ユース特集

【電子版先行】〈戦後80年特集〉 インタビュー サーロー節子さん ヒロシマのヒバクシャとして、核廃絶を世界に訴え、戦い続ける人生 2025年7月18日

あなた自身、子ども、孫
大切な人たちが
生き続けられるように――

 1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。80年がたち、被爆者の生存者の数が減少する中、世界では今、核兵器使用のリスクが高まっています。
 
 サーロー節子さんは、「あの日」を広島の地で体験し、ヒバクシャとして世界中で自身の体験を語り、反核運動を続けてきました。
 「あの日」を繰り返さないために、私たちはこれからどう生きていくべきか――広島で生まれ育った、本社所属のスチューデントリポーター「きんつば」(ペンネーム)が、話を伺いました。

■反核運動の原点

 ――サーローさんは、世界中で自らの体験を語り、2017年に核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞された際には、被爆者として初めて授賞式で演説されました。長年にわたる活動の原点を教えてください。
 
 
 1945年、私は広島女学院高等女学校(現在の広島女学院中学・高校)の2年生でした。前年から勤労動員が実施され、私は1945年7月、第二総軍司令部の暗号班に配属されました。
 8月6日は、訓練を終え、暗号解読の助手として作業する初日でした。出勤し、木造の建物の2階に上がり、いよいよ作業という時、すさまじい閃光に包まれました。机の下に隠れようと思った時には、爆風で体ごと吹き飛ばされ、意識を失いました。
 
 第二総軍司令部は爆心地から1・8キロの距離にあり、建物は倒壊。意識を取り戻すと、がれきに挟まれて動けなくなっていました。
 静寂の中で「お母さん」「神様、助けて」という同級生の声が聞こえました。私は「このまま死ぬのだろうか」と考えました。その時、誰かが私の左肩をつかみました。

 「諦めるな。動いていけ。光が見えるだろう。這って行くんだ」――声のあるじの顔は見えません。わずかに光が差す方向を目指し、外に這い出ました。外は原爆によるきのこ雲で、夜のように暗くなっていました。市の中心部から、大やけどで皮膚がずるむけになった人々が向かってきました。髪が逆立ち、腹から内臓が飛び出した人が、よろよろと歩き、倒れこむ。それは、地獄絵図でした。
 
 原爆の強烈な熱線は、爆心地から3・5キロ離れたところにいる人にもやけどを負わせ、1・2キロ以内で遮るものがないまま直撃すると、ほとんどの人が数日内に死亡しました。
 爆風は約2キロ離れた木造家屋をも倒壊させました。そして大量の放射線は人体の奥深くに入り、爆発後に救護に関わった人々にまでも、死や障がいをもたらしました。1945年末までに人口約35万人だった広島で約14万人が死亡したと推定されていますが、正確なことは分かっていないのです。

 ――インタビューに際して、サーローさんの著作を読み、初めて社会に向けて声を発せられたのは、私(スチューデントリポーター)と同じ年ごろの学生時代であったと知りました。
 
 
 広島女学院(中・高・大)で10年間学んだキリスト教の思想から、道徳的な責任感を持って、社会に貢献したいと思って育ちました。戦争が終わった後には、両親も家族もいない子どもたちや戦争から帰ってくる兵隊たち、夫の帰りを待ち続ける妻たちなど、多くの広島の人たちが苦しみました。私は、こうした危機に奔走して対処する大人たちの姿を眺めていました。
 
 北米で反核運動を始めたきっかけは、1954年8月のアメリカへの留学です。その時分は、3月にアメリカが太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船・第五福竜丸が被ばくするという事件が起きていました。私がアメリカに到着して早々に、地元の新聞記者たちに、事件について感想を聞かれました。私は正直に、「広島と長崎で原爆は終わりにしなければならない」「人間と環境にどういう問題を引き起こすかアメリカは考えるべきだ」と思いを全部ぶつけました。

 するとその記事が出た翌朝から、匿名の脅しの手紙が届くようになりました。「アメリカの政策に反対の者は日本へ帰れ」と。この社会で生きていくことができるのか不安で、恐怖を感じました。広島の体験について口を閉ざすべきなのか、と苦しみました。
 しかし、1週間、自分の心を探って、最後には、「私が口をつぐんでしまうと、核兵器の恐ろしさを世界に伝える者がいなくなる。私は、脅しには屈しない」と結論しました。

 今考えると、「1週間苦しんだだけで、よく、その勇気が出たね、節子」と、若い頃の自分の背中をたたいてあげたいと思う。
 それから、何十年も同じように核廃絶の理由を皆さんに伝えてきました。
 カナダ人の教師と結婚し、ソーシャルワーカーとして働きながら、被爆体験の講演を行い、新聞への意見広告を出し、展示活動も行いました。何一つとして、決して容易ではありませんでした。
 時々人知れず涙を流したこともあります。私を支持してくれた夫がそばにいて、見守り励ましてくれました。

■異なる見解の人々へ

 ――現在、“相手を殲滅できる強大な核兵器を持つことで、他国に攻撃を思いとどまらせる”という「核抑止論」のもと、核軍拡が進む懸念が広がっています。核抑止を主張する人たちに、サーローさんはどのように反論・対話されていますか。

 核兵器のボタンを押せば、広島で私がこの目で見たことが、再び現実になります。何百人、何千人、十数万人の死者や瀕死の状態にある人たちを想像した上で、核抑止論を論じることは、道徳的に人間として私にはできません。

 そしてまた、道徳的、人道的な議論が通じない人々に対しても、私は核抑止論の欠点を指摘しています。それは、核兵器を使用する最終的な意思決定者が、常時、100%、論理的に物事を考え、決断できるのかという問題です。答えはノーです。

 人間には感情がある。意思決定をする人たちが絶えず論理的に物事を考える人たちであるとは言えません。だから、核抑止論というものは、非常に頼りなく、危険なものだと思います。

 北米で、被爆した体験を話す中で、身の危険を感じたこともありました。それでも、ただ正直に自分の体験と思いを、周囲の人に遠慮せず、勇気を持って対話してきました。真実を、繰り返し、命の限り語り抜く。核抑止という幻想を打ち破る手段は、それしかないのです。

 ――私(スチューデントリポーター)は昨年、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が主催する行事に参加しました。そこで、世界15カ国・地域の、核保有国と非保有国から集まった同世代の若者たちと、核兵器と安全保障について議論しました。教育や文化的背景の違いから、さまざまな立場や意見が存在することを感じました。サーローさんが、見解の異なる人と接する上で、大切にしていることはありますか。

 私の住むカナダは移民が多く、多様な背景を持つ人々が暮らしています。核兵器について、私と異なる考えを持っていて、話をするのが難しい方との出会いもありました。大切なことは、反核のことをお話しする前に、人間が人間として、互いへの尊敬を持って話し合うことだと思います。

 数年前のことです。国連で世界各国から高校生を招待して、核廃絶に関する平和会議が行われました。私も参加し、広島の話をしたのですが、ある一人の学生が、私に質問しました。「私の祖父は戦争で日本軍によって苦しめられた。私は日本人を許すことができません。あなたは今、平和を唱えていますが、かつて日本人がしたことを知っていますか」と。

 私は敬意を持って一語一語、聞きました。そして会議が終わっても、2人で対話を続けました。私はお伝えしました。「戦時中、私は13歳で、国家の政策決定に関わったことはありません。しかし、私は日本人ですから、collective guilt(集団的責任)を感じます。心からおわびをします」と。

 さらに数年して、一通の手紙が、その若者から、私のもとに届きました。このように記されていました。

 「国連での会議の時は、失礼な質問をしました。日本人を恨んでいたために、核廃絶の問題に耳を傾け、心を開いて考えることができませんでした。しかし、あなたは、私の一語一語に敬意を払い、聞いてくださいました。そして日本人としておわびまでしてくれた。その経験があって私は真剣に考え始めました。今は大学で学生会の会長をしています。科学者になることが夢でしたが、今は外交官を目指しています。そして日本と中国の関係を改善できるような人間になりたいと思っています」

 私はそれを読み、本当に、涙を流して喜びました。正直に、相手に敬意を払いながら、互いの考えに耳を傾けることによって、心は開かれていくと思います。

■尊厳と希望

 ――1957年に、創価学会の戸田城聖第2代会長は、原水爆禁止宣言を発表しました。その中で、「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」と訴えました。今も世界各地で紛争が相次ぎ、多くの市民が犠牲になっています。そうした中で、「生存の権利」そして全ての人間の尊厳を守るために、何が必要でしょうか。

 「生存の権利」そして人間の尊厳という言葉に、私は100%同意します。私はキリスト教の教育を受けたので、「隣人愛」という言葉で理解しますが、創価学会インタナショナルの思想と行動に期待するのも、「人間の尊厳」を守るという点で、完全な一致をみるからです。

 80年前のあの日、広島の多くの人が虫けらのように扱われて焼かれました。私は7人きょうだいの末っ子ですが、2番目の姉とその息子である4歳の甥が、原爆で亡くなりました。真っ黒こげになって、見る影もない姿で。私の両親と一緒に遺体を運び、だびに付しました。当時、あまりにも遺体が多く、運動場や川岸で兵士たちが流れ作業のように焼却していました。竹竿で遺体をつつきながら、「まだ腹が焼けてないぞ」「頭が半焼けだ」と、今では考えられないような言葉を使いながら、焼くのです。私はその時、涙を流すことも、怒りを感じることもありませんでした。私にとって、そのことが一番の苦しみでした。

 人間の尊厳を守るために必要なことは、繰り返し語り抜くこと。また、連帯すること。市民が勇気をもって連帯し、行動を起こすこと。社会に目に見える形で示すこと。私にとってそれは、仲間たちとの講演や展示活動でした。現在は、SNSで指導者の暴論が猛威を振るっている。それにどう立ち向かうのか、新たな時代の新たなアイデアが求められているとも感じる。若い皆さんと一緒に考えたいです。

 ――広島の平和記念公園にある平和の鐘には、「世界は一つ」を象徴し、国境のない世界地図が刻まれています。それは人類が理想とする世界だと思いますが、今はその理想から程遠い現状があります。世界では国際法や国連憲章が踏みにじられている、このような困難な状況の中で、サーローさんはどのようなことに希望を見いだされますか。

 今、本当に真夜中を歩いているような世界です。でも、私にとって2017年に採択された核兵器禁止条約(TPNW)が、その暗闇の中で今まで以上に輝いています。当時、核保有国は強く反対・妨害しました。しかし、採択にこぎつけ、国連加盟国の3分の2に上る、122カ国の人々がTPNWを迎え入れた。今は、条約をどのように確立させるか、条約の締約国が奮闘し、準備を重ねています。

 また、ICANでも、マーシャル諸島をはじめ、核実験の被害を受けた人たちが発言できるようなサポートをするなど、あらゆる場所で連帯を強めています。アメリカという最大の核保有国でも、各都市で、次の世代の人たちが、反核運動を推進しています。そういう知らせが日々、私のもとに届きます。だから、私がいなくなっても、若い人たちが、私の思いをつないでくださるという希望、確信があります。

 私たちが命を賭して世界に被爆体験を伝えてきたのは、あなたたちの将来のためです。私の命はもうまもなく終わります。だからこそ、あなた自身、あなたの子ども、孫、大切な人たちが存続できるような社会を、「つくらなくてはならないのだ」という使命感、責任感を抱いてください。そして、その責任感をアクションに移してください。

 私は広島に生まれ、育ち、故郷・ヒロシマの思いを世界に伝えようと走り続けてきました。あなたたちも、そういう旅路を力強く生きてください。

取材を担当した学生記者

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