世界は今、先行きの見えない混沌とした状況に陥っている。
法の支配が揺らぎ、生命の安全が脅かされている。
国や民族の対立、経済の不安定化、格差の拡大に伴う分断の深まり、気候変動をはじめとする環境破壊など、複合的な危機を前に、国際秩序は崩れ、人類は針路を見失っている。
こうした時代にあって、私たちは何をよりどころに生き、何を指標として進むべきか。
目先の出来事に一喜一憂することなく、時代の底流を見極める確かな視座が、今ほど待望される時はない。
新企画「時評――いまを読む」では、激動の時代を生き抜くための羅針盤を探り、方向を示すため、創価学会の各リーダーをはじめ、各界の専門家や識者の知見を紹介する。
初回は、原田教学部長の論考を掲載する。
世界は今、先行きの見えない混沌とした状況に陥っている。
法の支配が揺らぎ、生命の安全が脅かされている。
国や民族の対立、経済の不安定化、格差の拡大に伴う分断の深まり、気候変動をはじめとする環境破壊など、複合的な危機を前に、国際秩序は崩れ、人類は針路を見失っている。
こうした時代にあって、私たちは何をよりどころに生き、何を指標として進むべきか。
目先の出来事に一喜一憂することなく、時代の底流を見極める確かな視座が、今ほど待望される時はない。
新企画「時評――いまを読む」では、激動の時代を生き抜くための羅針盤を探り、方向を示すため、創価学会の各リーダーをはじめ、各界の専門家や識者の知見を紹介する。
初回は、原田教学部長の論考を掲載する。
●中道の実践とは――
・自身の「人間革命」を通して「自他共の幸福」を実現すること
・「生命尊厳」の思想を根本に、誰も置き去りにしない社会を築くこと
・自ら果敢に行動し、「ダイナミックな対話運動」を起こすこと
●中道の実践とは――
・自身の「人間革命」を通して「自他共の幸福」を実現すること
・「生命尊厳」の思想を根本に、誰も置き去りにしない社会を築くこと
・自ら果敢に行動し、「ダイナミックな対話運動」を起こすこと
ポイント① 世界に広がる 排外的思想と 分断の溝
ポイント① 世界に広がる 排外的思想と 分断の溝
各国・地域で仏法研さんの息吹が巻き起こっている。海外教学研修会で目の当たりにするのは、SGI(創価学会インタナショナル)メンバーの「躍動」する姿である。
文化や言語、人種などの差異を超え、皆がはつらつと南無妙法蓮華経の題目を唱え、人間革命に挑戦している。
そして、「良き市民たれ」との師匠・池田大作先生の指針を体現しようと、自他共の幸福のために懸命に行動し、地域・社会での幅広い貢献活動にも率先している。
一方で、世界を見渡すと、排外主義的な思想が広がり、分断の溝は深まるばかりだ。戦後80年の間に築かれた国際秩序は今、根底から揺らぎ、安全保障環境は、いやまして厳しさを増している。
核兵器や気候変動といった地球規模の課題に対しても、人類は一つになれていない。欧州、中東と、戦火はいまだ広がっている。
どうすれば人類は「団結」できるのか。この先、人類はどこへ向かえばいいのか――答えの見えない時代にあって、多くの人々が不安を埋めようと「心のよりどころ」を探して右往左往し、一見、力強そうに感じる極端な言説や主張にすがっているようにもみえる。
池田先生は『法華経の智慧』で、冷戦後の社会状況を「哲学の大空位時代」と表現した。この先生の言葉は、30年たった今もなお、混迷の続く世界に鋭い警鐘を発している。
経済成長を至上命題としてきた現代は、本来、最も大切な「人間」を置き去りにし、人間への視座や哲学を後景に追いやってしまった。
その結果、「何のために生きるか」「どう行動すべきか」の羅針盤を失った。
先生は同書で述べている。
「今、人類は(中略)新しい大哲学を求めている。つまり、精神の空虚を満たし充実させてくれる何かを求めている。疲れた生命を、はつらつと希望に蘇らせてくれる何かを求めています。自分が、また社会が『どこへ』『何のために』進めばよいのか。それを教えてくれる智慧を求めている」と。
各国・地域で仏法研さんの息吹が巻き起こっている。海外教学研修会で目の当たりにするのは、SGI(創価学会インタナショナル)メンバーの「躍動」する姿である。
文化や言語、人種などの差異を超え、皆がはつらつと南無妙法蓮華経の題目を唱え、人間革命に挑戦している。
そして、「良き市民たれ」との師匠・池田大作先生の指針を体現しようと、自他共の幸福のために懸命に行動し、地域・社会での幅広い貢献活動にも率先している。
一方で、世界を見渡すと、排外主義的な思想が広がり、分断の溝は深まるばかりだ。戦後80年の間に築かれた国際秩序は今、根底から揺らぎ、安全保障環境は、いやまして厳しさを増している。
核兵器や気候変動といった地球規模の課題に対しても、人類は一つになれていない。欧州、中東と、戦火はいまだ広がっている。
どうすれば人類は「団結」できるのか。この先、人類はどこへ向かえばいいのか――答えの見えない時代にあって、多くの人々が不安を埋めようと「心のよりどころ」を探して右往左往し、一見、力強そうに感じる極端な言説や主張にすがっているようにもみえる。
池田先生は『法華経の智慧』で、冷戦後の社会状況を「哲学の大空位時代」と表現した。この先生の言葉は、30年たった今もなお、混迷の続く世界に鋭い警鐘を発している。
経済成長を至上命題としてきた現代は、本来、最も大切な「人間」を置き去りにし、人間への視座や哲学を後景に追いやってしまった。
その結果、「何のために生きるか」「どう行動すべきか」の羅針盤を失った。
先生は同書で述べている。
「今、人類は(中略)新しい大哲学を求めている。つまり、精神の空虚を満たし充実させてくれる何かを求めている。疲れた生命を、はつらつと希望に蘇らせてくれる何かを求めています。自分が、また社会が『どこへ』『何のために』進めばよいのか。それを教えてくれる智慧を求めている」と。
ポイント② 極端に傾く現代 万人の心に 希望をともす
ポイント② 極端に傾く現代 万人の心に 希望をともす
対立ではなく対話を、分断ではなく協調を――混迷する現代社会にあって、日蓮仏法を持つ私たちに、できることは何だろうか。その問いを解くキーワードの一つが、「中道」であるように思う。
中道とは本来、“右と左を足して2で割った真ん中”というような、単純な折衷や妥協という意味ではない。
もともと仏教にもある用語であり、広辞苑には「二つの極端(二辺)すなわち有・無、断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場」とある。
つまり、二辺を離れ、いわば両者をも包含する正しい道ということであり、その意味でも中道は「道に中る」と読むべきである。
仏教の創始者である釈尊は快楽主義と苦行主義という両極端を排し、中道に生きることを教えた。いわゆる「苦楽中道」である。これはほかでもない、釈尊自身の生き方でもある。
日蓮大聖人は「一生成仏抄」で、「有無中道」について、次のように述べられている。「有無にあらずしてしかも有無に遍して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり」(新318・全384)
本抄では自身の一念の心が不思議である様を「有」「無」という概念で示されている。
すなわち、一念の心とは、「有る」といっても色も形もない。一方で「無い」といっても、さまざまに心が起こってくる。有ると考えるべきではなく、無いと考えるべきでもない。つまり有無の二つの言葉では表せず、有無の二つの考えでも理解できないのである、と。
このような、有と無のどちらでもなく、しかも有と無のいずれかの形をとる一念の心のことを大聖人は「中道一実の妙体」と仰せになられた。
それは、有や無という無常の現象を超えながらも、決してそこから切り離された超常的なものではなく、無常の現象に内在している真の永遠なるものを指している。
「一生成仏抄」では、あらゆる生命に本来的に具わっている真理(衆生本有の妙理)に対し、大聖人が妙法蓮華経と名づけ、さらに南無妙法蓮華経の唱題行によって、誰しもが一生の間に必ず成仏しゆくことを明かされている。
この万人成仏のための法理と実践こそが、日蓮仏法における中道論の本質であるとも言えるのではないか。
対立ではなく対話を、分断ではなく協調を――混迷する現代社会にあって、日蓮仏法を持つ私たちに、できることは何だろうか。その問いを解くキーワードの一つが、「中道」であるように思う。
中道とは本来、“右と左を足して2で割った真ん中”というような、単純な折衷や妥協という意味ではない。
もともと仏教にもある用語であり、広辞苑には「二つの極端(二辺)すなわち有・無、断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場」とある。
つまり、二辺を離れ、いわば両者をも包含する正しい道ということであり、その意味でも中道は「道に中る」と読むべきである。
仏教の創始者である釈尊は快楽主義と苦行主義という両極端を排し、中道に生きることを教えた。いわゆる「苦楽中道」である。これはほかでもない、釈尊自身の生き方でもある。
日蓮大聖人は「一生成仏抄」で、「有無中道」について、次のように述べられている。「有無にあらずしてしかも有無に遍して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり」(新318・全384)
本抄では自身の一念の心が不思議である様を「有」「無」という概念で示されている。
すなわち、一念の心とは、「有る」といっても色も形もない。一方で「無い」といっても、さまざまに心が起こってくる。有ると考えるべきではなく、無いと考えるべきでもない。つまり有無の二つの言葉では表せず、有無の二つの考えでも理解できないのである、と。
このような、有と無のどちらでもなく、しかも有と無のいずれかの形をとる一念の心のことを大聖人は「中道一実の妙体」と仰せになられた。
それは、有や無という無常の現象を超えながらも、決してそこから切り離された超常的なものではなく、無常の現象に内在している真の永遠なるものを指している。
「一生成仏抄」では、あらゆる生命に本来的に具わっている真理(衆生本有の妙理)に対し、大聖人が妙法蓮華経と名づけ、さらに南無妙法蓮華経の唱題行によって、誰しもが一生の間に必ず成仏しゆくことを明かされている。
この万人成仏のための法理と実践こそが、日蓮仏法における中道論の本質であるとも言えるのではないか。
ポイント③ 池田先生が 実践・展開された 人と人を結ぶ思想
ポイント③ 池田先生が 実践・展開された 人と人を結ぶ思想
これら仏法に脈打つ中道の思想を実践論として具体的に展開されてきたのが、池田先生である。
1972年5月と73年5月に行われた池田先生とイギリスの歴史学者トインビー博士との語らいの折にも、中道が話題になった。
2年越しの対談の最後、アドバイスを求める先生に対し、博士は次のように述べている。
「人間がいかに生きるべきか、見解が一致した。あとは、あなたが主張された中道こそ、今後、あなたが歩むべき道なのです」
池田先生は、中道の智慧で世界の国々を、そして人と人とを結ぶ対話を粘り強く続けられたのである。
対談を終えられた翌年(1974年)4月に先生は、アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で「21世紀への提言」と題し、講演をされた。
先生はトインビー博士との語らいを振り返りつつ、「中道」の意義をこう語った。
「この言葉(中道)はアウフヘーベン(止揚)に近い言葉と考えていただきたい。すなわち、物質主義と精神主義を止揚する第三の『生命の道』のあることを、私は確信しております」
先生は、同年5月に中国へ、9月にはソ連(当時)を初訪問された。
当時は冷戦という二極構造のさなか、中ソの対立も激しさを増す中にあって、先生は、資本主義でも共産主義でもない、唯心思想にも唯物哲学にも偏らない、どこまでも人間を大切にし、生命を尊重する文明を対話によって開かれていった。
モスクワのクレムリンで会談したコスイギン首相に「あなたの根本的なイデオロギーはなんですか」と問われると、先生は即答した。
「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」
これは恩師・戸田先生の「地球民族主義」の理念を継承・展開された、池田先生の不撓不屈の信念である。同時に、仏法が説く中道の精神そのものであろう。
会見の折、先生がコスイギン首相から引き出した「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」との発言は、3カ月後の再訪中の際、中国首脳へと伝えられている。
このように、単に理念にとどまることなく、相対する勢力をも超克して、平和への道を模索し対話を貫かれた行動にこそ、先生の「中道主義=人間主義」が輝いていると確信する。
その根源には万人成仏という法理と実践を提唱した日蓮仏法の魂が脈打っていることは言うまでもない。
これら仏法に脈打つ中道の思想を実践論として具体的に展開されてきたのが、池田先生である。
1972年5月と73年5月に行われた池田先生とイギリスの歴史学者トインビー博士との語らいの折にも、中道が話題になった。
2年越しの対談の最後、アドバイスを求める先生に対し、博士は次のように述べている。
「人間がいかに生きるべきか、見解が一致した。あとは、あなたが主張された中道こそ、今後、あなたが歩むべき道なのです」
池田先生は、中道の智慧で世界の国々を、そして人と人とを結ぶ対話を粘り強く続けられたのである。
対談を終えられた翌年(1974年)4月に先生は、アメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で「21世紀への提言」と題し、講演をされた。
先生はトインビー博士との語らいを振り返りつつ、「中道」の意義をこう語った。
「この言葉(中道)はアウフヘーベン(止揚)に近い言葉と考えていただきたい。すなわち、物質主義と精神主義を止揚する第三の『生命の道』のあることを、私は確信しております」
先生は、同年5月に中国へ、9月にはソ連(当時)を初訪問された。
当時は冷戦という二極構造のさなか、中ソの対立も激しさを増す中にあって、先生は、資本主義でも共産主義でもない、唯心思想にも唯物哲学にも偏らない、どこまでも人間を大切にし、生命を尊重する文明を対話によって開かれていった。
モスクワのクレムリンで会談したコスイギン首相に「あなたの根本的なイデオロギーはなんですか」と問われると、先生は即答した。
「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」
これは恩師・戸田先生の「地球民族主義」の理念を継承・展開された、池田先生の不撓不屈の信念である。同時に、仏法が説く中道の精神そのものであろう。
会見の折、先生がコスイギン首相から引き出した「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」との発言は、3カ月後の再訪中の際、中国首脳へと伝えられている。
このように、単に理念にとどまることなく、相対する勢力をも超克して、平和への道を模索し対話を貫かれた行動にこそ、先生の「中道主義=人間主義」が輝いていると確信する。
その根源には万人成仏という法理と実践を提唱した日蓮仏法の魂が脈打っていることは言うまでもない。
ポイント④ 異なる思想にも 共通点を見いだし 信頼を育む
ポイント④ 異なる思想にも 共通点を見いだし 信頼を育む
翻って、冷戦期の二極対立から多極化の時代へと移行している現代にあっては、なおさら異なる思想や信条をも包摂し、共通点を見いだしていくことが肝要であろう。
それが日蓮仏法を根幹として、三代会長の精神を受け継ぐ創価学会、またSGIが果敢に挑戦している対話運動である。
もう一歩踏み込めば、私たち学会員一人一人が、目の前の友の幸福のために真摯に語る仏法対話、すなわち折伏こそ、仏法中道の振る舞いであるとは言えまいか。
釈尊が説いた「毒矢の譬え」に、このようにある。
毒矢に射られて苦しんでいる人がいるとする。その時、誰が矢を射たのか、その人間はどんな人物だったか、矢がどんな材質だったのか、これらが分からないうちは治療してはならないと本人が言う。
しかし、そうしている間に、その人は亡くなってしまった――。
これは観念的な議論よりも、眼前の苦しみを取り除く行動にこそ、価値があることを教えている譬えである。
そのうえで、ともかく目の前の人のために、矢を抜いて救おうとする智慧と実践の中に、人としての正しい道、すなわち中道があるという象徴的なエピソードでもある。
これは、まさに抜苦与楽の折伏行である。
また法華経に説かれる不軽菩薩は、どんな非難や迫害を受けようとも、その名の通り人を軽んじることなく、他者を敬う礼拝行を愚直なまでに繰り返した。
万人の生命には必ず仏性が内在していると信じていたからである。
自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。むしろ他人を励ませば、自分を励まし、互いの仏性を強めることになる。
この自他不二、すなわち自他共の幸福のため、語らいの輪を広げているのが折伏である。
大聖人は「崇峻天皇御書」で「不軽菩薩の人を敬いしは、いかなることぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」(新1597・全1174)と仰せである。
相手の仏性を信じるという「人を敬う」振る舞いこそが、仏がこの世に出現した根本目的であり、仏道修行の肝心であるということである。
翻って、冷戦期の二極対立から多極化の時代へと移行している現代にあっては、なおさら異なる思想や信条をも包摂し、共通点を見いだしていくことが肝要であろう。
それが日蓮仏法を根幹として、三代会長の精神を受け継ぐ創価学会、またSGIが果敢に挑戦している対話運動である。
もう一歩踏み込めば、私たち学会員一人一人が、目の前の友の幸福のために真摯に語る仏法対話、すなわち折伏こそ、仏法中道の振る舞いであるとは言えまいか。
釈尊が説いた「毒矢の譬え」に、このようにある。
毒矢に射られて苦しんでいる人がいるとする。その時、誰が矢を射たのか、その人間はどんな人物だったか、矢がどんな材質だったのか、これらが分からないうちは治療してはならないと本人が言う。
しかし、そうしている間に、その人は亡くなってしまった――。
これは観念的な議論よりも、眼前の苦しみを取り除く行動にこそ、価値があることを教えている譬えである。
そのうえで、ともかく目の前の人のために、矢を抜いて救おうとする智慧と実践の中に、人としての正しい道、すなわち中道があるという象徴的なエピソードでもある。
これは、まさに抜苦与楽の折伏行である。
また法華経に説かれる不軽菩薩は、どんな非難や迫害を受けようとも、その名の通り人を軽んじることなく、他者を敬う礼拝行を愚直なまでに繰り返した。
万人の生命には必ず仏性が内在していると信じていたからである。
自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。むしろ他人を励ませば、自分を励まし、互いの仏性を強めることになる。
この自他不二、すなわち自他共の幸福のため、語らいの輪を広げているのが折伏である。
大聖人は「崇峻天皇御書」で「不軽菩薩の人を敬いしは、いかなることぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」(新1597・全1174)と仰せである。
相手の仏性を信じるという「人を敬う」振る舞いこそが、仏がこの世に出現した根本目的であり、仏道修行の肝心であるということである。
ポイント⑤ 自他共の幸福へ 対話に励む中に 中道の精神は輝く
ポイント⑤ 自他共の幸福へ 対話に励む中に 中道の精神は輝く
さらに、この不軽菩薩の振る舞いは、「遠く四衆を見ても、亦復故に往きて礼拝・讃歎して」(法華経557)と説かれている。
遠くの人々のもとへ「故に往きて」すなわち、わざわざ足を運んで、積極的に行動に打って出るのである。
人々を分け隔てることなく、果敢に行動する不軽菩薩の振る舞いもまた、万人の生命に尊厳性を見いだす中道のあり方といえよう。
私たち創価学会の折伏行とは、現代における不軽菩薩の実践であり、菩薩行にほかならない。
折伏とは、相手の入会のみを目的とした行為ではなく、自他共の幸福を求め、互いに啓発し高め合っていく実践である。
まさに、中道とは、観念や理念にとどまるものではなく、苦悩に沈む友の顔を思い浮かべながら、自他共の幸福を目指す行動と実践の中にこそ息づく思想である。
苦境にあえぐ友に、どうすれば希望を送ることができるのか――それを自身に問い続けながら、真心を重ねていく歩みは決して容易ではない。忍耐と持続を要し、絶え間ない挑戦の連続である。
それこそが「折伏」であり、「人間革命」の実践にほかならない。この「人間革命」の連鎖が、周囲の人々を変え、社会を変え、やがて一国、世界をも変えていく。中道には、停滞がなく、常に躍動しながら変革を続ける「ダイナミズム」が宿っているといえよう。
池田先生は、2015年の「SGIの日」記念提言の中で、現代において「政治と経済の影響によって悲惨な事態」が生じている原因の一つとして、「他者の痛みを顧みない自己正当化の風潮」が強まっていると指摘された。
そして「政治と経済の主眼を絶えず“人々の苦しみを取り除くこと”へ向け直す」ことの重要性を強調されている。
誰も置き去りにすることなく、他者の痛みや苦しみに、自分の心を向け、行動していく。この積み重ねこそが、中道の実践である。
「世界青年学会 躍動の年」の本年、まずは朗々たる題目で、自身の生命を躍動させ、対話で友の生命の躍動をも引き出しながら、自他共の幸福の実現へ挑み続けたい。
師匠・池田先生に連なり、世界の平和と人々の幸福のため、困難に負けない「良き市民」の連帯を広げる対話拡大に勇んで邁進していこうではないか。
さらに、この不軽菩薩の振る舞いは、「遠く四衆を見ても、亦復故に往きて礼拝・讃歎して」(法華経557)と説かれている。
遠くの人々のもとへ「故に往きて」すなわち、わざわざ足を運んで、積極的に行動に打って出るのである。
人々を分け隔てることなく、果敢に行動する不軽菩薩の振る舞いもまた、万人の生命に尊厳性を見いだす中道のあり方といえよう。
私たち創価学会の折伏行とは、現代における不軽菩薩の実践であり、菩薩行にほかならない。
折伏とは、相手の入会のみを目的とした行為ではなく、自他共の幸福を求め、互いに啓発し高め合っていく実践である。
まさに、中道とは、観念や理念にとどまるものではなく、苦悩に沈む友の顔を思い浮かべながら、自他共の幸福を目指す行動と実践の中にこそ息づく思想である。
苦境にあえぐ友に、どうすれば希望を送ることができるのか――それを自身に問い続けながら、真心を重ねていく歩みは決して容易ではない。忍耐と持続を要し、絶え間ない挑戦の連続である。
それこそが「折伏」であり、「人間革命」の実践にほかならない。この「人間革命」の連鎖が、周囲の人々を変え、社会を変え、やがて一国、世界をも変えていく。中道には、停滞がなく、常に躍動しながら変革を続ける「ダイナミズム」が宿っているといえよう。
池田先生は、2015年の「SGIの日」記念提言の中で、現代において「政治と経済の影響によって悲惨な事態」が生じている原因の一つとして、「他者の痛みを顧みない自己正当化の風潮」が強まっていると指摘された。
そして「政治と経済の主眼を絶えず“人々の苦しみを取り除くこと”へ向け直す」ことの重要性を強調されている。
誰も置き去りにすることなく、他者の痛みや苦しみに、自分の心を向け、行動していく。この積み重ねこそが、中道の実践である。
「世界青年学会 躍動の年」の本年、まずは朗々たる題目で、自身の生命を躍動させ、対話で友の生命の躍動をも引き出しながら、自他共の幸福の実現へ挑み続けたい。
師匠・池田先生に連なり、世界の平和と人々の幸福のため、困難に負けない「良き市民」の連帯を広げる対話拡大に勇んで邁進していこうではないか。
●次回は、慶應義塾大学の井手英策教授の論考を掲載する予定です。
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