企画・連載

「一汁一菜」でよいという提案――料理研究家 土井善晴さんに聞く㊤ 2023年5月12日

〈Switch――共育のまなざし〉

  
 料理研究家の土井善晴さんは、家庭での料理について「一汁一菜」を提案しています。忙しい現代社会の中でも実践できる家庭料理の在り方、そんな家庭料理が親と子にもたらす価値とは――。上下2回で聞いていきます。
 (聞き手=掛川俊明、村上進 ㊦は明日13日付に掲載予定)
  

■具だくさんの味噌汁さえあれば

  
 ――著書『一汁一菜でよいという提案』では、「お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んでほしい」と。家庭料理における一汁一菜とは、どのようなものでしょうか?
  
 一汁一菜とは汁飯香。つまり、味噌汁、ご飯、漬物のことで、日本の最も大切な食べ物です。これが伝統の日常の食事の形です。
 おかずは、折に触れ、余裕があるときに作ればいい。近代に入り、ぜいたくができるようになって、魚や肉のおかずを最初に考えるようになりました。それもバリエーションが必要で毎日違うものを考えて作らないといけないと思うようになってから、食事作りが大変になったのです。
  
 栄養的な観点から一汁三菜が勧められますが、献立を考えるのも、レシピ通り計量するのも面倒なことです。
 味噌汁を具だくさんにすれば、おかずの一品を兼ねるのです。これで栄養バランスも問題なし、量が足りなければおかわりすればいいのです。
 気持ちや時間に余裕があるとき食べたいものを作ればいい。洋食でも中華でもご飯がパンになってもパスタになってもいいのです。
  

  
 味噌汁には「何を入れてもいい」んです。トマトやピーマンが入ってもいいし、ベーコンや揚げ卵を入れてもいいのです。
 『お味噌知る。』という本でソーセージや牛乳を入れた味噌汁も紹介しています。味噌汁に入れたくないものはあっても、入れていけないものはありません。
  
 一汁一菜を言うようになったのは2015年ごろ、「大人の食育」という土井善晴勉強会でした。結婚前の若者たちが「幸せな家庭を築くためにお料理ができるようになりたい」、子どもを抱えたお母さんが「子どもは自分の手料理で育てたい」と言います。「でもお料理ができません……」と。
 その時、「昔も今もみんな忙しい。暮らしの基本は味噌汁とご飯でいい」「一汁一菜でノルマ達成」と話したんです。みんなの顔がぱっと明るくなって、安心してくれたのです。
  
 一汁一菜を基本にして、それ以上お料理しない。そして余裕があれば、都度、豆腐や納豆をプラスして、鮮度のいい魚を見つけたら魚を焼く。
 大事なことは自分の意思でお料理することです。自由な心でするお料理は楽しみです。
  

  
 熱湯に味噌を溶けば味噌汁です。
 近年、日本は本当にぜいたくになって、料理店のようにカツオや昆布の出汁がないとダメなように言うのです。それは間違いです。
 家庭料理の基本はお水です。フランス料理でも中国料理でも同じ、全ての料理は水から始まります。具だくさんならそれぞれの食材から味が出て、味噌を溶くだけでよいのです。作ってみれば驚くほどおいしいのが分かります。
  
 ご飯と味噌汁は、毎日食べても食べ飽きることがありません。ご飯も味噌汁のおいしさも、自然のもの、「人間業」ではありません。人間が付けた味はどうしても飽きてしまう。
 万人を喜ばせる味付けはありませんが、自然のおいしさは万人を満足させるもの。日本のお料理は豊かな自然が背景にあるのです。ご飯は米を研ぎ、水加減して炊いただけ。味噌は、微生物の発酵で作られたもので、人間が合成したおいしさとは違います。
 味噌の中には、微生物による生態系があって、小さな大自然みたいなもの。自然物としての味噌は、人間の身体とつながっています。
  

■何も言わないのは「普通においしい」ということ

  
 ――それでも、テレビやSNSで鮮やかな料理を見ると、どうしてもハードルが上がってしまいます。
  
 外食で食べる料理が基本になっているからなんでしょうね。お金を取るお店の料理は、そもそもお金をいただくためのお料理です。お金を取ろうとすれば見栄えを良くするための飾りも必要です。たくさんもうけようと思えば、コストを低くするために大量生産されたものを使うことになります。
  
 家庭料理は無償の愛です。全ての料理は家庭料理から始まりました。そこからいろいろな事情、思惑で変化します。
 「料理は“ひと手間”」といわれてきたのは、西洋的な思想の影響です。和食は素材を生かす料理ですから、手数を増やせば、それだけまずくなるのです。手をかけた方がおいしいという考えは間違いで、料理を面倒なものにします。
  

  
 世間では、手のかからない単純なものを下に見る風潮があります。それでは日本の料理を否定することになるでしょう。日本の素朴、潔さ、洗練は全て、手をかけすぎない、すっきりとしたものです。
 加工食品を使ってトッピングするのは、料理ではありません。後で話しますが、それよりも大切なことがあるのです。
  
 若い人が「普通においしい」という言葉遣いをしますね。この感覚は正しいと思います。
 「普通においしい」ものは、安心できる、静かで穏やかな味。マグロのトロや霜降りの牛肉のように「おいしい!」と大きな声で叫ぶようなものと、家庭で毎日食べる「おいしい」もの。それを言った人は、両者の違いを感覚的に分かっているんでしょう。
  
 家庭で料理を作っても「家族が何も言ってくれない」という場面もあります。けれど、それはすでに「普通においしい」と言ってくれているのと一緒です。違和感がなく、すっかり安心しているからでしょう。
  

■単に「食べる」だけが「食事」ではない

  
 ――家庭で料理することは、子どもたちにとって、教育的な意義もあるのでしょうか?
  
 料理の目的は、栄養摂取・おいしさの満足(快楽)・会食(コミュニケーション)だけじゃありません。
 食事とは必要な栄養素を取ることと辞書にありますが、食べることだけが食事ではありません。食べ物は目の前に突然現れてくるものではありません。つまり、食事とは料理して、食べることです。
 一番大事なことは、「料理すること」「きれいに整えて食べること」です。一汁一菜のようにシンプルなものでも、料理して食べることに意味があります。
  
 「料理する=すでに愛している、料理を食べる=すでに愛されている」です。子どもは生まれて大人になるまで、愛情をもらい続けて、絶対安心を持つのです。安心が器になって、初めて自信が持てるようになるものです。
  

  
 家庭料理は、家族の居場所をつくっているのです。食事はあらゆる経験の場になります。昨日の味噌汁と今日の味噌汁は、たとえ材料を同じにしたつもりでも、同じではありません。同じものは二度とできないところに、無限の経験をするのです。
 違いに気付くことが感性です。感覚所与(目や口などに与えられた第1次印象)を通じた経験の蓄積が、豊かな想像の源になるのです。
  
 食事とは、買い物→下ごしらえ→調理→お料理→食べる→片付け→買い物……の循環です。食べることに伴う行為の全てが「食事」です。この繰り返しが人生です。幸せは暮らしの中にあるでしょう。人から教えてもらえない経験、自ら暮らしの中で身に付けるしかない経験が、料理して食べるという暮らしにはあるのです。
 最近は、非認知能力教育なんていいますが、昔のように普通に暮らしていれば、ひとりでに身に付くことです。
  

■「作る人」と「食べる人」――親子のやりとり

  
 ――料理をすると、「作る人」と「食べる人」という関係性が生まれます。食事の経験は、親子のコミュニケーションにもつながりますね。
  
 コミュニケーションなんていわなくても、「料理して食べる」食事は、膨大な情報の交換がなされているのです。
 多くのコンビニの食べ物には「作る人」の顔がありません。誰が作ったのか、どんな気分で作ったかさえ分からない。ただあの味が好きか嫌いかで選んで、口の中に入れるだけです。コンビニ食では交換される情報は、ほぼありません。
  

  
 誰が作ってもいいのですが、親がご飯を作っていれば、子どもは親がどんな気持ちで作っているかが分かるでしょう。それは皆さんの仕事でも同じです。誰の仕事かを見れば、その人がどんな気持ちで仕事をしていたか、皆さんは分かることでしょう。
 出来上がった料理には、その人の気持ちが残っているのです。そうした経験を子どものうちからすることで、どれだけ優しい気持ちが持てることでしょう。
 他方、お料理をした人は、食べる人の様子を見ていれば、いろんなことが分かるでしょう。子どもたちが食べるその幸せそうな表情は、いつまでも見ていられると思います。幸せな気持ちになるものです。
 こうした料理する人と食べる人の間に、無意識のうちに膨大な情報が交換されているのです。これを毎日、繰り返し行うことになるのが料理の意味・意義なんです。
  
 料理の評価は、「おいしいか、おいしくないか」だけではありません。料理はいつも変化するものです。特に日本料理は、移ろう季節、食材の鮮度、作りたて、保存と発酵という瞬間を味わうのです。傷みかけた食材を食べたら、「やめとき。ちょっと傷みかけている」って、食べたものを口から吐き出す。
  

  
 いいことばかりが必要な経験ではなくて、悪いことも、おいしくないことも、経験しなければいけないのです。味の落ちたものは落ちたものなりに、食べる。そうした経験をたくさんすれば、食べる前から、見ただけでいいもの、悪いものを判断できることでしょう。それが目利きの始まりです。
  
 こうした経験から、子どもは多くのことを学び、身に付けます。作ったものを食べる、作って食べさせる、自分で作って自分で食べるという経験が、あらゆる物差しとなって、自分で判断できるようになるのです。「料理して食べる」ことは、自分で判断できること、つまり自立することです。
  

■一緒に食卓を囲めなくても

  
 ――「親子で一緒に食卓を囲むことの大切さ」がいわれますが、それが難しい家庭もあると思います。
  
 うちもそうでしたが、両親が働いている場合など、一緒に食べられないのは当たり前でしょう。でもそれが親が用意した料理なら、子どもは自分で温めて食べることができます。そこにも、料理する人と食べる人の関係はあるのです。
 食育といえば、一緒に食べることを第一に挙げる傾向がありますが、私はそうは思いません。一緒に食べることだけが大切ではないと思います。
  

  
 お弁当でも同じです。ちょっとしんどいなと思ったときでも、昼休みに学校や職場で、お弁当をぱっと開けたら、そこに家族があるわけでしょう。それは、無意識のうちに心を安心させてくれますよね。
 料理は味付けでも、手早さでも、おいしいことだけが大事なことではありません。現代人にとっては、その逆かもしれません。私たちの暮らしにはいろいろなことがあるのです。ご機嫌の悪い時、気分の優れない時もあるでしょう。
 外食や中食(テイクアウトなど)がいけないと言っているのではありません。料理して食べる暮らしの大事さを知っていれば、何とかなると思います。
  
 拙著『一汁一菜でよいという提案』の冒頭に、こう書きました。
  
 「いちばん大切なのは、一生懸命、生活すること。一生懸命したことは、いちばん純粋なことであり、純粋であることは、もっとも美しく、尊いことです」
  
 ※インタビューの㊦はこちらから読めます。
  

  
【プロフィル】
 どい・よしはる 1957年生まれ。料理研究家。「おいしいもの研究所」代表。十文字学園女子大学特別招聘教授。東京大学先端科学技術研究センター客員研究員。日本の伝統生活文化を現代に生かす術を提案。著書に『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫)、『くらしのための料理学』(NHK出版)など多数。
  

  
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