大人になるって、どういうことだろう?――人は若き日に、それぞれの道で迷いながらも、経験を積み、成長していくもの。鎌倉時代の武士にとっては、誰もが通る“大人への階段”があったようですよ。それでは、早速かいつまんでいきましょう。いざ、鎌倉時代!
大人になるって、どういうことだろう?――人は若き日に、それぞれの道で迷いながらも、経験を積み、成長していくもの。鎌倉時代の武士にとっては、誰もが通る“大人への階段”があったようですよ。それでは、早速かいつまんでいきましょう。いざ、鎌倉時代!
髪形や服装、名前も変えちゃう? 「元服」は大人への階段
髪形や服装、名前も変えちゃう? 「元服」は大人への階段
弥生3月が目前!
青年の心意気を燃やすネコたま殿も、早く一人前(一匹前?)の鎌倉武士のようになりたいそうです。
鎌倉時代への憧れが募り、いつでも、研究に余念のないネコたま殿。歴史の本を読み、成長に不可欠なのは「ニボシ」だと知って、モグモグ頰張っています。
確かに、体の成長にカルシウムは大切ですが……それはとんだ読み間違い! 大切なのは「ニボシ」ではなく、「エボシ(烏帽子)」です!
そう、鎌倉時代の武士にとって、「烏帽子」は大切な成長の証しとしての役割を果たしていたのです。
◆
鎌倉時代、一人前の武士への階段を上る大事なステップが「元服」〈注1〉でした。
時代や身分によって、元服の年齢は異なりますが、現代の中学生くらいの年代には行われていたようです。
私たちが迎える「成人式」と比べると、やや早熟な気もしますね。
元服を迎えると、まずは髪形を大人と同じように整えます〈注2〉。
そして頭に、烏帽子〈注3〉をかぶります。
烏帽子をかぶせる人は「烏帽子親」、かぶせてもらう人は「烏帽子子」と呼ばれていました。烏帽子親は、主君などの有力者が務めることが多かったようです。
元服の儀式を通して、まさに“親子”のような強い関係を結ぶことになりました。
「青年よ、大志を抱いて、烏帽子をかぶれ!」――烏帽子親は、そんな大きな期待をかけ、わが子のような思いで、烏帽子をかぶせていたことでしょう。
烏帽子にはいろんなデザインがあったようで、時代によって流行のスタイルなども生まれていました。
「めぼしい烏帽子はあるかなぁ」なんて、ぴったり似合う烏帽子を選んでいたのでしょうか。
さらに、元服の際には、烏帽子親の名前から一字とって、新しい名前が付けられました〈注4〉。
髪形や服装はまだしも、名前まで変えちゃうなんて!
華麗なる“ビフォーアフター”を経て、生まれ変わった思いで“大人への階段”を上っていったことでしょう。
弥生3月が目前!
青年の心意気を燃やすネコたま殿も、早く一人前(一匹前?)の鎌倉武士のようになりたいそうです。
鎌倉時代への憧れが募り、いつでも、研究に余念のないネコたま殿。歴史の本を読み、成長に不可欠なのは「ニボシ」だと知って、モグモグ頰張っています。
確かに、体の成長にカルシウムは大切ですが……それはとんだ読み間違い! 大切なのは「ニボシ」ではなく、「エボシ(烏帽子)」です!
そう、鎌倉時代の武士にとって、「烏帽子」は大切な成長の証しとしての役割を果たしていたのです。
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鎌倉時代、一人前の武士への階段を上る大事なステップが「元服」〈注1〉でした。
時代や身分によって、元服の年齢は異なりますが、現代の中学生くらいの年代には行われていたようです。
私たちが迎える「成人式」と比べると、やや早熟な気もしますね。
元服を迎えると、まずは髪形を大人と同じように整えます〈注2〉。
そして頭に、烏帽子〈注3〉をかぶります。
烏帽子をかぶせる人は「烏帽子親」、かぶせてもらう人は「烏帽子子」と呼ばれていました。烏帽子親は、主君などの有力者が務めることが多かったようです。
元服の儀式を通して、まさに“親子”のような強い関係を結ぶことになりました。
「青年よ、大志を抱いて、烏帽子をかぶれ!」――烏帽子親は、そんな大きな期待をかけ、わが子のような思いで、烏帽子をかぶせていたことでしょう。
烏帽子にはいろんなデザインがあったようで、時代によって流行のスタイルなども生まれていました。
「めぼしい烏帽子はあるかなぁ」なんて、ぴったり似合う烏帽子を選んでいたのでしょうか。
さらに、元服の際には、烏帽子親の名前から一字とって、新しい名前が付けられました〈注4〉。
髪形や服装はまだしも、名前まで変えちゃうなんて!
華麗なる“ビフォーアフター”を経て、生まれ変わった思いで“大人への階段”を上っていったことでしょう。
やっぱり実戦あるのみ! 後継者を育む武士たち
やっぱり実戦あるのみ! 後継者を育む武士たち
大人っぽいヘアスタイルにファッション。やっぱり、武士は見た目が9割――というわけにはいきません!
元服を迎える前後になると、武士の本領ともいえる武芸の訓練も始まりました。
大人と一緒に狩りに出かけ、見事、初めて獲物を仕留めた時、その手柄を祝います。これを「矢開」といいました。
源頼朝が、息子・頼家の矢開の際に、その成長を大いに喜び、祝宴をあげたエピソードは有名です〈注5〉。
ちなみに、その知らせを聞いた頼朝の妻・北条政子は「武士の子どもなんだから、狩りで獲物をつかまえるくらい当たり前でしょ」と、素っ気ない反応だったそうです。
ちょっぴり“親ばか”なパパと、厳格なママ――天下の将軍のご家庭にも、いろんな事情があったんですね。
また、戦でのデビューである「初陣」も大切な節目でした。たとえば、第3代執権・北条泰時は21歳の時、「比企氏の乱」〈注6〉に参加。これが、泰時の初陣ともいわれています。
この戦いで、北条氏は比企氏を滅ぼしました。まさに、初陣を飾った泰時は、その後も戦功をあげ、承久3年(1221年)の「承久の乱」では幕府の大軍を率いて、朝廷との争いに、勝利を収めたのです。
幼い頃から大切に、時には厳愛の訓練を――いつの時代も、後継の人材の育成は、大事なことだったんですね。
大人っぽいヘアスタイルにファッション。やっぱり、武士は見た目が9割――というわけにはいきません!
元服を迎える前後になると、武士の本領ともいえる武芸の訓練も始まりました。
大人と一緒に狩りに出かけ、見事、初めて獲物を仕留めた時、その手柄を祝います。これを「矢開」といいました。
源頼朝が、息子・頼家の矢開の際に、その成長を大いに喜び、祝宴をあげたエピソードは有名です〈注5〉。
ちなみに、その知らせを聞いた頼朝の妻・北条政子は「武士の子どもなんだから、狩りで獲物をつかまえるくらい当たり前でしょ」と、素っ気ない反応だったそうです。
ちょっぴり“親ばか”なパパと、厳格なママ――天下の将軍のご家庭にも、いろんな事情があったんですね。
また、戦でのデビューである「初陣」も大切な節目でした。たとえば、第3代執権・北条泰時は21歳の時、「比企氏の乱」〈注6〉に参加。これが、泰時の初陣ともいわれています。
この戦いで、北条氏は比企氏を滅ぼしました。まさに、初陣を飾った泰時は、その後も戦功をあげ、承久3年(1221年)の「承久の乱」では幕府の大軍を率いて、朝廷との争いに、勝利を収めたのです。
幼い頃から大切に、時には厳愛の訓練を――いつの時代も、後継の人材の育成は、大事なことだったんですね。
〈注1〉朝廷、公家社会において重要な儀礼だった元服が、平安時代末期の頃には武家社会でも定着していった。
〈注2〉元服前は後頭部で結んだ髪を垂らしていた。元服を迎えると、髪を頭の上で束ねて髻(もとどり)を結い、余った部分を切った。
〈注3〉漆で形状を固定した、布や紙製の帽子。元服(成人)した男性に欠かせないもので、人前で烏帽子をかぶらないことは恥とも考えられていた。
〈注4〉源頼朝も、御家人の子に対して烏帽子親になり、自らの名前から一字をとって「宗朝」「頼時」などと名付けている。
〈注5〉建久4年(1193年)5月、富士で行われた狩りでのこと。『吾妻鏡』に描かれている。
〈注6〉建仁3年(1203年)9月に起きた。比企氏は、第2代将軍・頼家の外戚であり、後見人でもあった。比企氏が滅びたことによって、北条時政が政権を掌握することとなった。
〈注1〉朝廷、公家社会において重要な儀礼だった元服が、平安時代末期の頃には武家社会でも定着していった。
〈注2〉元服前は後頭部で結んだ髪を垂らしていた。元服を迎えると、髪を頭の上で束ねて髻(もとどり)を結い、余った部分を切った。
〈注3〉漆で形状を固定した、布や紙製の帽子。元服(成人)した男性に欠かせないもので、人前で烏帽子をかぶらないことは恥とも考えられていた。
〈注4〉源頼朝も、御家人の子に対して烏帽子親になり、自らの名前から一字をとって「宗朝」「頼時」などと名付けている。
〈注5〉建久4年(1193年)5月、富士で行われた狩りでのこと。『吾妻鏡』に描かれている。
〈注6〉建仁3年(1203年)9月に起きた。比企氏は、第2代将軍・頼家の外戚であり、後見人でもあった。比企氏が滅びたことによって、北条時政が政権を掌握することとなった。
【参考文献】西田友広著『16テーマで知る 鎌倉武士の生活』(岩波ジュニア新書)。八條忠基著『有職装束大全』(平凡社)。二木謙一著『中世武家の作法』(吉川弘文館)。五味文彦他編『現代語訳 吾妻鏡』第6巻(吉川弘文館)。
【参考文献】西田友広著『16テーマで知る 鎌倉武士の生活』(岩波ジュニア新書)。八條忠基著『有職装束大全』(平凡社)。二木謙一著『中世武家の作法』(吉川弘文館)。五味文彦他編『現代語訳 吾妻鏡』第6巻(吉川弘文館)。
その時、日蓮大聖人は――
その時、日蓮大聖人は――
「平左衛門尉が大将として、数百人の兵士に、鎧の一種である胴丸を着せて、自分は烏帽子かけをし、眼をいからし、声を荒らげてやって来た」〈※1〉――これは、文永8年(1271年)9月12日、鎌倉の草庵に住まわれていた日蓮大聖人が捕縛された際の描写です。襲撃を指揮した平左衛門尉は、幕府の軍事を司る侍所の次官でした。
「烏帽子かけ(懸け)」とは、烏帽子が脱げないよう、あごにかけて結ぶひも。平左衛門尉が、何の罪もない大聖人のもとに、荒々しくやって来たことが分かります。
さらに、平左衛門尉の一番の家来が走り寄り、大聖人の懐にあった法華経の巻物を奪い取りました。その巻物で、大聖人の顔を3度、殴りつけたのです。一人の僧侶を捕らえるには、あまりにも横暴であり、常軌を逸した行動です。
命にも及ぶような緊迫した場面にも、大聖人は冷静に、そして確信を込めて、「ああおもしろい、平左衛門尉が、ものに狂うを見よ!」〈※2〉と喝破されました。
権威や迫害に屈することなく、立正安国の戦いを貫かれた大聖人の御境涯の大きさが伝わってきます。
「平左衛門尉が大将として、数百人の兵士に、鎧の一種である胴丸を着せて、自分は烏帽子かけをし、眼をいからし、声を荒らげてやって来た」〈※1〉――これは、文永8年(1271年)9月12日、鎌倉の草庵に住まわれていた日蓮大聖人が捕縛された際の描写です。襲撃を指揮した平左衛門尉は、幕府の軍事を司る侍所の次官でした。
「烏帽子かけ(懸け)」とは、烏帽子が脱げないよう、あごにかけて結ぶひも。平左衛門尉が、何の罪もない大聖人のもとに、荒々しくやって来たことが分かります。
さらに、平左衛門尉の一番の家来が走り寄り、大聖人の懐にあった法華経の巻物を奪い取りました。その巻物で、大聖人の顔を3度、殴りつけたのです。一人の僧侶を捕らえるには、あまりにも横暴であり、常軌を逸した行動です。
命にも及ぶような緊迫した場面にも、大聖人は冷静に、そして確信を込めて、「ああおもしろい、平左衛門尉が、ものに狂うを見よ!」〈※2〉と喝破されました。
権威や迫害に屈することなく、立正安国の戦いを貫かれた大聖人の御境涯の大きさが伝わってきます。
〈※1〉御書新版1228ページ・御書全集911ページ(通解)
〈※2〉御書新版1229ページ・御書全集912ページ(通解)
〈※1〉御書新版1228ページ・御書全集911ページ(通解)
〈※2〉御書新版1229ページ・御書全集912ページ(通解)