スター選手たちの夢の競演に、世界が沸いた。本年3月に行われたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、南米の強豪ベネズエラの初優勝で幕を閉じた。
2度目の連覇を狙った侍ジャパンは、大リーガーの大谷翔平選手らが躍動。世界の頂点を争うのにふさわしい熱戦の数々は、日本中に勇気と感動を届けた。
目にも止まらぬ剛速球、一振りで試合を変えるホームラン――こうした“野球の醍醐味”の源流をたどる時、一人の人物が浮かび上がる。20世紀前半、投打の二刀流で活躍し、通算714本塁打を記録した「野球の神様」ベーブ・ルース(本名ジョージ・ハーマン・ルース)である。
「あきらめない人を、打ち負かすことはできない」「人間は失敗によって教えられる」――球史に名を刻む彼の人生は「自分との勝負」の日々だった。
ルースは1895年2月、アメリカ東海岸の港町ボルチモアで生まれた。いたずらやけんかなどに明け暮れていた7歳の時、セント・メリー工業学校に送られる。
そこで出会ったのが恩師となるマシアス先生だった。マシアス先生に野球の才能を見いだされたルースは、左投げの投手として地元球団の目に留まり、19歳でプロ契約。子どものように無邪気なことから「ベーブ(赤ん坊)」というあだ名が付いたのは、この頃だ。
半年後にボストン・レッドソックスに移ると、エースとして頭角を現し、チームはワールドシリーズを制覇。その後、並外れた打撃力を生かすため、野手での出場機会を増やし、本塁打王を獲得する。
1919年、ニューヨーク・ヤンキースに移籍してからは本塁打数が飛躍的に増加。大病による選手生命の危機も脱し、27年には球団を2度目の世界一に導いた。この年にマークしたシーズン60本塁打は、当時の世界記録となった。
素行の悪さ等で度々、周囲を騒がせたルースだったが、少年たちとの交流を大切にした。晩年、がんを患った彼のもとには、世界中の子どもたちから3万を超える励ましの手紙が届いたといわれる。
偉大な功績をたたえ、「ベーブ・ルース・デー」と定められた47年4月27日、球場に集った少年ら6万人の前でルースは語った。
「野球は、青年の間から起こって来たものです」「本当に懸命に努力すれば、いまここにおられる選手諸君のように、最高の地位に達することができるのです」
この翌年、53歳で亡くなるまで“野球の発展の手助けをしたい”と願い続けたルース。大リーグ最高のヒーローは今なお、ファンの心の中で生き続けている。
スター選手たちの夢の競演に、世界が沸いた。本年3月に行われたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、南米の強豪ベネズエラの初優勝で幕を閉じた。
2度目の連覇を狙った侍ジャパンは、大リーガーの大谷翔平選手らが躍動。世界の頂点を争うのにふさわしい熱戦の数々は、日本中に勇気と感動を届けた。
目にも止まらぬ剛速球、一振りで試合を変えるホームラン――こうした“野球の醍醐味”の源流をたどる時、一人の人物が浮かび上がる。20世紀前半、投打の二刀流で活躍し、通算714本塁打を記録した「野球の神様」ベーブ・ルース(本名ジョージ・ハーマン・ルース)である。
「あきらめない人を、打ち負かすことはできない」「人間は失敗によって教えられる」――球史に名を刻む彼の人生は「自分との勝負」の日々だった。
ルースは1895年2月、アメリカ東海岸の港町ボルチモアで生まれた。いたずらやけんかなどに明け暮れていた7歳の時、セント・メリー工業学校に送られる。
そこで出会ったのが恩師となるマシアス先生だった。マシアス先生に野球の才能を見いだされたルースは、左投げの投手として地元球団の目に留まり、19歳でプロ契約。子どものように無邪気なことから「ベーブ(赤ん坊)」というあだ名が付いたのは、この頃だ。
半年後にボストン・レッドソックスに移ると、エースとして頭角を現し、チームはワールドシリーズを制覇。その後、並外れた打撃力を生かすため、野手での出場機会を増やし、本塁打王を獲得する。
1919年、ニューヨーク・ヤンキースに移籍してからは本塁打数が飛躍的に増加。大病による選手生命の危機も脱し、27年には球団を2度目の世界一に導いた。この年にマークしたシーズン60本塁打は、当時の世界記録となった。
素行の悪さ等で度々、周囲を騒がせたルースだったが、少年たちとの交流を大切にした。晩年、がんを患った彼のもとには、世界中の子どもたちから3万を超える励ましの手紙が届いたといわれる。
偉大な功績をたたえ、「ベーブ・ルース・デー」と定められた47年4月27日、球場に集った少年ら6万人の前でルースは語った。
「野球は、青年の間から起こって来たものです」「本当に懸命に努力すれば、いまここにおられる選手諸君のように、最高の地位に達することができるのです」
この翌年、53歳で亡くなるまで“野球の発展の手助けをしたい”と願い続けたルース。大リーグ最高のヒーローは今なお、ファンの心の中で生き続けている。
〈オーランド・セペダ〉
すべてが終わったかに思われる
絶望の中からも、人間は自身を
変革していくことができるのだ。
〈オーランド・セペダ〉
すべてが終わったかに思われる
絶望の中からも、人間は自身を
変革していくことができるのだ。
ベーブ・ルース没後50年が過ぎた1999年7月、プエルトリコの往年の強打者が「野球殿堂」入りを果たした。同国の英雄オーランド・セペダさんである。
約5万人が集まった式典で、彼は誇らかに語った。「私は、師匠である池田SGI(創価学会インタナショナル)会長に心から感謝したいのです。会長の指導によって、私は、人格を磨き、良き人間へと成長することができたのです。苦しみも、反感も、怒りも乗り越えることができたのです」
貧困にあえぎ、幼少期はスラム街で過ごした。野球を支えに17歳で渡米。たび重なる苦難を実力で打ち破り、58年、20歳の時に大リーグデビューする。
新人王やリーグMVPなどを獲得し、瞬く間にスター選手としての地位を確立。74年に引退するまで379本の本塁打を放った。
だが引退後、人生が暗転。悪友に利用され、麻薬密輸容疑で逮捕されてしまう。全てを失い、仮釈放から間もなく母も死去した。
どん底の暗闇に一筋の光が差し込んだのは83年。セペダさんは知人の紹介でSGIに入会する。
地道な学会活動に励むうち、内面に変化が表れた。「仏法の実践はけっして容易ではなかったが、まぎれもなく正しいものだった」。各地で講演活動を行い、過去の過ちを赤裸々に伝えていった。さらに広報担当として、かつてプレーしたサンフランシスコ・ジャイアンツに復帰。社会貢献が認められ、殿堂入りを望む声が高まった。
そして99年3月、“勝利の朝”は訪れる。念願の殿堂入りが決まったのだ。この年の12月には、ミリアン夫人と共に訪日。本部幹部会の席上、池田先生に殿堂入り記念のボールを贈呈した。
心に師を抱き、一昨年6月に86歳で生涯を閉じた彼は、自伝につづっている。「あらゆるものは、変化していく。眩い栄光も一瞬で消え去っていく。そのかわりに、永遠に続く闇もまたない。すべてが終わったかに思われる絶望の中からも、人間は自分自身を変革していくことができるのだ」
ベーブ・ルース没後50年が過ぎた1999年7月、プエルトリコの往年の強打者が「野球殿堂」入りを果たした。同国の英雄オーランド・セペダさんである。
約5万人が集まった式典で、彼は誇らかに語った。「私は、師匠である池田SGI(創価学会インタナショナル)会長に心から感謝したいのです。会長の指導によって、私は、人格を磨き、良き人間へと成長することができたのです。苦しみも、反感も、怒りも乗り越えることができたのです」
貧困にあえぎ、幼少期はスラム街で過ごした。野球を支えに17歳で渡米。たび重なる苦難を実力で打ち破り、58年、20歳の時に大リーグデビューする。
新人王やリーグMVPなどを獲得し、瞬く間にスター選手としての地位を確立。74年に引退するまで379本の本塁打を放った。
だが引退後、人生が暗転。悪友に利用され、麻薬密輸容疑で逮捕されてしまう。全てを失い、仮釈放から間もなく母も死去した。
どん底の暗闇に一筋の光が差し込んだのは83年。セペダさんは知人の紹介でSGIに入会する。
地道な学会活動に励むうち、内面に変化が表れた。「仏法の実践はけっして容易ではなかったが、まぎれもなく正しいものだった」。各地で講演活動を行い、過去の過ちを赤裸々に伝えていった。さらに広報担当として、かつてプレーしたサンフランシスコ・ジャイアンツに復帰。社会貢献が認められ、殿堂入りを望む声が高まった。
そして99年3月、“勝利の朝”は訪れる。念願の殿堂入りが決まったのだ。この年の12月には、ミリアン夫人と共に訪日。本部幹部会の席上、池田先生に殿堂入り記念のボールを贈呈した。
心に師を抱き、一昨年6月に86歳で生涯を閉じた彼は、自伝につづっている。「あらゆるものは、変化していく。眩い栄光も一瞬で消え去っていく。そのかわりに、永遠に続く闇もまたない。すべてが終わったかに思われる絶望の中からも、人間は自分自身を変革していくことができるのだ」
〈セペダさんを通して語る池田先生〉
大事なことは、悩みから逃げないこと。
たとえ、すぐに答えが出なくても、
悩みと格闘し続ける――そうすれば、
いつかあなたは「答え」のなかにいる
自分に気が付くはずです。
〈セペダさんを通して語る池田先生〉
大事なことは、悩みから逃げないこと。
たとえ、すぐに答えが出なくても、
悩みと格闘し続ける――そうすれば、
いつかあなたは「答え」のなかにいる
自分に気が付くはずです。
セペダさんは創価大学、東西の創価学園の野球部との交流も大切にしてきた。
創価大学は東京新大学野球連盟で50度を超えるリーグ優勝。全国大会でも常連校として名をはせ、一昨年秋には準優勝に輝いた。
東京・創価高校は春夏通算8度の甲子園出場を誇り、1995年夏にはベスト8に進出。関西創価高校も2001年春に出場し、ベスト4入りした歴史がある。
創価教育の創始者である牧口常三郎先生の三男・洋三さんも、早稲田実業時代、準優勝した大正14年(1925年)の夏、翌年の春夏と3季連続で甲子園の土を踏んだ。池田先生はかつて本紙で、学園生の甲子園での熱闘をたたえつつ、俊足・好打で鳴らした洋三さんの足跡に言及している。
「名選手であった洋三さんは、雑誌『野球界』でも取り上げられた。“高校野球の大会出場者で全日本チームをつくれば”との読者投票でも、見事に選ばれている。
同誌の昭和2年(1927年)1月号の特集『中学球界十傑物語』には、洋三青年の声が掲載されている。
『僕は、練習の時は一心不乱にやりますので、辛いことも忘れてしまいます。けれどこのつらい練習に堪えた事は、私にとってこよなき体験となりました』」(2007年8月20日付本紙「終戦62年に念う」)
セペダさんは創価大学、東西の創価学園の野球部との交流も大切にしてきた。
創価大学は東京新大学野球連盟で50度を超えるリーグ優勝。全国大会でも常連校として名をはせ、一昨年秋には準優勝に輝いた。
東京・創価高校は春夏通算8度の甲子園出場を誇り、1995年夏にはベスト8に進出。関西創価高校も2001年春に出場し、ベスト4入りした歴史がある。
創価教育の創始者である牧口常三郎先生の三男・洋三さんも、早稲田実業時代、準優勝した大正14年(1925年)の夏、翌年の春夏と3季連続で甲子園の土を踏んだ。池田先生はかつて本紙で、学園生の甲子園での熱闘をたたえつつ、俊足・好打で鳴らした洋三さんの足跡に言及している。
「名選手であった洋三さんは、雑誌『野球界』でも取り上げられた。“高校野球の大会出場者で全日本チームをつくれば”との読者投票でも、見事に選ばれている。
同誌の昭和2年(1927年)1月号の特集『中学球界十傑物語』には、洋三青年の声が掲載されている。
『僕は、練習の時は一心不乱にやりますので、辛いことも忘れてしまいます。けれどこのつらい練習に堪えた事は、私にとってこよなき体験となりました』」(2007年8月20日付本紙「終戦62年に念う」)
1950年11月26日、22歳だった池田先生は、弘教に歩いた日の夜、ベーブ・ルースの映画を観賞した。苦境にあった恩師・戸田城聖先生の事業を支えつつ、広布の最前線で奮闘する日々。当時の日記には、こう記されている。
「折伏に行く。入信せず。一人の人を、折伏することは大変なことだ。
而し、これ以上に、尊い、偉大な、且つ最高なる活動はない。
今、一人の人が入信せずとも、幾百千万の人々が、吾等を待っている。
夜一人して、大森にて、洋画『ベーブ・ルース物語』を観る」
そして後年、「野球界の王者」から学ぶ勝利の哲学を、共戦の同志に語り残した。
「(ルースの)『自伝』の第1章に綴られているのは、いったい何か。不良少年だった彼を、野球に導いてくれた、師マシアス先生への心からの感謝である。
恩師は、常にルース少年に語ったそうだ。『どんなことでもベストを尽し、社会の立派なメンバーになってくれよ』と。
師は、ありがたいものだ。毀誉褒貶の吹き荒れる世界で、ルースには、師匠こそ、正しき『心の羅針盤』であった。『ベストを尽くせ』『立派な社会人になれ』との言葉に応えゆく、師への報恩の心が勝利の力となったのだ」(2008年11月27日付本紙「随筆 人間世紀の光」)
「セペダさんのモットーは、『ネバー・ギブアップ』――『絶対にあきらめるな!』である。
勝利の人生を飾りゆくために、大事なことは何か。
それは、セペダさんが模範を示されているように、『真剣』と『誠実』と『智慧』、そして『執念の行動』である。これが、セペダさんの人生訓である」(06年6月15日、第61回本部幹部会でのスピーチ)
本年は『青春対話』の連載開始から30年。その中で、セペダさんの生き方を通して先生が示した指針は、新たな門出を迎える友を鼓舞してやまない。
「人生の敗北とは何か。それは、失敗することではない。失敗したり、落ち込んだとき、そこで自分をあきらめてしまうことです。
『再び立ち上がらないこと』こそ、敗北なのです。失敗するたびに立ち上がる人が、真の勝利者なのです。(中略)
ともあれ、青春時代の悩みは、パッと答えが出て、解決するものではない。
大事なことは、悩みから逃げないことです。悩みを背負い続ける勇気です。たとえ、すぐに答えが出なくても、悩みと格闘し続ける――そうすれば、いつかあなたは『答え』のなかにいる自分に気が付くはずです。
だから大事なのは『使命感』です。『何と戦うか』です」(3月21日付)
1950年11月26日、22歳だった池田先生は、弘教に歩いた日の夜、ベーブ・ルースの映画を観賞した。苦境にあった恩師・戸田城聖先生の事業を支えつつ、広布の最前線で奮闘する日々。当時の日記には、こう記されている。
「折伏に行く。入信せず。一人の人を、折伏することは大変なことだ。
而し、これ以上に、尊い、偉大な、且つ最高なる活動はない。
今、一人の人が入信せずとも、幾百千万の人々が、吾等を待っている。
夜一人して、大森にて、洋画『ベーブ・ルース物語』を観る」
そして後年、「野球界の王者」から学ぶ勝利の哲学を、共戦の同志に語り残した。
「(ルースの)『自伝』の第1章に綴られているのは、いったい何か。不良少年だった彼を、野球に導いてくれた、師マシアス先生への心からの感謝である。
恩師は、常にルース少年に語ったそうだ。『どんなことでもベストを尽し、社会の立派なメンバーになってくれよ』と。
師は、ありがたいものだ。毀誉褒貶の吹き荒れる世界で、ルースには、師匠こそ、正しき『心の羅針盤』であった。『ベストを尽くせ』『立派な社会人になれ』との言葉に応えゆく、師への報恩の心が勝利の力となったのだ」(2008年11月27日付本紙「随筆 人間世紀の光」)
「セペダさんのモットーは、『ネバー・ギブアップ』――『絶対にあきらめるな!』である。
勝利の人生を飾りゆくために、大事なことは何か。
それは、セペダさんが模範を示されているように、『真剣』と『誠実』と『智慧』、そして『執念の行動』である。これが、セペダさんの人生訓である」(06年6月15日、第61回本部幹部会でのスピーチ)
本年は『青春対話』の連載開始から30年。その中で、セペダさんの生き方を通して先生が示した指針は、新たな門出を迎える友を鼓舞してやまない。
「人生の敗北とは何か。それは、失敗することではない。失敗したり、落ち込んだとき、そこで自分をあきらめてしまうことです。
『再び立ち上がらないこと』こそ、敗北なのです。失敗するたびに立ち上がる人が、真の勝利者なのです。(中略)
ともあれ、青春時代の悩みは、パッと答えが出て、解決するものではない。
大事なことは、悩みから逃げないことです。悩みを背負い続ける勇気です。たとえ、すぐに答えが出なくても、悩みと格闘し続ける――そうすれば、いつかあなたは『答え』のなかにいる自分に気が付くはずです。
だから大事なのは『使命感』です。『何と戦うか』です」(3月21日付)
【引用・参考】『ベーブ・ルース自伝』宮川毅訳(ベースボール・マガジン社)、広岡勲著『負けない心 メジャーリーガー 不屈の言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『オーランド・セペダ自伝』東晋平編訳(潮出版社)、『ヒューマンストーリー 逆境という名の幸福』(同)ほか
ご意見・ご感想をお寄せください。
連載「ヒーローズ」の過去記事は、こちらから読むことができます(有料プラン会員)。
【引用・参考】『ベーブ・ルース自伝』宮川毅訳(ベースボール・マガジン社)、広岡勲著『負けない心 メジャーリーガー 不屈の言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『オーランド・セペダ自伝』東晋平編訳(潮出版社)、『ヒューマンストーリー 逆境という名の幸福』(同)ほか
ご意見・ご感想をお寄せください。
連載「ヒーローズ」の過去記事は、こちらから読むことができます(有料プラン会員)。