女子学生部の“スタディ(研さん)”のための連載「Let’s Study! ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために」。「開目抄」の第3回となる今回は、第20段を拝します。
女子学生部の“スタディ(研さん)”のための連載「Let’s Study! ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために」。「開目抄」の第3回となる今回は、第20段を拝します。
【第20段】御書新版70ページ4行目~11行目、御書全集200ページ9行目~16行目
【第20段】御書新版70ページ4行目~11行目、御書全集200ページ9行目~16行目
【御文】日本国にこれをしれる者、ただ日蓮一人なり。
これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等にこの二辺を合わせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし、いうならば三障四魔必ず競い起こるべしとしんぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転すべくば一度に思い止まるべしと、しばらくやすらいしほどに、宝塔品の六難九易これなり。我ら程の小力の者、須弥山はなぐとも、我ら程の無通の者、乾ける草を負って劫火にはやけずとも、我ら程の無智の者、恒沙の経々をばよみおぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしととかるるは、これなるべし。今度強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ。
【御文】日本国にこれをしれる者、ただ日蓮一人なり。
これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等にこの二辺を合わせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし、いうならば三障四魔必ず競い起こるべしとしんぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転すべくば一度に思い止まるべしと、しばらくやすらいしほどに、宝塔品の六難九易これなり。我ら程の小力の者、須弥山はなぐとも、我ら程の無通の者、乾ける草を負って劫火にはやけずとも、我ら程の無智の者、恒沙の経々をばよみおぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしととかるるは、これなるべし。今度強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ。
【通解】日本国でこのことを知っている者は、ただ日蓮一人である。
このことを一言でも言い出すなら、父母や兄弟、師匠、さらに国の権力者による迫害が必ず起こってくるにちがいない。
しかし、言わなければ無慈悲と同じことになってしまう。
どうすべきかと考え、法華経や涅槃経などの文に、言うか、言わないか、の二つを照らし合わせてみた。
すると、言わないでおけば、今世では何ごともなくても、来世には必ず無間地獄に堕ちてしまう。
もし、言うなら、三障四魔が必ず競い起こってくるということが分かった。
この二つの中では「言う」ほうを選ぶべきである。
しかし、国の権力者による迫害などが起こってきた時に退転してしまうようであるなら、はじめから思いとどまるのがよいだろうと、しばらく思いをめぐらしていたのであるが、その時に思い当たったのが法華経見宝塔品の六難九易であった。
「私たちのような力がない者が須弥山を投げることができても、私たちのような神通力がない者が枯れ草を背負って燃え盛る火の中で焼けないことがあっても、私たちのような無智の者がガンジス川の砂のように数え切れないほど多くの経典を読み覚えることができたとしても、法華経の一句一偈すら末法の世で持つことは難しい」と説かれているのが、まさにこれである。
このたびこそ、仏の覚りを得ようとの強盛な求道心を起こして、決して退転しない、との誓願を立てたのである。
【通解】日本国でこのことを知っている者は、ただ日蓮一人である。
このことを一言でも言い出すなら、父母や兄弟、師匠、さらに国の権力者による迫害が必ず起こってくるにちがいない。
しかし、言わなければ無慈悲と同じことになってしまう。
どうすべきかと考え、法華経や涅槃経などの文に、言うか、言わないか、の二つを照らし合わせてみた。
すると、言わないでおけば、今世では何ごともなくても、来世には必ず無間地獄に堕ちてしまう。
もし、言うなら、三障四魔が必ず競い起こってくるということが分かった。
この二つの中では「言う」ほうを選ぶべきである。
しかし、国の権力者による迫害などが起こってきた時に退転してしまうようであるなら、はじめから思いとどまるのがよいだろうと、しばらく思いをめぐらしていたのであるが、その時に思い当たったのが法華経見宝塔品の六難九易であった。
「私たちのような力がない者が須弥山を投げることができても、私たちのような神通力がない者が枯れ草を背負って燃え盛る火の中で焼けないことがあっても、私たちのような無智の者がガンジス川の砂のように数え切れないほど多くの経典を読み覚えることができたとしても、法華経の一句一偈すら末法の世で持つことは難しい」と説かれているのが、まさにこれである。
このたびこそ、仏の覚りを得ようとの強盛な求道心を起こして、決して退転しない、との誓願を立てたのである。
【解説】人々の苦しみの元凶は謗法の諸宗にあり、民衆を苦しめる悪侶や悪知識の存在であることを大聖人は一人、見抜かれ、それを「日本国にこれをしれる者、ただ日蓮一人なり」と仰せです。
次に、立宗に踏み切られるに至る大聖人のお心の葛藤が記されています。
当時の仏教界のひずみを見抜き、一切衆生を成仏させる大法は南無妙法蓮華経であることを宣言し、正法を弘める第一歩を踏み出されたのが、建長5年(1253年)4月28日の立宗宣言でした。
念仏をはじめとする諸宗の高僧たちは、人々の尊敬の的であり、権力者とも深く結びついていました。
しかし、それら諸宗こそ人々を苦悩に陥れる元凶であることを一言でも言えば、父母、兄弟、師匠のみならず国王からの難が必ず起こるにちがいない――。
もし難を恐れて言わないなら、民衆を救おうとしないことになり、無慈悲の謗りを免れない――。
ゆえに言うべきか否かで悩まれ、その思索・葛藤の末に“言うべし”と決断されたのです。
法華経や涅槃経には、正法を弘めれば必ず種々の難が起こるとも説かれています。もし邪法を破折しなければ、その人が仏法の敵となり、たとえ今生は安穏であっても、後生には無間地獄に堕ちることは明らかです。しかし、言えば、三障四魔が必ずわが身に競い起こってくることも覚悟しなければいけません。
「二辺の中にはいうべし」――この二つの中では、言うほうを選ぶべきであると考えたと仰せです。
法門を説き始めたものの、もし王難などの最も厳しい難が起きたときに退転してしまうくらいなら、はじめから言わないほうがまだよいと思案したと仰せです。
その大聖人が最後に決断される根拠となったのが、法華経見宝塔品第11の「六難九易」です。
六難九易は、釈尊滅後において、法華経を受持し弘教することが、どれほど困難であるかについて、およそ不可能なことを九つ挙げて、法華経の弘通の六つの難しさに比べると、このほうがまだ易しいと説いたものです。
ここでは、九易のうち、須弥山を他方の無数の仏土に投げ置く、枯れ草を背負って大火の中に入っても焼けない、恒沙の経典を読み尽くす、の三つが挙げられています。
宝塔品のこの文は、仏が、それほどの難事であることを述べたうえで、仏の滅後に法華経を弘めることを促したものです。大聖人は、この宝塔品の説法に込められた仏の民衆救済の心を思い起こして「今度強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ」と、不退転の誓願を立てたのだと仰せになっています。
【解説】人々の苦しみの元凶は謗法の諸宗にあり、民衆を苦しめる悪侶や悪知識の存在であることを大聖人は一人、見抜かれ、それを「日本国にこれをしれる者、ただ日蓮一人なり」と仰せです。
次に、立宗に踏み切られるに至る大聖人のお心の葛藤が記されています。
当時の仏教界のひずみを見抜き、一切衆生を成仏させる大法は南無妙法蓮華経であることを宣言し、正法を弘める第一歩を踏み出されたのが、建長5年(1253年)4月28日の立宗宣言でした。
念仏をはじめとする諸宗の高僧たちは、人々の尊敬の的であり、権力者とも深く結びついていました。
しかし、それら諸宗こそ人々を苦悩に陥れる元凶であることを一言でも言えば、父母、兄弟、師匠のみならず国王からの難が必ず起こるにちがいない――。
もし難を恐れて言わないなら、民衆を救おうとしないことになり、無慈悲の謗りを免れない――。
ゆえに言うべきか否かで悩まれ、その思索・葛藤の末に“言うべし”と決断されたのです。
法華経や涅槃経には、正法を弘めれば必ず種々の難が起こるとも説かれています。もし邪法を破折しなければ、その人が仏法の敵となり、たとえ今生は安穏であっても、後生には無間地獄に堕ちることは明らかです。しかし、言えば、三障四魔が必ずわが身に競い起こってくることも覚悟しなければいけません。
「二辺の中にはいうべし」――この二つの中では、言うほうを選ぶべきであると考えたと仰せです。
法門を説き始めたものの、もし王難などの最も厳しい難が起きたときに退転してしまうくらいなら、はじめから言わないほうがまだよいと思案したと仰せです。
その大聖人が最後に決断される根拠となったのが、法華経見宝塔品第11の「六難九易」です。
六難九易は、釈尊滅後において、法華経を受持し弘教することが、どれほど困難であるかについて、およそ不可能なことを九つ挙げて、法華経の弘通の六つの難しさに比べると、このほうがまだ易しいと説いたものです。
ここでは、九易のうち、須弥山を他方の無数の仏土に投げ置く、枯れ草を背負って大火の中に入っても焼けない、恒沙の経典を読み尽くす、の三つが挙げられています。
宝塔品のこの文は、仏が、それほどの難事であることを述べたうえで、仏の滅後に法華経を弘めることを促したものです。大聖人は、この宝塔品の説法に込められた仏の民衆救済の心を思い起こして「今度強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ」と、不退転の誓願を立てたのだと仰せになっています。
池田先生の講義から
池田先生の講義から
仏教において「誓願」は、宿業の鉄鎖を切り、過去に縛られた自分を解放して、新しい未来に向かう自分をつくる力と言えます。仏の教えで自分を磨きつつ、確立した心によって、未来の自分を方向付け、それを実現していく努力を持続していけるのが「誓願の力」です。
誓願とは、いわば「変革の原理」です。
それは、自分自身の変革はもちろんのこと、薬草喩品の仏の誓願に見られるように、全民衆を変革していくための原理であると言えます。(中略)
大聖人は深き誓願によって、一人、法華経の行者として厳然と立ち上がられました。謗法の悪縁に迷うすべての人を救おうと、断固たる行動を貫いていかれた。その結果は、大聖人が予見された通り、日本中の人から憎まれ、嵐のような大弾圧を受けることになりました。
しかし大聖人は、「悦んで云く本より存知の旨なり」(全910・新1226)とのお心で、「然どもいまだこりず候」(全1056・新1435)、「日蓮一度もしりぞく心なし」(全1224・新1635)、「今に至るまで軍やむ事なし」(全502・新600)との決然たる御心境で戦い続けられたのです。
大聖人の生涯の壮絶な闘争を支えた原動力は、ひとえに誓願の力であったと拝することができる。誓願を貫くことによって仏の心と一体化し、生命の奥底から仏界の無限の力を涌現することができることを示し、教えてくださったのである。
濁世にあって、人間不信を助長させる魔の策謀を打ち破ることができるのは、万人救済を誓う「誓願」の力以外にありません。(『池田大作全集』第34巻所収「開目抄」講義)
仏教において「誓願」は、宿業の鉄鎖を切り、過去に縛られた自分を解放して、新しい未来に向かう自分をつくる力と言えます。仏の教えで自分を磨きつつ、確立した心によって、未来の自分を方向付け、それを実現していく努力を持続していけるのが「誓願の力」です。
誓願とは、いわば「変革の原理」です。
それは、自分自身の変革はもちろんのこと、薬草喩品の仏の誓願に見られるように、全民衆を変革していくための原理であると言えます。(中略)
大聖人は深き誓願によって、一人、法華経の行者として厳然と立ち上がられました。謗法の悪縁に迷うすべての人を救おうと、断固たる行動を貫いていかれた。その結果は、大聖人が予見された通り、日本中の人から憎まれ、嵐のような大弾圧を受けることになりました。
しかし大聖人は、「悦んで云く本より存知の旨なり」(全910・新1226)とのお心で、「然どもいまだこりず候」(全1056・新1435)、「日蓮一度もしりぞく心なし」(全1224・新1635)、「今に至るまで軍やむ事なし」(全502・新600)との決然たる御心境で戦い続けられたのです。
大聖人の生涯の壮絶な闘争を支えた原動力は、ひとえに誓願の力であったと拝することができる。誓願を貫くことによって仏の心と一体化し、生命の奥底から仏界の無限の力を涌現することができることを示し、教えてくださったのである。
濁世にあって、人間不信を助長させる魔の策謀を打ち破ることができるのは、万人救済を誓う「誓願」の力以外にありません。(『池田大作全集』第34巻所収「開目抄」講義)
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