企画・連載

〈Seikyo Gift〉 第49回 ワンガリ・マータイ〈ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち〉 2025年4月26日

〈マータイ博士〉
「未来」は、「今」にあるのです。
将来、実現したい何かがあるなら、
今、行動しなければなりません。

 今年は、池田大作先生と“アフリカの環境の母”ワンガリ・マータイ博士が出会いを結んで20周年に当たる(2005年2月18日)。

 マータイ博士は、これまでアフリカに5000万本以上の植樹を推進した「グリーンベルト運動」の創設者。創価大学パン・アフリカン友好会の友が歓迎し、青年学術者の代表らが同席した会見で、池田先生が青年へのメッセージを求めると、ほほ笑みながら語った。

 「未来は、ずっと先にあるわけではありません。『未来』は、『今』にあるのです。将来、実現したい何かがあるなら、今、そのために行動しなければなりません」

 “へこたれない”人生に裏打ちされた確信あふれる言葉は、博士の崇高な信念そのものだった。

 博士は1940年4月、ケニア中部の小さな村で生まれた。国内では当時、女性に教育は必要ないと思われていたが、家業を手伝いつつ、常に学業優秀で高校をトップの成績で卒業。周囲の推薦で奨学金を得てアメリカの大学に留学する。生物学の研究を通してケニアの農産業に貢献したいと願い、修士課程を修了。帰国後は国立ナイロビ大学で博士号を取得し、女性初の教授職に就いた。

 環境問題に意識が向いたのは偶然だったという。70年代、研究活動で農村部を訪れた博士は、祖国の自然の激変にがく然とする。木々が伐採され、農家の畑は輸出用の作物を育てるための耕作地に変わっていた。

 土壌の浸食、食料や水不足、栄養失調、砂漠化の進行……。森林破壊がもたらした問題は深刻だった。故郷では、神木として大切にされてきたイチジクの木が切り倒されていた。

 そこで思いついたのが「植樹」である。木を植えれば、まきや家畜の飼料を得られる。張った根で土の流出を食い止められる。果実のなる木なら食料になる――と。

 そして77年6月5日、「世界環境デー」に当たるこの日に、博士は「グリーンベルト運動」の始まりとなる最初の7本の苗木を首都ナイロビ郊外の公園に植樹。その後の全国キャンペーンで運動への関心は高まり、参加を希望する農場や学校、教会が増えていった。

 運動の中心を担ったのは農村の女性たちである。皆、日々の生活に追われて専門知識を学ぶ余裕はなかったが、博士は地元の伝統的な技術や知恵を生かして植樹を行うよう提案。彼女たちが地面に膝をついて作業する姿を見て、あざ笑うエリート層もいたが、博士は全く意に介さなかった。

 当時を振り返って博士は言う。

 「私はじっと座って『さてと、どうしようか』などと考え込んだりはしなかった」

 「問題を理解することと、その問題について何か行動を起こすのはまったく別のことだ」

〈マータイ博士〉
何かを変えたければ、自分自身から。
生きていること自体が素晴らしい体験
なのだから、楽しんでいかなければ!

 「グリーンベルト運動」の中でマータイ博士が大切にしたのは「主体性」だった。

 運動では、参加者と地域の問題点について話し合う場がたびたび持たれた。博士が問題の原因を問うと、ほとんどの人が「政府の責任」と答えた。すると、博士は笑顔でこう返したという。

 「すべてを政府のせいにしても何の解決にもならないでしょう?」「自分たちで解決できることはないか、小さなことでも一緒に考えてみましょう」

 やがて運動は海外でも注目されるように。博士はマザー・テレサと並びイギリスで「ウィメン・オブ・ザ・ワールド賞」を受賞するなど、世界から高く評価される。

 一方で、ケニアの独裁政権は一貫して厳しい批判の目を向けた。運動が国民の意識変革を促すことを恐れていたからだ。

 1989年、急速な都市化が進むナイロビに超高層ビルを建てる計画が発覚。建設予定地は市民が憩う緑地公園だった。計画には莫大な建設費がかかり、自然だけでなく歴史的建造物の破壊が伴うなど、課題が山積していた。

 それを知った博士は政府に中止を要請。彼女の言動は国会で問題視され、議員たちは「国民に政府への反乱を起こすように呼びかけるものだ」等と、非難中傷の集中砲火を浴びせた。

 それでも博士は屈しなかった。後年、たび重なる困難にも負けなかった理由を聞かれ、こう述べている。「怖がりさえしなければ、たとえ勝ち目がなさそうに見えても、一歩一歩目的地へと前進していけるのだ」と。

 一人の勇気は心ある人々を奮い立たせた。それはやがて国際社会をも動かし、ついに政府はビルの建設計画を中止する。

 その後も試練は続いた。政府の圧力はさらに強まり、博士は「悪質な噂の流布、扇動罪、反逆罪」という不当な嫌疑で逮捕されてしまう。劣悪な独居房に入れられ、すぐに保釈されたものの、再逮捕の可能性は消えなかった。

 窮地を救ったのは、海外の同志だった。アメリカの上院議員たちは、政府に博士の罪状の立証を要求し、「逮捕は両国の外交関係を悪化させることになる」と主張。後日、起訴は取り下げられた。

 離婚、失業、同僚の裏切りなどの逆境にも見舞われたが、へこたれなかった。「『失敗は罪ではない』のだ。大切なのは、失敗したときにも、背筋を伸ばして前進し続けるエネルギーと意志をもつこと」との信念があったからだ。

 2002年には、一度は落選した国会議員選挙に再出馬。得票率98%で当選を果たす。新たな大統領が誕生して独裁政治に終止符が打たれ、博士は環境・天然資源省の副大臣に就任する。

 そして04年12月、「持続可能な開発、民主主義と平和への貢献」が認められ、アフリカ人女性初のノーベル平和賞が贈られた。

〈マータイ博士を通して語る池田先生〉
どんな壁が立ちはだかろうと、
勇敢なる青年の行く手を 阻むことはできない。
「壁を破る」――これこそが、青年の特権である。

 マータイ博士が訪日し、東京の池田先生のもとを訪ねたのは、ノーベル平和賞の受賞から2カ月後のことだった。

 会見で博士は、先生に率直な思いを吐露した。

 「皆さまが仏教の教えにもとづいた深い価値観を持っていることに感銘しています。しかも、これらの価値観が、社会に根を張っている。皆さまの思想は『生命を大切にする』思想です。『自然を大切にする』思想です。『人間の生命と社会を大切にする』思想です」

 「池田会長は、生涯をかけて、大切な価値観を何百万という人たちに広めておられます。この重要性を理解する方々とともに、私は池田会長に、心から最大の感謝を捧げたい。池田会長ご自身が『人類への素晴らしい贈り物』だと私は思うのです」

 さらに「若い人たちには、素晴らしい未来が待っているのです」と青年への期待を語りつつ、こう言葉を継いだ。

 「これから“何かを変えたい”と思うのであれば、まず“自分自身から”変えなければならない。そして、自分自身が先頭に立って変えなければいけない。“生きていること自体が素晴らしい体験”なのだから、楽しんでいかなければ!――そのように思います」

 先生は心から賛同し、「仏法の真髄もまた、『生きることそれ自体が楽しい』という自分自身をつくる点にあります。自分自身を変える――それが、すなわち『人間革命』の哲学です」と応じた。

 その後も交流は続き、翌2006年2月、再び日本を訪れた博士は創価大学で講演。ケニアにある「グリーンベルト運動」の事務所に創価教育同窓の友を招いたこともあった。

 博士が71年の尊い人生の幕を閉じたのは、2011年9月である。先生の提案で博士の名を冠するイチジクの木が植樹されたアメリカ創価大学には、この年、新たに教育棟が誕生。後に「マータイ棟」と命名された。

 悲報の翌月、先生は偉大な足跡をたたえつつ、随筆につづった。

 「戦う青春は朗らかだ。

 どんな壁が立ちはだかろうと、勇敢なる青年の行く手を阻むことはできない。『壁を破る』――これこそが、青年の特権である。

 『できないことを心配するよりも、できることを考えるのだ』

 これは先月25日に、世界中から惜しまれつつ逝去されたケニアのワンガリ・マータイ博士が、自らを鼓舞していた言葉である。(中略)

 苦しまずして、悩まずして、なんで偉業が成し遂げられようか。

 博士は、自分でできることを考え、足元から一歩一歩、着実に運動を進めていった。その地道な積み重ねによって、幾多の壁を突き破り、新しい道を広々と切り開いていったのだ」(11年10月8日付本紙「随筆 我らの勝利の大道」)

 博士たちの運動の合言葉は「ハランベー」。スワヒリ語で「みんなの力を合わせよう」との意味だ。

 「一人立つ挑戦」と「団結」――博士の人生は、先生が築いた学会永遠の魂と響き合っている。(2月9日付)

【引用・参考】ワンガリ・マータイ著『UNBOWED へこたれない ワンガリ・マータイ自伝』小池百合子訳(小学館)、同著『モッタイナイで地球は緑になる』福岡伸一訳(木楽舎)、筑摩書房編集部著『ワンガリ・マータイ――「MOTTAINAI」で地球を救おう』(筑摩書房)、池田大作著『未来への選択』(潮出版社)、同著『未来対話――君と歩む勝利の道』(聖教新聞社)ほか

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