企画・連載

〈世界を結ぶ対話録〉第8回 池田先生がつづる ブラジル文学アカデミー アタイデ元総裁 2025年7月18日

差別は絶対許さない

「世界人権宣言」の起草に尽力し、ブラジル文学アカデミーの総裁を務めた、アウストレジェジロ・デ・アタイデ氏。池田先生との出会いの席で氏は、「これほど『会いたい』と思った人は、初めてです」と。先生が氏についてつづったエッセーを抜粋して掲載する。〈『私の世界交友録』読売新聞社(『池田大作全集』第122巻所収)から〉

 その人に会うために、私はブラジルに行った。(一九九三年二月)
 リオデジャネイロの空港に着くや、コロンビアの高地(標高二六〇〇メートル)から来たためか、空気が濃密な感じがした。午後九時であった。
 空港の貴賓室に入ると、その人がいた。“南米の良心”――ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁である。総裁は、まっすぐに私に近寄り、手を取ってくださった。
 「池田(SGI)会長、一緒に戦いましょう。力をあわせて、人類の歴史を変えましょう!」
 ◇ ◇ ◇ 
 総裁が待ちに待っておられたもの。それは、一切の差別なき「人権の世紀」の夜明けであった。
 人権という日本語が硬く、よそよそしい感じがするならば、万人への「優しさ」「人間愛」と言ったほうがよいかもしれない。
 ある青年は、幼稚園のころ、母親に路上で頰をたたかれたという。からだの不自由な人を指さして「ぼくは、あんなじゃなくて、よかった」と言ったからであった。
 「こんな子に育ててしまって情けない」。母親は、ぼろぼろ涙を流した。「お前が、そんなことを言われたら、どんな気持ちがするか」。少年は、たたかれた痛みよりも、母親の悲しみぶりがつらくて、泣き続けた。
 少年だけのことではない。日本人の心を象徴する話かもしれない。「自分さえよければ」――その心があるかぎり、差別と戦うどころか、差別の存在すら見えないであろう。ゆえに、人を傷つけている自覚さえない。
 学校でのいじめ、メディアの人権侵害、女性や老人への差別、地域差別、学歴主義、宗教への差別、在日韓国・朝鮮人やアイヌ民族の閉め出し。
 “身内”には温かく、“異質”に見える者は排除する。この島国根性は、どこまで根が深いのだろうか。そして、これほど人権の心――開かれた人間愛に遠いものもない。「人権」「人道」がわからないことは「世界」がわからないことである。
 総裁は言われた。
 「一国一民族のことではありません。人類全体の未来が問題なのです」
 ブラジルは大きな国である。総裁も大きな展望の方であった。あの爛々たる眼で、歴史の地平線の彼方まで見つめておられた。
 私の恩師(戸田城聖第二代会長)も、そういう方であった。恩師は十九世紀の最後の年(一九〇〇年)の生まれである。総裁はその二年前の生誕。恩師と同世代であり、ともに二十世紀を生き抜きながら、二十一世紀、二十二世紀をどうするかを考えておられた。
 「私は十代の終わりから、働き抜いてきました。しかし苦労したなどと思ったことはありません。ただただ命がけで仕事をしてきただけです」
 初め聖職者になる道を歩まれた総裁は、自由な考えを抑圧されることに反発し、新聞記者に。
 ジャーナリストとして、一生涯、書いて書いて書き続けてこられた。コラムだけでも五万本。七十年間、毎日平均二本という驚異的な歴史である。
 ただ民衆に「自由」をもたらすために。「生きる喜び」と「人間の誇り」をあたえるために。「人間よ、人間を苦しめるのをやめよ!」「私は差別を絶対に許さない」と。
 ◇ ◇ ◇ 
 総裁がブラジルの代表として、国連の「世界人権宣言」に尽力されたことは有名である。
 なぜ世界大戦が起きたのか。それは一人一人の人権が軽んじられていたからだ――この反省から計画されたのが人権宣言である。
 いわば、「人類の憲法」の序文ともいうべき宣言であった。歴史上、初の挑戦である。国も文化も思想・宗教も異なる人類全体が納得できるものでなければならない。当然のことながら、作業は難航した。
 「初めは何十人もの人々が意欲的に取り組んでいました。やがて仕事をする人が次第に減り、最後まで残ったのは、ほんの一握りの人になってしまいました。どんなに偉大な仕事でも、その意義は後になってみなければわからないのかもしれません」
 こうして不滅の三十カ条が採択された。第一条は、こうである。「すべての人間は、生まれながら自由で、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心を授けられており、同胞の精神をもって互いに行動しなくてはならない」
 ただの言葉ではなかった。一語一語の背景に、第二次世界大戦での数千万人もの犠牲がある。無数の涙がある。まさに血涙の叫びであった。
 あとは、この叫びをどう具体化していくかである。総裁の戦いは続いた。
 「二度と戦争を起こさないためには人間同士の関係を深めていくしかないのだ」「自由を守るには文化と教育によるしかないのだ」
 ゆえに私どもの文化・教育運動に共鳴された。
 「すべての人間のなかに“聖なるもの”を見る視点がなければ、“人間の尊厳”といっても思想の根っこがないことになる」
 ゆえに、万人に仏性を見る仏法哲学を賛嘆された。
 そして私との対談に意欲を示されたのである。
 しかし総裁は体調を崩しておられた。口述筆記を担当されていた秘書の方も「無理だと思う」と。
 「人類の宝」の博士である。健康になられるまで、いつまでもお待ちしますと、私は日本から伝えた。その伝言に、にっこりして言われたという。
 「感謝します。しかし私には時間がありません。すぐ始めましょう。私は、しゃべって、しゃべって、しゃべり抜きます。さあ人類の未来のため、二十一世紀のために語り継ぎましょう!」
 こうして毎週土曜日の午後、ご自宅の書斎で、総裁は、私の質問状に答えて語り始められたのである。
 ◇ ◇ ◇ 
 総裁は、荘厳に使命を果たされ、その後継を私どもに期待して亡くなられた。
 「SGIがある限り、人権の世紀は来ます。私は安堵しています」と。

 アウストレジェジロ・デ・アタイデ 1898年、ブラジル・ペルナンブコ州生まれ。リオデジャネイロ連邦大学卒業後、新聞記者となる。第3回国連総会にブラジル代表として参加し、「世界人権宣言」の作成に重要な役割を果たす。1959年、ブラジル文学アカデミー総裁に就任、死去まで続ける。著書に『苦い歴史』『アジサイの咲く頃』などがある。1993年死去。

交流の足跡

 「迫害を受けた者だけが、池田会長の価値を知るのだ」――アタイデ氏は語った。
 氏自身が「迫害を受けた者」だった。1930、40年代、氏は憲法を無視する独裁政権を真っ向から批判。3度の投獄、3年間の国外追放を受けた。だが、民衆運動を破壊する勢力に抵抗する最も有効な手段は“言論”であるとの信念で、正義の論陣を張り続けた。
 第2次世界大戦後、「世界人権宣言」の起草に尽力する。各国の意見が激しくぶつかり合う中、全人類の人権が永遠に保障される宣言の誕生に全精魂を注いだ。
 後に、世界人権宣言起草の功績をたたえ、フランスの法律家ルネ・カサン博士がノーベル平和賞を受賞した際、博士は「アタイデ氏と分かち合いたい」と語った。
 氏は友人を通して、池田先生の偉業を知る。75年1月26日に開催された第1回「世界平和会議」に、「親愛なる池田大作氏」と慶祝のメッセージを寄せ、創価学会の平和運動をたたえた。
 「平和を守る人々の精神力が働かなければ、平和を保つことはできません。この精神力を強化するために貢献するものこそ、人々の、国々からの忠実で継続的な支援を受けるに値するものです」
 その後も、トインビー対談などの著作を読み、創価の生命哲学に深い共感を抱いていく。先生のことを新聞のコラムにもつづった。
 92年1月、サンパウロで開かれた「自然との対話――池田大作写真展」に、氏は名誉実行委員として名を連ねた。同月18日、名誉実行委員会の席上、氏が総裁を務めるブラジル文学アカデミーから、先生への講演依頼が発表された。
 翌19日、先生は感謝と尊敬の意を込めて、長編詩「人権の大河よ 永遠に」を氏に詠み贈った。
 「私は/宣言を読み返すたびに/その行間に秘められた/あなたの/人間への限りない愛を感じる/邪悪なる権力に抗して/高らかに奏でる人間の讃歌を聞く」
 翌93年2月9日、先生はリオデジャネイロの国際空港に降り立った。氏は、94歳の老軀を顧みず、2時間も前から先生の到着を待った。体調を気遣う周囲は、別室で休むように勧めた。氏は語った。
 「私は、94年間も池田会長を待っていたのです。1時間や2時間は何ともありません」
 12日に行われたブラジル文学アカデミーでの講演。先生は、民族・地域紛争が激化する世界の問題に、「閉じた箱」「開いた箱」という考え方を通して論及。自民族中心主義が植民地主義やナチズムを肯定し、同様に人間中心主義が環境破壊をもたらした悲劇を指摘しつつ、「理解」「寛容」等の人間性を回復しなければならないと訴えた。
 二人は、書簡などを通して対話を続けた。先生との出会いから7カ月後、氏は生涯の幕を閉じる。その後も先生は、氏の家族と交流を重ねた。
 両者の語らいは、対談集『21世紀の人権を語る』として結実。発刊は、戸田先生の生誕95周年に当たる95年2月11日であった。
 対談集の「はしがき」は、氏が自らタイプライターで打ったものである。そこには、排外的な風潮が社会に広がりつつある現在の日本に警鐘を鳴らすかのように、こう記されている。
 「あらゆる偏見を取り除いた洗練された平等観というものは、宗教的感覚の妙なる法理に則るものであります。その平等観が最も民主的な原則として確立するとき、『世界人権宣言』は永遠不滅のものとなることでしょう」