読者投稿

〈もうひとコエ〉 労苦こそ人生の宝 2026年5月16日

福岡市東区 田中友春さん

 「もうひと声、思いを伺いたい」「もうひと越え、深く知りたい」――「声」の欄の投稿者の元へ担当記者が訪れる「もうひとコエ」。今回は、福岡市東区で小学校区の、ねんりんクラブ連合会会長、社会福祉協議会会長などの七つの会長職を担い、日々奔走する田中友春さん(76)=副区長=(2月21日付掲載)です。
 多忙な日々の中でも笑顔と優しさ、そして真剣さを忘れない田中さんですが、実は最初から地域役職を二つ返事で引き受けてきたわけではないとのこと。忙しくなることへの葛藤もあったとか。「どうして、そこまで頑張れるのか?」と聞いてみたくなりました。
 「若い頃の苦労と、学会での薫陶のおかげです」と笑顔で語る田中さん。そうした日々の中で、“創価学会員であるとの誇り”を培ったそうです。これまでの人生ドラマを聞いてみました。
 ◇ 

 「すごいけど、ここまで多忙な生活は、正直したくないな」――田中さんの投稿を目にした時、現在25歳、Z世代の記者は率直に思った。
 新聞掲載から約3カ月、どうやら会長職は一つ増えて八つになり、さらに他の役職を三つも兼任しているという。御年76歳。体がいくつあっても足りない生活に尊敬の念を抱きつつも、心が引いている自分がいた。
 田中さんに連絡する日。“昭和のたたき上げのような、怖い人なんだろうな”と想像し、うまく話せるか心配になった。
 スマートフォンを手に取って電話をかけると、田中さんはすぐに出た。予想に反して明るい口調、ユーモアたっぷりの言葉の数々――。会話をしていると、質問する側の記者の方が元気に軽やかになった。
 心躍らせて福岡へ飛んだ。
  

“皆で話す場”を作る

 福岡市東区のマンションにお邪魔し、取材の冒頭、田中さんに率直に、地域での活動について尋ねた。
 「最初から、多忙な日々を過ごそうと思っていたわけではないです(笑)」
 始まりは2006年(平成18年)。「田中さんの笑顔があれば、大丈夫だよ」との友人の言葉に背中を押されて、マンションの自治会長を引き受けた。その後、地域役職を次々と頼まれ引き受けることに。
 大変だと思ったが、池田先生が折々に「地域貢献」の大切さについて語っていたことを思い出し、地道に励んだ。
 その姿に“田中さんは、学会員ばってん、よく頑張ってくれている”と、学会への無理解から人間関係がうまくいっていなかった人たちも、徐々に信頼を寄せてくれるように。地域貢献の大切さを呼びかける池田先生の指導を、身をもって学んだという。
 そんな中、高齢者の「皆で集まっておしゃべりをしたい」という声を多く聞いた。時を同じくして、校区社会福祉協議会から「『ふれあいサロン』を開ける自治会は、開催してほしい」という要請があった。
 田中さんは思いきって、自宅のあるマンションに「ふれあいサロン」を立ち上げることにした。
 「ふれあいサロン」は、月に1、2回の開催。健康体操、頭の体操、カラオケを楽しみながら、全員で“おしゃべり”する。
 参加者の一人に、満生弘子さんがいる。地域の学会員との縁も深く、学会に対して理解を寄せる。取材中、「まあ、創価学会に入会はしないけどね(笑)」と、とてもひょうきんな女性だ。
 そんな満生さんが、「田中さんがいなかったら、こんな取り組み、絶対にできていない」「田中さんは、嫌な顔をしないんです」と。その言葉から、積み重ねてきた信頼を感じた。
 満生さんに「『ふれあいサロン』で、一番楽しいことは何ですか?」と聞くと、「皆で話すこと」との答えが。
 近況や来し方まで、皆で語り合えることが「ふれあいサロン」の魅力。田中さんは、「マンションは、人間関係が薄いイメージがあるけど、ここだけは違う」と胸を張る。最近は、外国人の入居者も増えてきた。そうした人たちとの交流も始まっている。
 田中さんと満生さんの話を通して、高齢者の孤立・孤独がたびたび話題になる現代にあって、「ふれあいサロン」は、住民たちの心と心を結ぶ場になっていると感じた。
  

あの苦労と薫陶があったから

 田中さんは、1949年(昭和24年)12月18日に福岡県大牟田市で生まれた。57年(同32年)2月、在日韓国人の女性から折伏を受けた母と共に、7歳で創価学会に入会した。
 学会はかつて、「貧乏人と病人の集まり」と世間から揶揄された。田中さん一家は、その典型だった。
 病弱な母の代わりに、家のかまどで米を炊くなど、5人家族の生活を支えた。
 母と一緒にリンゴ箱を仏壇にして祈り抜いた。「健康になりたい」「生活を良くしたい」との一心。「本当に貧乏でした。しかし、今振り返ると、あの苦労があったおかげで信心することができたんだと、心から感謝しています」
 先輩に連れられ、学会歌を口ずさみながら学会活動に励んだ若き日。学会への無理解が原因で、友人や教師から心ない言葉を投げかけられたこともあった。友人と口論になった記憶も。田中さんは「子どもなりに、絶対に正義を訴え抜こうと思っていた」と語る。
 中学卒業後、家計を助けるために就職。郵政職員として誠実に働いた。学会では男子部・輸送班(現在の創価班)5期生として薫陶を受けた。
 仕事に全力投球し、輸送班歌を口ずさみながら任務に励んだ日々。「考えてみると、はちゃめちゃな日々でしたが、それでも楽しかった」。当時から変わらない、忙しさの中に充実感を見いだす姿は、“生涯青春”の鏡に思えた。
  

信心の情熱、今も昔も

 「今、振り返っても、よく死ななかったと思う」という出来事は、田中さんが27歳の時に起こった。
 自動車の運転中に正面衝突事故に巻き込まれた。衝撃で内臓が破裂し、大量出血。死を覚悟した。
 “せめて題目を唱えながら死のう”と、苦しい呼吸の中で懸命に題目を唱えた。その時、突然「生」への強い執念が湧いた。“俺は輸送班の一員だ。皆を守る輸送班が、交通事故で死ぬわけにはいかない”
 事故の知らせを聞き、地元の同志が題目を送ってくれた。妻の智枝さん(=地区副女性部長)は何日も病室に宿泊し、看病してくれた。医師にも恵まれ、無事に回復。「九死に一生を得る、とはまさにこのこと」「信心の功徳としか思えないですね」――事故を通してつかんだ信心の確信が、今も田中さんを支えている。
 ◇ 

 田中さんは、自身の性格について「熱しやすく冷めやすい」と語る。しかし、年齢を重ねても信心の情熱だけは冷めなかった。
 それは、若き日の薫陶と強い信心の確信のたまものなのだろう。田中さんが何度も口にした「学会での薫陶のおかげ」との言葉が、それを物語っている。
 いつも後輩たちに伝える言葉がある。「信心だけは、素直で真面目にやるんだよ」「信心する上で、“自分はこれくらいでいい”というゴール地点を、勝手につくってはいけない。常に、『いよいよだ!』『これからだ!』という心持ちで進むんだ」
 別れ際、田中さんは「お元気で」と優しくほほ笑み、送り出してくれた。
 取材を通して、若き日の労苦は、人生の宝になり、「生涯青年の心」の異名が「挑戦」であると知った。田中さんの笑顔が、それを証明している。
 “創価学会員であるとの誇り”を燃やして、“いよいよだ、これからだ”との思いで鍛えの日々を過ごそうと深く決意した。(記事・写真=外﨑拓也)

◎掲載された原稿(2026年2月21日付)

 生涯青年の心で地域貢献に全力

 福岡市東区 田中友春(76歳)

 1949年(昭和24年)生まれの私は、今年で喜寿(77歳)を迎えます。

 27歳の時に車同士の正面衝突事故で死線をさまよいましたが、池田先生の励ましと結婚5カ月目の妻の献身的な看病、同志の皆さんの題目のおかげもあり、九死に一生を得ることができました。

 あれから半世紀。今、私は地域で自治会長、校区老人会会長、公園愛護会会長などの七つの会長職、そして校区社会福祉協議会副会長、民生委員、地域内の特別養護老人ホームの理事などの役職に就き、毎日、忙しく走り回っています。

 そんな中、今年度から現在住むマンション内で「ふれあいサロン」を立ち上げました。月に1、2度開催し、毎回、十数人の高齢者の方々と一緒に健康体操、頭の体操、カラオケなど楽しい時間を過ごしています。

 忙しすぎる私を心配してくださる方もいますが、多忙のおかげか、「いつもお若いですね」と言われることに無上の喜びを感じる昨今です(妻からは「お世辞よ」と言われるのですが……)。

 今後も“生涯青年”の心意気で「地域広布即地域貢献」との師匠・池田先生の指針通り、悔いのない人生を生き抜きます。