企画・連載

〈Seikyo Gift〉 第47回 ベートーベン〈ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち〉 2024年12月28日

〈ベートーベン〉
どんなことがあっても運命に
打ち負かされない。生命を千倍
生きることは全くすばらしい!

 「第九」として世界中で愛される「交響曲第9番」。今年は、このベートーベンの傑作が初演されて200年の節目に当たる。最終楽章の「歓喜の歌」は、日本でも親しまれる“年末の風物詩”だ。
 
 「難聴」という、音楽家にとって致命的ともいえる過酷な現実と向き合い、「第九」を完成させたベートーベン。
 
 苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!――楽聖の魂の響きは今なお、民衆を鼓舞してやまない。11月9日で35年となった「ベルリンの壁」の崩壊を記念して演奏されたのも、この曲だった。
 
 彼はつづっている。
 
 「困難な何ごとかを克服するたびごとに私はいつも幸福を感じました」
 
 「どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。――おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!」
 
 ベートーベンは、1770年12月、ドイツのボンに誕生。歌手だった父はひどい酒飲みで、一家の生活は貧しかった。
 
 父の苛烈な音楽教育もあり、幼い頃から才能を発揮し、11歳でオーケストラの一員に。父の代わりに家計を支え、弟たちの面倒を見るようになる。
 
 16歳の時、最愛の母が肺病で他界。失意の底に沈むが、周囲の支援を受けながら、オーストリアの作曲家ハイドンに師事するため、音楽の都ウィーンへ。22歳を目前にした92年11月のことであった。
 
 彼は貴族の屋敷で演奏し、ピアノを教えて、生計を立てた。その中でさまざまな曲を作り、「新しいモーツァルト」として注目を浴びるようになっていく。
 
 後年に記した「この世にはなすべきことがたくさんある、すぐになせ!」との言葉は、一瞬一瞬に生命を燃焼させて音楽に打ち込んだ姿勢の表れといえよう。
 
 だが20代後半、人生最大の試練がベートーベンを襲う。耳の異変に気付き、だんだん音が聞き取れなくなってしまったのだ。
 
 音楽家にとって聴力を失うことは“死”にも等しい。彼は世間に知られないよう、こっそりと治療を続けた。いつしか人前に出ることも少なくなっていった。

〈ベートーベンを評したロマン・ロランの言葉〉
世の中から歓喜を拒まれた人間が
自ら歓喜を造り出す。それを世界に
贈りものとするために。

 多くの治療法を試したベートーベンだったが、結果は芳しくなかった。それでも「僕の芸術は貧しい人々に最もよく役立たねばならぬ」と作曲を続け、民衆のための音楽を生み出していく。
 
 31歳の時には、日常会話に困るほど聴力が落ちていた。弟子にもその事実を知られ、絶望の淵に突き落とされる。1802年10月に書いた「ハイリゲンシュタットの遺書」には、難聴の苦しみがつづられ、「絶望がもう少しでも大きければ、私は自らの生命を断っていた」と記されている。
 
 しかし、彼は運命に屈しなかった。遺書の中で「芸術だけが私を引き止めた。ああ、私は、自分のなかにあると感じているものすべてを生み出すまでは、この世を去ることはできない」「忍耐、それを今、私は自分の道しるべとして選ばなければならない」と決意をしたためている。
 
 有名な交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」などは、遺書を書いた数年以内に作り上げた作品だ。
 
 後にベートーベンは「秀でた人間の主たる特徴――それは厳しい逆境のなかでの忍耐」とも書き残している。
 
 難聴以外の病にも苦しんだ。愛する人との別れや家族の死、経済苦にも悩まされた。その中でも、創作の手を休めることはほとんどなかった。
 
 40代半ばになると、補聴器を使い、その後は会話帳を用いてコミュニケーションを取るようになった。
 
 「交響曲第9番」を完成させたのは晩年の24年。耳はもう、ほとんど聞こえなくなっていた。
 
 初演は同年5月、ウィーンの劇場で開催され、ベートーベンは周りの反対を押し切り、指揮台に立った。演奏が終わると、聴衆の割れるような拍手が会場を包んだ。アンコールは実に5回に及んだ。
 
 「第九」の初演の頃から、ベートーベンの体は著しく衰弱していった。亡くなる前年から数回手術を受けたが、体調が良くなることはなかった。
 
 命尽きるまで音楽への情熱を燃やし続けたベートーベンは、病床でこう言ったという。
 
 “私は、やっと少しばかり音符を書いたにすぎない”と。そして27年3月、56歳で人生の幕を閉じたのである。
 
 ベートーベンの生涯を書いた作家として知られるロマン・ロランは、彼をこう評する。
 
 「まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す――それを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す」

〈ベートーベンを通して語る池田先生〉
人生は、山あり、谷あり。だが、
今の苦闘には深い意味があると
確信していくことだ。
強盛な信心の一念がある限り、
宿命も必ず使命に転じられる。

 池田先生にとって、ベートーベンは青春の「心の友」だった。恩師・戸田城聖先生の事業再建に奔走した時は自らを鼓舞するため、男子部の第1部隊長の時には悩める友を勇気づけるために「運命」を聴いた。「大阪の戦い」でも、旧関西本部でレコードをかけてもらい、自身を奮い立たせた。
 
 第3代会長就任翌年の1961年10月、オーストリアを初訪問した先生は、ウィーンの中央墓地に立つベートーベンの墓碑へ。81年5月には、ハイリゲンシュタットにある記念館を訪れている。
 
 学会創立60周年の90年11月、祝賀の本部幹部会で、富士交響楽団と創価合唱団が「歓喜の歌」を披露。先生はスピーチで「第九」を合唱することを提案した。
 
 日本で初めて「第九」が演奏された徳島では94年の秋、「歓喜の歌」の合唱運動を展開し、約3万5000人の同志が参加。九州では青年部が同年11月に5万人、2001年12月と05年11月には10万人の「歓喜の歌」を実現させた。
 
 宗門は“歓喜の歌をドイツ語で歌うことは外道礼讃”などと的外れな難癖をつけ、先生と学会を批判していた。「第九」は学会が宗門から「魂の独立」を果たし、世界宗教へと飛翔を遂げる象徴ともなったのである。

 「なぜベートーベンが好きか」と先生が語ったことがある。
 
 それは「人間らしい生き方をしたからです」と。
 
 「ベートーベンは、人間として、芸術家として、自分は最高の生き方をしていると自負していました。ゆえに皇帝であろうと、権力者であろうと、無礼なことをすれば、いうことをきかなかった。(中略)
 
 耳が聴こえない、これは音楽家として致命傷である。こういう状況になれば、百人が百人とも、あきらめるでしょう。しかし、彼はあきらめなかった。ベートーベンの哲学、人生観のすばらしさは、自分の信ずる道をそのまま貫き通したことです」(1984年12月21日、東京創価小学校第4期生卒業記念撮影会でのスピーチ)
 
 こう訴えたこともある。
 
 「ベートーベン自身、苦闘の連続だったことは有名である。しかし彼は、過酷な運命と戦う、自らの使命に誇りを持っていた。“自分は作曲できる。ほかに何もできることがなくとも”と。(中略)
 
 生命を鼓舞してやまない人類への贈り物は、決して順風の中ではなく、むしろ逆風にさらされた苦闘から、そして不屈の志から生まれたのだ。
 
 人生は、山あり、谷あり。病気や仕事の苦悩、家庭や人間関係の葛藤、将来への不安など悩みは尽きない。だが、今の苦闘には深い意味があると確信していくことだ。強盛な信心の一念がある限り、『宿命』も必ず『使命』に転じられる」(2022年12月28日付本紙「随筆『人間革命』光あれ」)
 
 「第九」の初演200周年を記念して、11月1日から12月27日まで「ベートーヴェンと『歓喜の歌』展」が東京・八王子市の創価大学で開催された。「苦悩を突き抜けて歓喜へ」至った、人間・ベートーベンから学ぶことは多い。

【引用・参考】ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳(岩波書店)、メイナード・ソロモン編『ベートーヴェンの日記』青木やよひ・久松重光訳(同)、ルイス・ロックウッド著『ベートーヴェン 音楽と生涯』土田英三郎・藤本一子監訳、沼口隆・堀朋平訳(春秋社)、大木実著『美しい音楽を作った人々』(さ・え・ら書房)、バリー・クーパー原著監修『ベートーヴェン大事典』平野昭・西原稔・横原千史訳(平凡社)ほか

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