「大」を目指した大阪の逆説
「大」を目指した大阪の逆説
――まず「大大阪」というタイトルに目を引かれます。
長﨑励朗 1920年代から30年代にかけて、大阪市は人口で東京を抜いて日本最大の都市となり、「大大阪」と呼ばれました。しかし「大」を目指して日本最大の都市となり、東京と張り合う中でかえって独自のローカリティを失い、「均質化」の波にのみ込まれていく過程を論証しています。
――第1章のラジオ放送をめぐる新・旧大阪財界人の抗争が、やがて官僚の介入を招いていくとの独創的な分析・考察も興味深いです。
長﨑 今回は国立国会図書館の「次世代デジタルライブラリー」などを駆使し、『日本紳士録』や『人事興信録』といった当時の資料から、大阪放送局(JOBK)設立に関わった発起人約130人の経歴を一人ずつ洗い出しました。
さらに、彼らの住所を現在の地図上にプロットしてみると、当時の大阪経済の中心部・船場周辺に旧勢力財界人が集住し、その周辺に新勢力の財界人が居住していました。つまり、ラジオという新しいメディアの主導権を巡って、船場という「場所」(地域性)に根付いた新旧勢力の抗争があることが視覚的に確認できました。ところが、行き過ぎた抗争が官僚の介入を招き、結局大阪のラジオは独自性を失い、中央集権化のプロセスへと飲み込まれていったのです。
――まず「大大阪」というタイトルに目を引かれます。
長﨑励朗 1920年代から30年代にかけて、大阪市は人口で東京を抜いて日本最大の都市となり、「大大阪」と呼ばれました。しかし「大」を目指して日本最大の都市となり、東京と張り合う中でかえって独自のローカリティを失い、「均質化」の波にのみ込まれていく過程を論証しています。
――第1章のラジオ放送をめぐる新・旧大阪財界人の抗争が、やがて官僚の介入を招いていくとの独創的な分析・考察も興味深いです。
長﨑 今回は国立国会図書館の「次世代デジタルライブラリー」などを駆使し、『日本紳士録』や『人事興信録』といった当時の資料から、大阪放送局(JOBK)設立に関わった発起人約130人の経歴を一人ずつ洗い出しました。
さらに、彼らの住所を現在の地図上にプロットしてみると、当時の大阪経済の中心部・船場周辺に旧勢力財界人が集住し、その周辺に新勢力の財界人が居住していました。つまり、ラジオという新しいメディアの主導権を巡って、船場という「場所」(地域性)に根付いた新旧勢力の抗争があることが視覚的に確認できました。ところが、行き過ぎた抗争が官僚の介入を招き、結局大阪のラジオは独自性を失い、中央集権化のプロセスへと飲み込まれていったのです。
――そもそも、なぜこのテーマに着目されたのでしょうか。
長﨑 その逆説的な構造に着目した背景には、元々私がアメリカのラジオ史を研究・翻訳する中で、場所とメディアの関係に強い関心を持っていたことがあります。メディアは空間を超えるものと思われがちですが、米国の初期ラジオ局が地域性を重視していたように、実はメディアは特定の場所に強く拘束されているのです。それを自分の地元である大阪に当てはめてみたのが研究の出発点でした。
――第2章以降も、東京への対抗意識が逆に大阪の独自性を奪うとの論証が重ねられていきます。
長﨑 本書ではラジオだけでなく、大阪のお笑いや宝塚歌劇、職業野球などの大衆文化も歴史的に問い直しています。例えば吉本興業の全国展開は、一見すると「大阪の文化が全国を制覇した」ように見えます。しかし実態は、古い大阪の文化が持っていた地域特有の要素を捨て去ることで、大衆の支持を得たに過ぎません。「大衆」はたくさんの人間を塊として捉える言葉で、当時の新語・流行語ですから、まさに均質化を志向する時代の波に乗ったわけです。甲子園の高校野球などに象徴される「清く正しく美しい」スポーツマンシップの裏側にも、人間を均質化しようとする力学が働いています。
「大」を目指し、より多くの人々に届けようと効率化を進める過程で、大阪という地域に息づいていた「ノイズ」や独自のローカリティが、全国的な均質化の中に回収されてしまったのです。
――そもそも、なぜこのテーマに着目されたのでしょうか。
長﨑 その逆説的な構造に着目した背景には、元々私がアメリカのラジオ史を研究・翻訳する中で、場所とメディアの関係に強い関心を持っていたことがあります。メディアは空間を超えるものと思われがちですが、米国の初期ラジオ局が地域性を重視していたように、実はメディアは特定の場所に強く拘束されているのです。それを自分の地元である大阪に当てはめてみたのが研究の出発点でした。
――第2章以降も、東京への対抗意識が逆に大阪の独自性を奪うとの論証が重ねられていきます。
長﨑 本書ではラジオだけでなく、大阪のお笑いや宝塚歌劇、職業野球などの大衆文化も歴史的に問い直しています。例えば吉本興業の全国展開は、一見すると「大阪の文化が全国を制覇した」ように見えます。しかし実態は、古い大阪の文化が持っていた地域特有の要素を捨て去ることで、大衆の支持を得たに過ぎません。「大衆」はたくさんの人間を塊として捉える言葉で、当時の新語・流行語ですから、まさに均質化を志向する時代の波に乗ったわけです。甲子園の高校野球などに象徴される「清く正しく美しい」スポーツマンシップの裏側にも、人間を均質化しようとする力学が働いています。
「大」を目指し、より多くの人々に届けようと効率化を進める過程で、大阪という地域に息づいていた「ノイズ」や独自のローカリティが、全国的な均質化の中に回収されてしまったのです。
効率性の陰で消される主語
効率性の陰で消される主語
――本書の主眼である全国的な均質化の弊害は、現在の「副首都法案」、あるいは大阪における「都構想」をめぐる動きとも重なり合うようです。
長﨑 本書のサブタイトルにも「東京への対抗」とありますが、「副首都」や「都構想」という名称自体が、東京と同じ基準で「ミニ東京」になろうとする均質化の欲望をはらんでいると感じます。もちろん、こうした政策を推す人たちにも、彼らなりの考えがあるでしょう。また「効率的であること」それ自体が悪いわけではありません。私が問題だと感じているのは、そうした抽象的な言葉によって、「主体性(ポジショナリティ)」が隠蔽されてしまうことです。
例えば「大阪のために」と言う時、その「大阪」とは一体何(誰)を指しているのか、ということです。「効率的だからこうする」というロジックは一見、恣意的でないように見えます。しかし、効率性の先にある目的は何か、その政策によって誰が得をし、誰が損をするのかという「主語」を問い続けなければならないのです。
――本書の主眼である全国的な均質化の弊害は、現在の「副首都法案」、あるいは大阪における「都構想」をめぐる動きとも重なり合うようです。
長﨑 本書のサブタイトルにも「東京への対抗」とありますが、「副首都」や「都構想」という名称自体が、東京と同じ基準で「ミニ東京」になろうとする均質化の欲望をはらんでいると感じます。もちろん、こうした政策を推す人たちにも、彼らなりの考えがあるでしょう。また「効率的であること」それ自体が悪いわけではありません。私が問題だと感じているのは、そうした抽象的な言葉によって、「主体性(ポジショナリティ)」が隠蔽されてしまうことです。
例えば「大阪のために」と言う時、その「大阪」とは一体何(誰)を指しているのか、ということです。「効率的だからこうする」というロジックは一見、恣意的でないように見えます。しかし、効率性の先にある目的は何か、その政策によって誰が得をし、誰が損をするのかという「主語」を問い続けなければならないのです。
元来、人々にそうした「主語」を意識させ、利害を表現する手段としても機能していたのは労働組合や同業者組合などの中間団体でした。歴史的に見れば、それらに包摂されない人が増えてくる時期に「大衆」や「国民」といった抽象度の高い言葉が台頭しています。そうしたバラバラの人々は国家と自分の立場を同一視しがちです。誰も自分たちを代表してくれないのであれば、国家が代表してくれていると考えるほかないからです。こうした動きは明確な全体主義のような形をとる場合もありますし、そうでない場合もありますが、いずれにせよ、民主主義自体のはらむ危うさとして、古くはカール・マルクスの時代から繰り返し議論されてきました。
元来、人々にそうした「主語」を意識させ、利害を表現する手段としても機能していたのは労働組合や同業者組合などの中間団体でした。歴史的に見れば、それらに包摂されない人が増えてくる時期に「大衆」や「国民」といった抽象度の高い言葉が台頭しています。そうしたバラバラの人々は国家と自分の立場を同一視しがちです。誰も自分たちを代表してくれないのであれば、国家が代表してくれていると考えるほかないからです。こうした動きは明確な全体主義のような形をとる場合もありますし、そうでない場合もありますが、いずれにせよ、民主主義自体のはらむ危うさとして、古くはカール・マルクスの時代から繰り返し議論されてきました。
異なるままで共に生きる
異なるままで共に生きる
――都市や人間が主体性を失わないために必要な視点は?
長﨑 本来、社会には多様な利害があり、それぞれが自分の価値観や利益を代表してぶつかり合い、調整していくのが「政治」の役割です。ある立場から見れば失政に見えるものであっても、それこそが政治の本質なのです。それを「効率性」の名の下に、上から一枚岩のようにならしてしまうことは健全ではありません。
今の社会は、何か訳の分からないものや、ノイズのような場所を過剰に消し去ろうとします。しかし本来、地方の名物や豊かな文化というのは、行政が組織しトップダウンでつくり上げるものではなく、その土地の気候や人々の営みの中から自生的に育まれてきたものばかりです。
――都市や人間が主体性を失わないために必要な視点は?
長﨑 本来、社会には多様な利害があり、それぞれが自分の価値観や利益を代表してぶつかり合い、調整していくのが「政治」の役割です。ある立場から見れば失政に見えるものであっても、それこそが政治の本質なのです。それを「効率性」の名の下に、上から一枚岩のようにならしてしまうことは健全ではありません。
今の社会は、何か訳の分からないものや、ノイズのような場所を過剰に消し去ろうとします。しかし本来、地方の名物や豊かな文化というのは、行政が組織しトップダウンでつくり上げるものではなく、その土地の気候や人々の営みの中から自生的に育まれてきたものばかりです。
――地域のローカリティを守り、均質化の罠に陥らないために、私たちはどのような姿勢で向き合うべきでしょうか。
長﨑 私の師である佐藤卓己(上智大学教授)の言葉に、「コミュニケーションが相互理解を促進するという希望はあってもいいが、コミュニケーションすれば何とかなるというのは20世紀の病だ」というものがあります。互いにすべてを分かり合ったり、無理に一つの合意を形成したりする必要はないのです。
人間は誰しも、何らかの背景や「偏り(バイアス)」を持っています。それをないものとして振る舞うのではなく、違いを認識した上で、可能な範囲で互いを放っておく。つまり、ある意味で他人に興味を持ちすぎないこと。人間を「何々でなければならない」という画一的な枠から解放し、もっと自由に、好きにやれる余白を許容する社会のあり方こそが、今求められているのではないでしょうか。
――地域のローカリティを守り、均質化の罠に陥らないために、私たちはどのような姿勢で向き合うべきでしょうか。
長﨑 私の師である佐藤卓己(上智大学教授)の言葉に、「コミュニケーションが相互理解を促進するという希望はあってもいいが、コミュニケーションすれば何とかなるというのは20世紀の病だ」というものがあります。互いにすべてを分かり合ったり、無理に一つの合意を形成したりする必要はないのです。
人間は誰しも、何らかの背景や「偏り(バイアス)」を持っています。それをないものとして振る舞うのではなく、違いを認識した上で、可能な範囲で互いを放っておく。つまり、ある意味で他人に興味を持ちすぎないこと。人間を「何々でなければならない」という画一的な枠から解放し、もっと自由に、好きにやれる余白を許容する社会のあり方こそが、今求められているのではないでしょうか。