池田先生

〈挿絵でひもとく 小説「新・人間革命」〉 新たな前進のために 2025年12月5日

 明2026年の年間テーマは、「世界青年学会 躍動の年」です。信心の歓喜あふれる前進のために、3本の活動の柱が発表されました。①躍動の生命で、「折伏・弘教」に挑戦しよう!②「青年世代」「未来部」の躍動で、世界広布の新たな展開を!③一人一人を大事に、躍動する地区を皆でつくろう! です。今回は小説『新・人間革命』から、「躍動の年」の指針となる指導を、内田健一郎氏の挿絵とともに紹介します。※小説の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。

1968年(昭和43年)10月
第13巻「北斗」の章
自他共に“幸福の種”を蒔く

 〈日蓮仏法は、仏法対話をして、自他共の“心の田”に仏の種を蒔く、「下種仏法」である。山本伸一は、静岡・富士宮市内の地区座談会に出席。自身の体験を踏まえて指導していく。ある壮年からは、こんな質問があった〉
 「私は、仕事が忙しくて休日も取れません。でも、なんとか折伏をしたいと思っています。ところが、なかなかできないもので悩んでおります」
 「人を救おうとして悩むなんて、すごいことではないですか。尊く誇り高い、最高の悩みです。本当の慈悲の姿です。それ自体、地涌の菩薩の悩みであり、仏の悩みです」
 集った同志は、弘教を実らせようと、日々、懸命に戦っていた。
 それだけに、折伏についての話に、皆、目を輝かせ、真剣な顔で聴き入っていた。
 「折伏を成し遂げる要諦は何か。それは決意です。一念が定まれば、必ず状況を開くことができる。折伏は、どこでもできるんです。戸田先生は、牢獄のなかでも法華経の極理を悟り、看守を折伏しています。
 まず、折伏をさせてくださいと、御本尊に懸命に祈り抜くことです。すると、そういう人が出てきます。また、ともかく、あらゆる人と仏法の対話をしていくんです。
 もちろん、信心の話をしても、すぐに入会するとは限りません。それでも、粘り強く、交流を深めながら、相手の幸福を日々祈り、対話を重ねていくことです。種を蒔き、それを大切に育て続けていけば、いつか、必ず花が咲き、果実が実ります。焦る必要はない。
 さらに、入会しなくとも、ともに会合に参加して教学を勉強したり、一緒に勤行したりすることもよいでしょう。自然な広がりが大事です。
 ともあれ、苦労して弘教に励んだ分は、全部、自分の福運になります。相手が信心しようが、しまいが、成仏の因を積んでいるんです」
 皆が笑顔で頷いていた。伸一の話を聞くうちに、安心感と勇気が湧いてくるのである。
 (183~184ページ)

1961年(昭和36年)11月
第5巻「勝利」の章
活動は時代感覚に合わせて

 〈11月5日、男子部は戸田先生が「国士訓」で呼びかけた“精鋭10万”の結集を達成。女子部(当時)では同月12日、総会に8万5000人が集った。当時、新たな時代を開こうとする青年部の活動に、理解を示さない先輩幹部がいた。誰よりも青年たちに期待してきた山本伸一は、彼らを見守り、励ましを送り続けてきた〉
 経験の豊富な先輩から見れば、若い世代の未熟さが目につくものであるし、また、新しい感覚や発想というのは、なかなか理解しがたいものだ。しかし、若い世代が未熟であるのは、当然のことといえる。むしろ、それゆえに、無限の可能性をもっているのである。要するに、未熟だといって、すべての可能性をつぶしてしまうのではなく、若い世代のよさを、いかに引き出していくかである。
 さらに、世代の感覚は、時代を経るごとに大きく変わっていく。そして、若い世代の感覚や発想が、いつの間にか、社会の主流となっていくものであろう。もし、先輩の世代が、自分たちの経験や感覚を絶対視して、若い世代のセンスや斬新な発想を排斥していけば、やがて、学会そのものが、時代から取り残されてしまうことになる。
 信心という原点は不変であるが、活動の在り方は、時代の流れや世代の感覚に即して、変化させていく柔軟性が必要であろう。
 伸一は、青年たちが、新しい試みを行うことに対して、婦人だけでなく、壮年の間にも、何か批判的な空気があることを察知し、心を砕いてきた。
 しかし、そうかといって、会長の自分が、男女青年部の側に立って、青年たちの意見を全面的に支持し、応援することは、あえて控えてきた。青年が新しい流れをつくろうとするなら、自分たちの力で実績を示し、先輩たちを納得させていかなければならないことであるからだ。
 (中略)
 伸一は、愛する後継の青年たちを、軟弱な人間にはしたくなかったからこそ、何も言わずに、じっと見守ってきたのである。
 (246~248ページ)

1963年(昭和38年)7月
第8巻「宝剣」の章
励ましが真心の連帯つくる

 〈台東体育館で開催された女子部幹部会に出席した山本伸一は、真心の個人指導を呼びかけた〉
 会合に出席する人というのは限られている。たとえば、座談会を見ても、参加者に倍するほどのメンバーが、それぞれの組織にはいるはずである。そこに、満遍なく激励の手を差し伸べてこそ、盤石な学会がつくられ、それが拡大にもつながり、広宣流布の広がりも生まれる。いわば、個人指導なき活動は、画竜点睛を欠いているといってよい。(中略)
 会員のなかには、さまざまな人がいる。会って話すことを拒む人もいれば、子どものころに親と一緒に入会してはいるが、自分は信仰をした覚えはないという人もいるかもしれない。あるいは、学会に著しく批判的な人もいるだろう。さらに、病苦や経済苦などに悩み、未来への希望を見いだせずに悶々としている人もいる。そうした人びとの家を訪ね、知恵を絞って対話の糸口を探し、友情を結び、信仰の大切さを語り、勤行や教学を教えていくことは、並大抵のことではない。
 (中略)
 会合に集って来る人だけを相手に、活動を進めることは楽ではあるが、そこには本当の広宣流布の広がりはない。それでは、海の彼方の岸辺をめざしながら、入り江のなかを巡って満足しているに等しいといえよう。学会活動の主戦場となる舞台は、会合の先にこそあることを、幹部は深く認識しなければならない。
 創価学会の真心のネットワークを形成してきたものも、家々を訪問しての個人指導であった。大樹が、網の目のように、地中深く張り巡らされた根によって支えられているごとく、学会を支えているものも、この地道な個人指導の積み重ねであるといってよい。
 臆病で怠惰なスタンドプレーヤーには、この勇気と忍耐の労作業を成し遂げることはできない。民衆のなかへ、友のなかへ、人間のなかへと、個人指導の歩みを進める人こそが、仏の使いであり、まことの仏子であり、真正の勇者といえるのだ。(103~104ページ)