初めてお会いしたのは、東日本大震災から約2週間後の宮城県でした。津波で被災した名取市立閖上中学校に勤めていた、宮本靜子さん(東北教育部女性部長/女性部副本部長)。「地震が起きたその日は、自分が初めて学年主任を務めた中学3年生の卒業式だったんです」。そう語りながら、生徒の名簿を手に安否確認に走っていた姿が、今も忘れられません。市内に立つ閖上中学校・慰霊碑には亡くなった14人の生徒の名前が刻まれています。震災から15年の今月11日、宮本さんは県内の中学校で「みやぎ鎮魂の日」の講話に臨みました。
(記事=大宮将之、写真=二階堂哲哉)
初めてお会いしたのは、東日本大震災から約2週間後の宮城県でした。津波で被災した名取市立閖上中学校に勤めていた、宮本靜子さん(東北教育部女性部長/女性部副本部長)。「地震が起きたその日は、自分が初めて学年主任を務めた中学3年生の卒業式だったんです」。そう語りながら、生徒の名簿を手に安否確認に走っていた姿が、今も忘れられません。市内に立つ閖上中学校・慰霊碑には亡くなった14人の生徒の名前が刻まれています。震災から15年の今月11日、宮本さんは県内の中学校で「みやぎ鎮魂の日」の講話に臨みました。
(記事=大宮将之、写真=二階堂哲哉)
■あの日あの時
■あの日あの時
「私には、3年間の学校生活を通して学んだことがあります。それは、自分が今まで当たり前だと思ってきたことは何一つ当たり前ではないということです」
2011年3月11日の卒業式。閖上中学校の卒業生代表は答辞でそう語ったという。まさか、わずか3時間後に、その言葉の重みを知ることになるとは――。
「あの日に起こったことを、そして未来に向けて伝えたいことを、今日は皆さんに話します」。宮本さんは、県内のある中学校の体育館に集まった、約500人の生徒に語り始めた。全員が震災後に生まれた世代である。
「私には、3年間の学校生活を通して学んだことがあります。それは、自分が今まで当たり前だと思ってきたことは何一つ当たり前ではないということです」
2011年3月11日の卒業式。閖上中学校の卒業生代表は答辞でそう語ったという。まさか、わずか3時間後に、その言葉の重みを知ることになるとは――。
「あの日に起こったことを、そして未来に向けて伝えたいことを、今日は皆さんに話します」。宮本さんは、県内のある中学校の体育館に集まった、約500人の生徒に語り始めた。全員が震災後に生まれた世代である。
――15年前、卒業式を終えた後、午後1時30分から閖上公民館の敷地内で保護者主催の「卒業を祝う会」が行われた。参加を希望した保護者と生徒が集う。着物姿で駆け付けた宮本さんがあいさつに立った。
48人の卒業生、一人一人の歩みを振り返る。学年全体としては名取市内で最少の生徒数。中学校総合体育大会や駅伝大会、宮本さんが副顧問を担った吹奏楽部のコンクールなどでは、人数が少ないゆえの困難があった。だからこそ、団結は強まった。多感な時期ゆえクラスに不協和音が流れたこともある。だが最後は全員で、最高の笑顔と時間を写真と心に焼き付けた。
宮本さんは言った。「みんなは、私にとって自慢の生徒たちです」
午後2時46分。テーブルの上の弁当箱や飲み物が飛んだ。立っていられない。嵐の海に揺れる船のよう。悲鳴。緊急ニュースを告げる携帯電話。保護者が叫んだ。「6メートルの津波が来る!」
――15年前、卒業式を終えた後、午後1時30分から閖上公民館の敷地内で保護者主催の「卒業を祝う会」が行われた。参加を希望した保護者と生徒が集う。着物姿で駆け付けた宮本さんがあいさつに立った。
48人の卒業生、一人一人の歩みを振り返る。学年全体としては名取市内で最少の生徒数。中学校総合体育大会や駅伝大会、宮本さんが副顧問を担った吹奏楽部のコンクールなどでは、人数が少ないゆえの困難があった。だからこそ、団結は強まった。多感な時期ゆえクラスに不協和音が流れたこともある。だが最後は全員で、最高の笑顔と時間を写真と心に焼き付けた。
宮本さんは言った。「みんなは、私にとって自慢の生徒たちです」
午後2時46分。テーブルの上の弁当箱や飲み物が飛んだ。立っていられない。嵐の海に揺れる船のよう。悲鳴。緊急ニュースを告げる携帯電話。保護者が叫んだ。「6メートルの津波が来る!」
■校舎に身を寄せ
■校舎に身を寄せ
「人生で一番長い一日でした」と、宮本さんが述懐する。静寂の体育館。講話を聞く生徒たちは、スクリーンに映し出された15年前の光景に息をのんだ。
「人生で一番長い一日でした」と、宮本さんが述懐する。静寂の体育館。講話を聞く生徒たちは、スクリーンに映し出された15年前の光景に息をのんだ。
――地震発生から1時間10分後。閖上中学校に戻っていた宮本さんは、目を疑った。濁流が押し寄せてくる。150人規模の学校に詰めかけた避難者は、800人超。教員たちが手分けして、3階の教室へ人々を誘導した。
日没。雪。校内のカーテンを引きちぎって毛布代わりとし、給食用の白衣などをかき集め、皆が暖をとれるようにした。赤ん坊もいた。理科室のアルコールランプで火をともし、ミルクを温める。母親は涙して、わが子の口にふくませた。
屋上に上がると、暗闇の中に火の手が見えた。隣にいた3年生が「俺んちの方です」とつぶやいた。両親があの中にいるかもしれない、と。宮本さんは言葉を失った。本当だった。
緊急事態を伝えるラジオ放送が校内に流れ続けた。震える体を、寄せ合った。「津波も怖かったけれど、それ以上に怖かったのは大人が誰もしゃべらずじっとしていたこと」――避難した生徒は後に、作文にそう書いている。
――地震発生から1時間10分後。閖上中学校に戻っていた宮本さんは、目を疑った。濁流が押し寄せてくる。150人規模の学校に詰めかけた避難者は、800人超。教員たちが手分けして、3階の教室へ人々を誘導した。
日没。雪。校内のカーテンを引きちぎって毛布代わりとし、給食用の白衣などをかき集め、皆が暖をとれるようにした。赤ん坊もいた。理科室のアルコールランプで火をともし、ミルクを温める。母親は涙して、わが子の口にふくませた。
屋上に上がると、暗闇の中に火の手が見えた。隣にいた3年生が「俺んちの方です」とつぶやいた。両親があの中にいるかもしれない、と。宮本さんは言葉を失った。本当だった。
緊急事態を伝えるラジオ放送が校内に流れ続けた。震える体を、寄せ合った。「津波も怖かったけれど、それ以上に怖かったのは大人が誰もしゃべらずじっとしていたこと」――避難した生徒は後に、作文にそう書いている。
夜が明けた。一人の女性が「宮本先生、お久しぶりです」と声をかけてきた。3年前に高校へ送り出した教え子だった。聞けばその日3月12日は、受験予定だった教育大学の後期入試だという。「私も宮本先生みたいな社会科の教師になりたくて……でも、もうダメです。家も流されたし、きっとお父さんも……」。宮本さんは首を横に振った。「大丈夫。大丈夫だよ」
自衛隊が救助に来た。12日夜、教員は避難者全員を見送ってから、泥だらけの中学校を後にした。
夜が明けた。一人の女性が「宮本先生、お久しぶりです」と声をかけてきた。3年前に高校へ送り出した教え子だった。聞けばその日3月12日は、受験予定だった教育大学の後期入試だという。「私も宮本先生みたいな社会科の教師になりたくて……でも、もうダメです。家も流されたし、きっとお父さんも……」。宮本さんは首を横に振った。「大丈夫。大丈夫だよ」
自衛隊が救助に来た。12日夜、教員は避難者全員を見送ってから、泥だらけの中学校を後にした。
市役所に臨時の職員室を設置。生徒の安否確認が始まった。現実は、あまりに過酷なものだった。
市役所に臨時の職員室を設置。生徒の安否確認が始まった。現実は、あまりに過酷なものだった。
■14羽の白いハト
■14羽の白いハト
今年の「みやぎ鎮魂の日」講話の前日。宮本さんは、閖上中学校・慰霊碑の前にいた。そばには、2018年に開校した小中一貫の閖上小中学校が立っている。
ここで、15年前に卒業した橋浦なぎささんと会う約束をしていた。「渡したいものがあるんだ」と。
二人は慰霊碑に合掌した後、14人の生徒の名前を、手のひらでなでた。一人ずつ、一人ずつ。
今年の「みやぎ鎮魂の日」講話の前日。宮本さんは、閖上中学校・慰霊碑の前にいた。そばには、2018年に開校した小中一貫の閖上小中学校が立っている。
ここで、15年前に卒業した橋浦なぎささんと会う約束をしていた。「渡したいものがあるんだ」と。
二人は慰霊碑に合掌した後、14人の生徒の名前を、手のひらでなでた。一人ずつ、一人ずつ。
遺族会の方々が「生きたくても生きられなかった子どもたちがいたことを、肌で感じてほしい」との思いで、触れやすい高さと形にしたという。
友達思いで、週刊少年ジャンプを欠かさず読んでいたバレーボール部の男子生徒がいた。子どもが大好きで、保育士になることを夢見て勉強に励んでいた女子生徒もいた。それぞれに、世界で一つだけの名前があり、人生の物語があった。
橋浦さんの手が止まる。同じ吹奏楽部だった後輩の名前だ。卒業式の前日に、「橋浦先輩へ」と、彼女がくれた手紙があった。式が終わってから読もうと大切にとっておいたが、自宅もろとも津波で流されてしまった。「何て書いてあったのかな」と今も思う。
宮本さんが「時間がかかってごめんね」と、白い封筒を取り出し、橋浦さんに手渡した。当時15歳だった橋浦さんが、卒業を前にして「未来の私に」宛てて書いた手紙である。
遺族会の方々が「生きたくても生きられなかった子どもたちがいたことを、肌で感じてほしい」との思いで、触れやすい高さと形にしたという。
友達思いで、週刊少年ジャンプを欠かさず読んでいたバレーボール部の男子生徒がいた。子どもが大好きで、保育士になることを夢見て勉強に励んでいた女子生徒もいた。それぞれに、世界で一つだけの名前があり、人生の物語があった。
橋浦さんの手が止まる。同じ吹奏楽部だった後輩の名前だ。卒業式の前日に、「橋浦先輩へ」と、彼女がくれた手紙があった。式が終わってから読もうと大切にとっておいたが、自宅もろとも津波で流されてしまった。「何て書いてあったのかな」と今も思う。
宮本さんが「時間がかかってごめんね」と、白い封筒を取り出し、橋浦さんに手渡した。当時15歳だった橋浦さんが、卒業を前にして「未来の私に」宛てて書いた手紙である。
他にも東京に行った修学旅行の感想文や「閖上の未来の漁業」と題したリポートまで。宮本さんは震災後の混乱の中で、自分が関わった生徒たちの思い出の品を探し出しては、一人一人に、そして遺族に、届けてきた。
橋浦さんが“15歳の私からの言葉”を目で追った。「負けないで」との思いを込めたエールがあった。さらに、「大好きな絵を今も描いていますか」といった問いかけもあった。
高校を卒業後、橋浦さんは芸術系の大学へ。現在は県内の企業に勤めている。
6年前の夏、絵が得意な橋浦さんに、宮本さんは一つのお願いをした。「本の表紙を描いてほしい」。閖上中学校の元教員たちが、逝いた14人との思い出を胸に、生徒と共に歩んだ震災からの日々をつづった記録である。
2021年2月に完成した一書のタイトルは「ゆりあげの空に」。海と空をつなぐ虹、天を翔ける14羽の白いハトが、橋浦さんの絵筆から生まれた。
他にも東京に行った修学旅行の感想文や「閖上の未来の漁業」と題したリポートまで。宮本さんは震災後の混乱の中で、自分が関わった生徒たちの思い出の品を探し出しては、一人一人に、そして遺族に、届けてきた。
橋浦さんが“15歳の私からの言葉”を目で追った。「負けないで」との思いを込めたエールがあった。さらに、「大好きな絵を今も描いていますか」といった問いかけもあった。
高校を卒業後、橋浦さんは芸術系の大学へ。現在は県内の企業に勤めている。
6年前の夏、絵が得意な橋浦さんに、宮本さんは一つのお願いをした。「本の表紙を描いてほしい」。閖上中学校の元教員たちが、逝いた14人との思い出を胸に、生徒と共に歩んだ震災からの日々をつづった記録である。
2021年2月に完成した一書のタイトルは「ゆりあげの空に」。海と空をつなぐ虹、天を翔ける14羽の白いハトが、橋浦さんの絵筆から生まれた。
■当たり前では
■当たり前では
「今日、皆さんに伝えたいこと――それは『今、生きていること』は当たり前ではない、これ以上大切なことはない、ということです」。講話の終盤、宮本さんの声が熱を帯びた。
“500人の生徒に向かって”というよりも、かけがえのない“あなた”に届けと、言葉を重ねた。「そして相手を思い、支え合う心こそが、復興の大きな力になりました」
「今日、皆さんに伝えたいこと――それは『今、生きていること』は当たり前ではない、これ以上大切なことはない、ということです」。講話の終盤、宮本さんの声が熱を帯びた。
“500人の生徒に向かって”というよりも、かけがえのない“あなた”に届けと、言葉を重ねた。「そして相手を思い、支え合う心こそが、復興の大きな力になりました」
震災のあの日から、どれだけの人がこの閖上中学校に真心を寄せてくれただろう。文具や教材、制服やバッグ、吹奏楽部で使う楽器や保護者向けの衣類まで。生徒たちは少しずつ前を向き、再起への一歩を踏み出すことができた。2011年の夏、吹奏楽部が県大会出場を果たしたことも忘れられない。
宮本さん自身、創価大学・関西創価高校時代の旧友たちからの励ましに、どれほど支えられたか。電話口で懐かしい友の声に触れ、胸のうちを聞いてもらうと心が落ち着き、勇気が湧いた。ある同級生からは毎年3月11日になると、「ずっちゃん(靜子さん)の生徒の皆さんに」と図書カードが送られてくる。古新聞の回収で得たお金で用意したものだという。
震災のあの日から、どれだけの人がこの閖上中学校に真心を寄せてくれただろう。文具や教材、制服やバッグ、吹奏楽部で使う楽器や保護者向けの衣類まで。生徒たちは少しずつ前を向き、再起への一歩を踏み出すことができた。2011年の夏、吹奏楽部が県大会出場を果たしたことも忘れられない。
宮本さん自身、創価大学・関西創価高校時代の旧友たちからの励ましに、どれほど支えられたか。電話口で懐かしい友の声に触れ、胸のうちを聞いてもらうと心が落ち着き、勇気が湧いた。ある同級生からは毎年3月11日になると、「ずっちゃん(靜子さん)の生徒の皆さんに」と図書カードが送られてくる。古新聞の回収で得たお金で用意したものだという。
――宮本さんは講話を結んだ。「自分の命、そして周りの方々の命も大切にできる人になってほしいと、心から願っています」
――宮本さんは講話を結んだ。「自分の命、そして周りの方々の命も大切にできる人になってほしいと、心から願っています」
■懸命に生きて
■懸命に生きて
この15年。宮本さんが胸に映じ続けた師の姿がある。
母校の創立者・池田先生は“当たり前を当たり前にしない”教育者だった。いつも「ありがとう」と言っていた。今日も学校に来てくれて「ありがとう」。キャンパスで元気な姿を見せてくれて「ありがとう」。生まれてきてくれて「ありがとう」――。
この人と会えるのは、今日が最後かもしれない。常にそう考えているからこそ、伝えずにはいられない。その創立者の心が、震災を経て宮本さんは、やっと分かった気がした。
あの日が最後だと知っていたら――大切な人を失った誰もが、思ったに違いない。
この15年。宮本さんが胸に映じ続けた師の姿がある。
母校の創立者・池田先生は“当たり前を当たり前にしない”教育者だった。いつも「ありがとう」と言っていた。今日も学校に来てくれて「ありがとう」。キャンパスで元気な姿を見せてくれて「ありがとう」。生まれてきてくれて「ありがとう」――。
この人と会えるのは、今日が最後かもしれない。常にそう考えているからこそ、伝えずにはいられない。その創立者の心が、震災を経て宮本さんは、やっと分かった気がした。
あの日が最後だと知っていたら――大切な人を失った誰もが、思ったに違いない。
今月11日、講話を終えた宮本さんは、閖上中学校の慰霊碑へ。卒業生も、駆け付けた。「教師になって頑張っています」「東京で美容師をやっています」「子どもが生まれました」。精いっぱい、今を生きていた。皆で14人へのメッセージを風船に書き、空へ放つ。「心はずっと一緒だよ。会えなくなっても、卒業しても」
今月11日、講話を終えた宮本さんは、閖上中学校の慰霊碑へ。卒業生も、駆け付けた。「教師になって頑張っています」「東京で美容師をやっています」「子どもが生まれました」。精いっぱい、今を生きていた。皆で14人へのメッセージを風船に書き、空へ放つ。「心はずっと一緒だよ。会えなくなっても、卒業しても」
翌日、講話を聞いた生徒の感想がまとまった。アンケートにも答えてくれた。「震災の様子などを誰かから“直接”聞いたことはありますか」。この質問に「ある」と答えた2年生の割合は68.9%、1年生は57.5%だった。
生徒たちは、率直な心情をつづっていた。
「震災のことを想像して胸が痛みました。でもだからこそ、今度は私が伝えていかなければと思います」
「僕も懸命に生きて、希望を与えられる存在になりたい。今日、新しい一歩を踏み出すことができました」
翌日、講話を聞いた生徒の感想がまとまった。アンケートにも答えてくれた。「震災の様子などを誰かから“直接”聞いたことはありますか」。この質問に「ある」と答えた2年生の割合は68.9%、1年生は57.5%だった。
生徒たちは、率直な心情をつづっていた。
「震災のことを想像して胸が痛みました。でもだからこそ、今度は私が伝えていかなければと思います」
「僕も懸命に生きて、希望を与えられる存在になりたい。今日、新しい一歩を踏み出すことができました」
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