信仰体験
〈Seikyo Gift〉 〈いのちの翼を ハンセン病を生きる 信仰体験〉 人間回復の信心 この島に 2025年7月26日
一通の手紙が心に刺さった。
〈長島はいつか消滅します。でもこの島で学会員さん達がいきいきと活動されてきた歴史は、さん然と残ります〉
瀬戸内海に浮かぶ長島には、国立ハンセン病療養所「長島愛生園」と「邑久光明園」がある。そこに何十年と通って励ましを送り続ける一人の女性からの切実な手紙だった。
両園の入所者の平均年齢は89歳。生きる希望もないまま過ごさねばならない日々に、妙法の光が差したのはいつだったのか。
手紙を抱き締め、長島の同志たちの元に向かった。(岡山支局)
(6月1日付)
■凜と咲く花のような人
【岡山県瀬戸内市】4月下旬、邑久光明園の玄関に小柄な女性がピンと背筋を伸ばして立っていた。
「浜本と申します。よう来てくれましたね」
明るい関西弁に、隔離から連想する暗いイメージがみじんもない。浜本しのぶさん(88)=支部副女性部長(地区女性部長兼任)。マスク越しでも、温かな人柄が伝わってきた。
凜と咲く花のような人。
「きれいなオーロラを見ようと、南極まで行ってきた」
話し出すと止まらない。
「この島に来て、今年でちょうど80年になりますねん」
兵庫県の生まれ。両親と過ごした幼少期の記憶はない。父はハンセン病にかかり、長島に収容された。母は実家に帰り、籍を抜いた。
8歳の浜本さんは、二つ違いの姉と、長島愛生園の未感染児童が暮らす寮に入った。
「でも、そばに姉がいたから、寂しくはなかったですねえ」
■生きとる価値とは?
異変は11歳の時。家庭科の手縫いで、左手がうまく動かなかったのを、教員に見つかる。
医局でハンセン病と診断され、そのまま感染した児童が暮らす少年少女舎に連れて行かれた。姉とは言葉を交わせないまま離れ離れに。裏手の山で「お姉ちゃん、会いたいよ」と泣いた。
寂しさはあったが、生活の全てを制限されたわけではなかった。盆踊り大会や運動会、年頃には恋もした。失恋もした。
成人になり、大阪の姉を頼って、愛生園を逃げ出した。
「若気の至りというやつですわ」
仕事を探すが、どこへ行っても「うつる」と冷たくされた。
「私なんか、生きとる価値ないやん」
打ちのめされて長島に戻り、光明園に入所した。そこでは家族や親類に累が及ぶことを恐れ、名前を“園名”に変えていた。舎監から告げられた。
「あんたの名は今日から『しのぶ』や」
「らい菌」に感染することで顔と手足が変形することや、感染の恐れから、患者や家族は激しい偏見にさらされた。自分の歩く後から消毒薬をまかれた経験のある人ばかり。
浜本さんの寮に、よく訪ねてくる男性がいた。
「いてるかー?」
生粋の大阪人。いつも創価学会の話をする。後に夫となる庄三さんだ。
「ぜんぜん私のタイプと違ったけど、しゃーないかと思って結婚しました(笑)」
庄三さんは16歳でハンセン病を発症した。差別にさらされても、明るさを失わなかった。
「会合に遅刻してな、みんなと一緒に叱られたんや。うれしかったで。創価学会だけが、平等に俺を扱ってくれたんやもん」
1964年(昭和39年)、浜本さんは27歳で信心を始めた。
新婚生活は楽しいものではなかったらしい。
指輪をしていない。ハンセン病は薬で完治したが、後遺症による障がいが指に残った。
それに当時、園で子どもを持つことは許可されず、「不良な子孫の出生を防止する」という目的の旧優生保護法のもと、断種や人工妊娠中絶(堕胎)を強いられていた。
「でも、ホッとしたこともあるんです」
婚姻によって戸籍謄本から「除籍」されたことだった。
浜本さんが20歳の時、姉の婚約が破談になった。相手が信用調査会社で調べたと分かり、がくぜんとした。自分の病気のことで姉に迷惑がかかることは、死ぬことよりもつらい。
姉に手紙を出した。〈戸籍から引かせてほしい〉。電話で「あかん」と言われた。
■自分たちの勲章
不条理の闇を照らすのは、「信心以外になかったね。島内でな、大折伏戦をしたんですわ」。
一軒一軒訪ねては対話を重ねた。後遺症で顔が変形した人、視力を失った人、足を切断した人。「同情はいらん」と追い返された。
それでも通い続けると、1人2人と題目を唱える人が出てきた。
「それが自分たちの勲章だった」
自転車のペダルが軽く感じた。坂道のカーブで転んでも、笑い合えた。
人目につけば差別と偏見に縮こまるしかなかった自分に、人を信じる気持ちを呼び覚ましてくれた人間回復の信心。
本当の幸せとは何か。差別と偏見の地獄をも、仏国土へと変換してみせる同志たち。
「夫れ、浄土というも、地獄というも、外には候わず。ただ我らがむねの間にあり。これをさとるを仏という」(新1832・全1504)
「隔離の島」と呼ばれた孤島で、いのちの翼を空の高みへと広げていく。
「心まで隔離されていたわけやなかったんやな」
浜本さんは渡し舟で向こう岸に降り、市内での会合によく参加した。
大きな原点は76年3月、岡山支部結成20周年の記念勤行会。首を伸ばした視線の先に、池田先生がいる。
「日陰で育った自分でも、先生の励ましに支えられて、心に明かりをともしてこられました」
心で何度も“ありがとうございます”と叫んだ感激は、今も。
庄三さんは、がんで65歳の命の幕を閉じた。葬儀の日、浜本さんは、ひつぎの庄三さんに背広を着せ、新品の革靴を履かせた。「ようやく島の外で思いっきり、世界広布ができるね」と頰をなでた。
涙はない。三世永遠の生命観に立ち、死は次なる生への「出陣」と位置づけていた。
■こぶしを突き上げた
社会から切り捨てようとする人々の理不尽とは、徹底して戦った。
2001年(平成13年)5月11日、ハンセン病の国家賠償請求訴訟の歴史的勝訴の瞬間、「夫の顔が浮かんで泣けた」。国が控訴へ、とニュースが報じると、浜本さんは原告らと官邸前に座り込んだ。声を張り上げ、こぶしを突き上げる。国は控訴を断念した。
それから今年で24年。今も差別を恐れ、大好きな姉への連絡は控えている。
偏見や差別と戦い続けてきたハンセン病回復者たち。両園では高齢化が進み、帰る里のない人もいる。浜本さんは「元気しとったかい?」と足を運ぶ。長島の「母」と慕われる。
家庭菜園でキュウリやトマトを育てるのが楽しみ。花も好きで、部屋の花瓶に桃色のシャクヤクを生けた。
「今は何にもできへん身ですけど、精いっぱい今日を生きておるんです」