桜花爛漫の春が到来した。古来、「花王」の異名で呼ばれ、「日本の国花ともされ、古くは『花』といえば桜を指した」(広辞苑)。桜を愛した恩師・戸田先生は、自らの人生の終幕を「桜の咲くころに」と望んだ。その言葉の通り、東京に桜が咲き始めた1958年(昭和33年)4月2日、死身弘法の尊き生涯の幕を閉じた。不二の弟子である池田先生もまた桜を愛した。桜を撮り、桜を謳い、桜を通して広布と人生を語ってきた。かつて先生は詠んだ。「師弟不二 三世に薫る 桜花」。桜を巡る師弟の物語――その一端をひもとく。
桜花爛漫の春が到来した。古来、「花王」の異名で呼ばれ、「日本の国花ともされ、古くは『花』といえば桜を指した」(広辞苑)。桜を愛した恩師・戸田先生は、自らの人生の終幕を「桜の咲くころに」と望んだ。その言葉の通り、東京に桜が咲き始めた1958年(昭和33年)4月2日、死身弘法の尊き生涯の幕を閉じた。不二の弟子である池田先生もまた桜を愛した。桜を撮り、桜を謳い、桜を通して広布と人生を語ってきた。かつて先生は詠んだ。「師弟不二 三世に薫る 桜花」。桜を巡る師弟の物語――その一端をひもとく。
桜は、冬の寒さが厳しいほど美しく咲くという。
戸田先生は、1920年(大正9年)に上京するまで、北海道で暮らした。故郷・厚田村(現・石狩市厚田区)の凍てつく冬を、同郷で、恩師と親交のあった作家の子母沢寛氏は、短編「南へ向いた丘」で、こう記している。
「十一月のはじめから雪が降り出しまして翌春四月までは晴れるということが滅多にはございませんで、海にはいつも嚙みついて来るような怒濤が逆巻いて、何分にも天地が、揺れつづく」
戸田先生は、尋常高等小学校を卒業後、家計を助けるため、雑貨問屋での年季奉公へ出ることになった。朝から夜遅くまで働きながら、勉学に打ち込んだ。
16年(同5年)4月19日、青雲の志を句に託して書きとどめた。
「成功の二字は 忘れず 桜花」
この頃、戸田先生は「桜心」という筆名を使った。それは敬愛する9歳上の兄の筆名だった。兄も経済的な事情で教員の夢を諦め、働きながら勉学に励んだ。しかし結核を発病し、08年(明治41年)8月、17歳で生涯を閉じた。
その兄と同じ歳になった17年(大正6年)2月、戸田先生は兄の遺志を継ぎ、尋常小学校准教員の検定試験を受けることを決意。この時、筆名を「桜桃」と改めた。23日の日記にはこうある。
「桜の如く咲き桃の如く実を結ぶ(中略)三日見ぬ間に咲く桜だとて決して三日の内に用意ができて咲くのでない 前年の冬雪を凌いで咲くのだ」
やがて、上京した戸田先生は生涯の師となる牧口先生と出会う。幾多の試練を勝ち越え、民衆を福徳満開の人生へと導いていく。
戸田先生と池田先生はかつて、東京・市ケ谷から満開の桜を眺めた。お堀端に佇んで、戸田先生は語った。「厳寒の冬を耐えて、また、あの桜が咲いたよ」。そして、しみじみと続けた。
「冬は必ず春となるのだ」
池田先生は述懐する。
「人の心を、春の幸福の薫りで一杯に満たし、凜として、荘厳に散りゆく桜。それは恩師の偉大な生涯と重なる」
桜は、冬の寒さが厳しいほど美しく咲くという。
戸田先生は、1920年(大正9年)に上京するまで、北海道で暮らした。故郷・厚田村(現・石狩市厚田区)の凍てつく冬を、同郷で、恩師と親交のあった作家の子母沢寛氏は、短編「南へ向いた丘」で、こう記している。
「十一月のはじめから雪が降り出しまして翌春四月までは晴れるということが滅多にはございませんで、海にはいつも嚙みついて来るような怒濤が逆巻いて、何分にも天地が、揺れつづく」
戸田先生は、尋常高等小学校を卒業後、家計を助けるため、雑貨問屋での年季奉公へ出ることになった。朝から夜遅くまで働きながら、勉学に打ち込んだ。
16年(同5年)4月19日、青雲の志を句に託して書きとどめた。
「成功の二字は 忘れず 桜花」
この頃、戸田先生は「桜心」という筆名を使った。それは敬愛する9歳上の兄の筆名だった。兄も経済的な事情で教員の夢を諦め、働きながら勉学に励んだ。しかし結核を発病し、08年(明治41年)8月、17歳で生涯を閉じた。
その兄と同じ歳になった17年(大正6年)2月、戸田先生は兄の遺志を継ぎ、尋常小学校准教員の検定試験を受けることを決意。この時、筆名を「桜桃」と改めた。23日の日記にはこうある。
「桜の如く咲き桃の如く実を結ぶ(中略)三日見ぬ間に咲く桜だとて決して三日の内に用意ができて咲くのでない 前年の冬雪を凌いで咲くのだ」
やがて、上京した戸田先生は生涯の師となる牧口先生と出会う。幾多の試練を勝ち越え、民衆を福徳満開の人生へと導いていく。
戸田先生と池田先生はかつて、東京・市ケ谷から満開の桜を眺めた。お堀端に佇んで、戸田先生は語った。「厳寒の冬を耐えて、また、あの桜が咲いたよ」。そして、しみじみと続けた。
「冬は必ず春となるのだ」
池田先生は述懐する。
「人の心を、春の幸福の薫りで一杯に満たし、凜として、荘厳に散りゆく桜。それは恩師の偉大な生涯と重なる」
生命と平和の象徴に
生命と平和の象徴に
第2次世界大戦下、軍国主義の日本は、桜を「死」の象徴として利用した。戦場に潔く命を散らすことがたたえられた。
池田先生が小学校に入学した34年(昭和9年)、1年生が国語で使用したのは、“サクラ読本”と呼ばれた国定教科書だった。表紙を開くと冒頭に、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」との文字とともに、桜の春景色が広がる。そのすぐ後には命令調で、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と兵隊が登場する。
戦争の激化とともに、樹木は次々と伐採され、燃料や軍需造船等に利用された。先生が少年の頃に暮らした家の桜の木も、いつしか伐られてしまった。
45年(同20年)4月、東京南部一帯が大空襲に遭い、先生一家も被災した。その時、先生は灰燼に帰した風景に、焼けずに残った桜が鮮烈に咲いているのを見た。後年、先生は記した。
「暗い灰色の町のなかで、そこだけに明かりが点ったように、美しい色彩があった」
「そのとき、桜は、たしかに、あふれくる『生』の象徴であった」
“いつの日か、どこかに幾千、幾万の桜を植えてみたい”――それは若き池田先生の夢であった。その思いの結晶の一つが、故郷・大田に咲く“千本桜”だ。先生の提案で76年(同51年)3月、約千本の桜が寄贈され、今年で50年を迎えた。
東京・信濃町の学会本部周辺には多くの桜が植えられている。現在、広宣流布大誓堂の前で咲き誇る桜。72年(同47年)の「4・2」を迎えるに当たって、先生は、この木を「青年桜」と命名した。
樹齢100年ともいわれ、53年(同28年)に学会本部が信濃町に移転した時には、すでにこの地に植わっていた。かつて会館を改築する際、この木を伐採する話が出た。先生は反対した。
「自然を大事にしていきたい。あとになって、必ず“残してよかった”と思う時が来る」
最終的に桜は残され、総本部を訪れる同志を迎えてきた。
先生は語っている。
「木を植えることは、生命を植えることである。木を守ることは、平和を守ることである」
先生は広布に生き抜いた同志をたたえ、各地に、その名を冠した桜を植えた。また、世界中に桜の苗を植樹してきた。かつての軍国主義の象徴を、生命と平和のシンボルへと大きく変えたのである。
第2次世界大戦下、軍国主義の日本は、桜を「死」の象徴として利用した。戦場に潔く命を散らすことがたたえられた。
池田先生が小学校に入学した34年(昭和9年)、1年生が国語で使用したのは、“サクラ読本”と呼ばれた国定教科書だった。表紙を開くと冒頭に、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」との文字とともに、桜の春景色が広がる。そのすぐ後には命令調で、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と兵隊が登場する。
戦争の激化とともに、樹木は次々と伐採され、燃料や軍需造船等に利用された。先生が少年の頃に暮らした家の桜の木も、いつしか伐られてしまった。
45年(同20年)4月、東京南部一帯が大空襲に遭い、先生一家も被災した。その時、先生は灰燼に帰した風景に、焼けずに残った桜が鮮烈に咲いているのを見た。後年、先生は記した。
「暗い灰色の町のなかで、そこだけに明かりが点ったように、美しい色彩があった」
「そのとき、桜は、たしかに、あふれくる『生』の象徴であった」
“いつの日か、どこかに幾千、幾万の桜を植えてみたい”――それは若き池田先生の夢であった。その思いの結晶の一つが、故郷・大田に咲く“千本桜”だ。先生の提案で76年(同51年)3月、約千本の桜が寄贈され、今年で50年を迎えた。
東京・信濃町の学会本部周辺には多くの桜が植えられている。現在、広宣流布大誓堂の前で咲き誇る桜。72年(同47年)の「4・2」を迎えるに当たって、先生は、この木を「青年桜」と命名した。
樹齢100年ともいわれ、53年(同28年)に学会本部が信濃町に移転した時には、すでにこの地に植わっていた。かつて会館を改築する際、この木を伐採する話が出た。先生は反対した。
「自然を大事にしていきたい。あとになって、必ず“残してよかった”と思う時が来る」
最終的に桜は残され、総本部を訪れる同志を迎えてきた。
先生は語っている。
「木を植えることは、生命を植えることである。木を守ることは、平和を守ることである」
先生は広布に生き抜いた同志をたたえ、各地に、その名を冠した桜を植えた。また、世界中に桜の苗を植樹してきた。かつての軍国主義の象徴を、生命と平和のシンボルへと大きく変えたのである。
成長を信じ祈り待つ
成長を信じ祈り待つ
4月2日は創価大学の開学記念日でもある。71年(同46年)の開学。構内の樹木についても、先生は心を砕いた。「正門には大きな木を植えるんだよ」と、アドバイスしたこともある。
正門から続く上り坂を全て桜並木にし、春は満開の桜が学生を迎え入れる――そんな計画を聞いた先生は声をもらした。
「それはすごいね。そうなれば、私はずっと戸田先生と一緒にいられるね」
大学の開学も竣工式も先生は恩師に縁ある日を選んだ。71年2月11日、恩師の生誕の日、先生は1本のシダレザクラの若木を構内に植えた。現在、創大中央教育棟前の「出発の庭」に植わった、堂々たる大樹「創大桜」である。
苗木の根元に水を注ぎつつ、先生は周囲に言った。
「時代を創り、歴史を動かすのは、人間である。ゆえに、どのような時代を築くかは、いかなる人を作るかによって決まる。
この創大から、伸び伸びとした、包容力のある、新時代を開きゆく、力ある学徒を輩出していこう。万朶の桜が咲き誇る人材山脈を築くのだ」
本年で創大は創立55周年を刻む。「創大桜」は、キャンパスに集う学生らを見守り続ける。創大から羽ばたいた人材群は、各界で百花繚乱の輝きを放っている。
毎年5月、美しい桜が咲き誇る北海道・厚田の戸田記念墓地公園。道内屈指の桜の名所として知られる。同園のオープンは77年(同52年)10月。池田先生は「戸田先生の墓園を、先生がお好きであったソメイヨシノの桜で荘厳したい!」との願いがあった。
札幌以北では、ヤマザクラは咲いても、ソメイヨシノは育たないといわれていた。だが、師の思いを知り、“桜守”の同志は、血のにじむような努力を続けた。
「何もないゼロのところから、死に物狂いでつくりだしていくのです。その原動力が法華経の兵法。お題目ですよ」
全幅の信頼を寄せる先生の激励が、その人を勇気づけた。そして、挑戦から10年目で見事な花を咲かせた。先生は「おかげで日本中が桜でいっぱいになりました」と、最大の感謝を伝えた。
先生はかつて、桜守の労苦を通して、こう記した。
「木を育てるのも、人を育てるのも、『育てる』ためには『育ってくる』のを信じて待つ忍耐が必要なのだろう」
手をかけ、真心の祈りを込める――その労苦に徹した分、人材の大輪は、必ずや爛漫とわが地域に咲き薫る。
4月2日は創価大学の開学記念日でもある。71年(同46年)の開学。構内の樹木についても、先生は心を砕いた。「正門には大きな木を植えるんだよ」と、アドバイスしたこともある。
正門から続く上り坂を全て桜並木にし、春は満開の桜が学生を迎え入れる――そんな計画を聞いた先生は声をもらした。
「それはすごいね。そうなれば、私はずっと戸田先生と一緒にいられるね」
大学の開学も竣工式も先生は恩師に縁ある日を選んだ。71年2月11日、恩師の生誕の日、先生は1本のシダレザクラの若木を構内に植えた。現在、創大中央教育棟前の「出発の庭」に植わった、堂々たる大樹「創大桜」である。
苗木の根元に水を注ぎつつ、先生は周囲に言った。
「時代を創り、歴史を動かすのは、人間である。ゆえに、どのような時代を築くかは、いかなる人を作るかによって決まる。
この創大から、伸び伸びとした、包容力のある、新時代を開きゆく、力ある学徒を輩出していこう。万朶の桜が咲き誇る人材山脈を築くのだ」
本年で創大は創立55周年を刻む。「創大桜」は、キャンパスに集う学生らを見守り続ける。創大から羽ばたいた人材群は、各界で百花繚乱の輝きを放っている。
毎年5月、美しい桜が咲き誇る北海道・厚田の戸田記念墓地公園。道内屈指の桜の名所として知られる。同園のオープンは77年(同52年)10月。池田先生は「戸田先生の墓園を、先生がお好きであったソメイヨシノの桜で荘厳したい!」との願いがあった。
札幌以北では、ヤマザクラは咲いても、ソメイヨシノは育たないといわれていた。だが、師の思いを知り、“桜守”の同志は、血のにじむような努力を続けた。
「何もないゼロのところから、死に物狂いでつくりだしていくのです。その原動力が法華経の兵法。お題目ですよ」
全幅の信頼を寄せる先生の激励が、その人を勇気づけた。そして、挑戦から10年目で見事な花を咲かせた。先生は「おかげで日本中が桜でいっぱいになりました」と、最大の感謝を伝えた。
先生はかつて、桜守の労苦を通して、こう記した。
「木を育てるのも、人を育てるのも、『育てる』ためには『育ってくる』のを信じて待つ忍耐が必要なのだろう」
手をかけ、真心の祈りを込める――その労苦に徹した分、人材の大輪は、必ずや爛漫とわが地域に咲き薫る。