ユース特集

〈スタートライン〉 ピアカウンセラー、童話作家 山下泰三さん 2024年12月22日

視力は失っても、希望の光は消えない!
障がい者支援、童話創作、講演など多彩な活動を展開

 今回は、働き盛りの40代手前で、徐々に視野が狭くなる「網膜色素変性症」と診断され、54歳で完全失明した山下泰三さんの登場です。子育てをしながら常に夫に寄り添ってきた妻の美恵子さんと共に、中途失明という現実を乗り越えた過程や、次々と新たな挑戦を続けるパワーの源について聞きました。

 
■見えない自分との葛藤

 大手通信会社で中間管理職として充実した日々を送っていた山下さんが異変に気付いたのは、仲間と野球をしていた時。ボールが視界から消える。家でも足元に落とした硬貨が見つけられない。病院に行くと、根本的な治療法のない指定難病「網膜色素変性症」と診断された。

 「その時、2人の子は小学生。大学まで行かせてやりたいし、夢もかなえてやりたいと思った。
 数年たっていよいよ見えなくなってきた時、一番つらかったのは、仕事ができなくなって会社の厄介者に感じたこと。仕事は1日10通ほどの封筒の切手貼りで、後はじっとデスクに座っているしかない。トイレも、誰かに連れて行ってもらわないといけなかった」

 朝は妻の美恵子さんが会社の入り口まで誘導し、他の人より早く出社した。帰りは一人。バスが停留所から少し離れて止まると、気付かず乗りそこなう。電柱にぶつかり、メガネが破損することもしばしば。顔や脛など、いつも傷だらけだった。

 「もう会社へ行きたくない。早く辞めたい。でも辞められない。以前のように働けない自分が情けない。そのつらさと先々への不安で、高いビルや電車のホームに立つと“もう苦しみから逃れたい”とよぎる。そういう時は、妻に『助けてくれ』と電話した」

 休職し、部屋に引きこもった。パジャマから着替えず、家族とも顔を合わさず、電話も出ない。心療内科にも通ったが、どうにもならなかった。

 「その頃は、私も子どもも夫の顔色ばかり見ていました。『きれいな花が咲いてるよ』の言葉に怒って『俺には見えへん』の返事。テレビも『お父さん来たから消しや』とか。今は、気にせず見てますし(笑)、夫も『○○の花が咲いてんのか。触らせて』と、香りを嗅いだりしますね」と、美恵子さん。

 
■人生を変えた馬との出合い

 家族は、引きこもる山下さんを何とか外に連れ出そうと、旅行を提案。行きたくなかったが、家族が心配しているのは分かる。気分的に北海道を選んだ。

 「旅先でも心は沈んだまま。一人、家族と離れベンチに座っていると、妻から夕張メロンを渡され、とてもおいしかった。見えないけど、味覚はあるんやな」

 翌日、観光牧場へ行くと、美恵子さんが「引き馬の乗馬体験があるって。乗ってみる?」と言う。子どもの頃、西部劇のヒーローに憧れていたのを思い出した。

 「馬の柔らかい毛とぬくもり、背中で揺れる心地よさ。ふさいでた心が、少し軽くなったような気がした。これが人生の分岐点」

 だが、旅行から戻って間もなく、完全失明と診断される。下の子が大学を卒業した54歳で退職。視覚障がい者でも馬に乗れる乗馬クラブを探し、やっとの思いで見つけることができた。

 「目が見えないのに馬に乗るのは怖い。でも“落ちないように”と集中する間は、心が病んでいることを忘れられる。長いトンネルから抜け出すきっかけを作ってくれたのが、馬だった。
 落馬して骨折しても続けられたのは“目が見えなくなっても何かができる山下泰三”でありたかったから。何かできるものを探していたんだと思う」

 “ハンディのある人たちにも、この喜びを知ってもらいたい”と、翌2002年、全国的にも珍しい障がい者の乗馬サークル「身体障害者 馬とのふれ愛倶楽部」を設立。ホースセラピーを学び、同じ障がい者の悩みや相談を聞く、ピアカウンセラーの資格も取得した。

 「身体障害者手帳をもらった時、外から見える障がいと、見えない障がいがあると知って。その人たちの理解されない苦しみにも、気付かされた」

 08年には、障がいのあるなしにかかわらず、馬を介して動物と人とのふれあいを目的とする「しょうがいしゃ馬っ子の会」を設立。イベントなどを主催してきた。

 
■心あたたまる朗読を全国で

 馬と人間にも相性がある。山下さんに“生きる勇気をくれた馬”の1頭が「クレール」だ。優しい馬で、出合った瞬間、がむしゃらに乗るのではなく「乗せてもらおう」という気持ちになった。もう1頭は「タカラコスモス」。

 「青森県に目の見えない馬がいると聞いて、会いに行った。暴れて危険だと言われたけど、私は触らないと分からないから、自己責任で会わせてもらって。
 『コスモ』と呼んだら“なでてほしい”と言わんばかりに、顔を近づけてきた。人を寄せ付けない気難しい馬なのに不思議だ、と言われて。人と動物も心が通じる。好きとか嫌いという気持ちは、人間にも馬にも伝わるんやな」

 11年、タカラコスモスが亡くなると、山下さんは「心のふれあいを形にして残したい」と、童話「コスモと正太」を創作。これが最初の作品となった。紙は越前和紙を使い、美恵子さんの手作業で製本。ペンネームは京都の五条通と、馬が一番好きなことから、五条一馬とした。

 現在まで、詩や童話、昔話など多くの作品を創作。今年の夏は、能登半島地震の被災地支援のため、京都で作品展と童話の朗読会を開催。秋には福島県の被災地を訪ねた。

 「目が見えなくなって、外見や肩書以上に、その人の心や生き方など、本質的な部分を知る大切さに気付いた。最近、物騒な事件が多いけど、助け合う心とか、人との絆の大切さとかを、童話や昔話を通して未来を担う子どもたちに伝えたい。自分も、家族を支えてきたと思ってたけど、ずっと支えられてる。家族の絆やな。
 私のモットーは『子どもには夢を。若者には希望を。大人には生きがいを。お年寄りには人生の喜びを』。命ある限り何かに挑戦していきたいし、その心を大事にしようと思ってる」

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【記事】加藤瑞子
【「馬っ子の会」とクレールとタカラコスモスの写真】山下さん提供
【その他の写真】種村伸広