかどうかの判断を迫られたからだ。「こんな時だからこそ、園を必要としている人がいるはず」。職員も同じ思いに立ち、園児を迎え入れた。

 子どもの笑顔。保護者の安堵。「あの時、保育園に預かってもらえたから」心に余裕が生まれ、生活再建ができたという母親の言葉を聞くまで、不安がなかったと言えば、うそになる。
  
 当時の久美代さんの決断と職員の献身に感謝したのは、利用者だけではない。発災当時、村役場の職員だった吉井誠村長も、その一人である。

 現在56歳。西原村生まれ、西原村育ち。自らも家と親しい人を失いながら、復旧事業に当たっていた。「苦しい中で、村民お一人お一人が、どれほど支え合ってこられたか。私も、どんなに勇気づけられたか分かりません」
  
 村では“創価学会の◯◯さん”として知られている人たちも、村長にとっては「私が子どもの頃からお世話になっている、家族みたいな存在」だという。
  
 例えば――約70年前の西原村で、最初に学会の旗を掲げた永田家。長男・智広さん(副本部長)は発災時、避難所に身を寄せつつ、村のフランス料理店のシェフとして約600人分の炊き出しを行い続けた。

 家屋の9割が失われた大切畑集落。昔から住む坂本隆博さん(圏主事)・悦子さん(圏女性部主事)夫妻にも「よく相談に乗ってもらいました」と、吉井村長は言う。
  
 隆博さんは防災ボランティア、集落の区長、村の総区長などを、悦子さんも村の婦人会長を10年以上務めるなど、要職を歴任してきた夫妻である。

 よく知る者同士。時に、つかみ合いのけんかになることも。郷土を愛する思いは同じ。共有した分だけ信頼は深まった。隆博さんは老人会会長として、年長者らの意見を取りまとめた。
  
 約60回の協議の末、集落を土砂崩れから守る擁壁を強固にした上で、現地再建する方針が決定。大切畑の合意形成がモデルとなり、ほかの集落でも復興計画が次々とまとまった。

 村長は振り返る。
 「村のトップダウンではなく、時間がかかっても村民同士が語り合って集落の未来を決めたことで、住民と行政の連携が強まりました。結果的に一人一人の満足度も高まる形で、震災以前よりも良い形へ発展させる『創造的復興』につながったと思います」

■心の復興は

 “目に見える復興”は進んだ。“網膜には映らない復興”もある。人の心だ。
  
 地震発生後の4月20日付本紙で池田先生が贈った、随筆の一節がある。「試練をはね返すものは、我ら民衆の、何があっても共に守り合い、共々に生き抜いていくという誓いであり、祈りではないでしょうか」
  
 自分も負けない。そして苦しんでいる人を絶対に置き去りにしない――この心を、熊本、そして九州の創価家族は体現してきた。

 西原村の内村あけみさん(副白ゆり長)は地震で義父を亡くし、自宅も失い、自らも大けがを負った。その後、大病も患った。心が折れかけた。乗り越えることができたのは「同志の祈りと励ましがあったから」。村内に自宅を再建。わが子は地震後の経験を糧に、理学療法士の道を志す。
  
 楠フミヨさん(支部副女性部長)は、御船町の自宅が全壊した。夫の包美さん(壮年部員)と共に、家族同然の愛犬も住める場所を町内で探しに探したが、見つからない。
  
 愛する同志と長年、広布に駆けた舞台。後ろ髪を引かれる思いで、西原村へ。ふさいだ心を開いてくれたのは村の同志だった。「安心しなっせ! みんな家族だけん」と。夫が病に襲われた時も、わがことのように祈ってくれた。
  
 「ここに来た使命があるんだ」――フミヨさんは本年2月、地区女性部長の任命を受け、友の励ましに歩き始めた。

 園田久美代さんもこの10年、どれほど同志に支えられてきたか。ずっとこらえてきたものを「全部出しなっせ。泣いてよか」と、ありのまま受け止めてくれる女性部の先輩もいた。
  
 亡き母が結んでくれた縁もある。強まった親族とのつながり。在りし日の母との思い出を教えてくれた村の人々との友情。母が「あんたが幸せにしてあげなっせ」と、自分に引き継いでくれたように思えた。

 久美代さんは圏女性未来本部長として、西原村を含む阿蘇地域の未来部員にも尽くしてきた。小学生の頃から励ましてきた、山都町の佐藤雅美さんが今春、東京の創価高校へ進学。地域の喜びは計り知れない。
  
 雅美さんは語っていた。「学会って、温かいところですよね」

■後記

 震災後、久美代さんに趣味ができた。母が好きだった園芸である。全壊した実家の墓地から遺骨を自宅へ移して保管し、庭を色とりどりの花々で彩った。祈りを欠かしたことはない。心がつながる時間であり、誓いのひとときだからだ。
  
 今月5日、西原村の創価家族が開催した「復興の集い」から帰宅した後も、亡き母に報告した。あの人が、体験発表していたよ。この人も、負けなかったよ。みんなで話して、笑って、泣いて、励まして――。「この村は、学会は、ほんとによかとこね」

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