創価学会の青年世代のリーダーと各界のオピニオンリーダーが語り合う連載「CROSS POINT」では、評論家の與那覇潤さんと創価学会青年部長の西方光雄さんが登場。「宗教者の政治参加」をテーマに意見を交わしました。
創価学会の青年世代のリーダーと各界のオピニオンリーダーが語り合う連載「CROSS POINT」では、評論家の與那覇潤さんと創価学会青年部長の西方光雄さんが登場。「宗教者の政治参加」をテーマに意見を交わしました。
“お祭り”すら個人化する社会
“お祭り”すら個人化する社会
〈西方〉7月7日に実施された東京都知事選挙では、SNSやAIなどを駆使した青年世代の候補たちが、これまで政治に無関心だった若者・無党派層に支持を広げ、話題を呼びました。今回の都知事選をどのように捉えておられますか?
〈與那覇〉「既成政党離れ」を指摘するメディアもありましたが、それはだいぶ前からの動向ですよね。むしろ私が今回強く感じたのは、“政党という概念”離れです。
もともと無党派層には、既成政党に違和感を抱く人が多く、平成期の新党ブームをもたらした。しかし今では、「そもそも政党って必要ですか?」という感覚を、若者を中心に多くの人が持っているのではないでしょうか。
高度経済成長期を経た日本は成熟社会を迎え、地縁や血縁といったつながりが薄れ、「個人化」が進みました。他人との関わりは煩わしいものとされ、自分が思うままに生きることを推奨されるようになった。その結果、今や、特定のコミュニティーに属することなく、一人で生きるライフスタイルが定着し、集団でアクションを起こすという発想が生まれづらくなっています。
動画をバラバラにスマホで見て盛り上がり、個々人で拡散する。リアルな演説会も各自のSNSにアップするのが目的だから、短く終わって仲間意識もなく解散。「選挙はお祭り」とよく言われますが、もはやその“お祭り”すら個人化しきった光景は衝撃でした。
〈西方〉こうした意識の変化は政治の世界に限ったことではないと思います。例えば、無宗教を自認する友人や知人と対話するなかで、宗教そのものに対する抵抗感よりも、「一つの集団に属する」ことへの抵抗感を強く持っている人が多いのではないかと感じています。
〈西方〉7月7日に実施された東京都知事選挙では、SNSやAIなどを駆使した青年世代の候補たちが、これまで政治に無関心だった若者・無党派層に支持を広げ、話題を呼びました。今回の都知事選をどのように捉えておられますか?
〈與那覇〉「既成政党離れ」を指摘するメディアもありましたが、それはだいぶ前からの動向ですよね。むしろ私が今回強く感じたのは、“政党という概念”離れです。
もともと無党派層には、既成政党に違和感を抱く人が多く、平成期の新党ブームをもたらした。しかし今では、「そもそも政党って必要ですか?」という感覚を、若者を中心に多くの人が持っているのではないでしょうか。
高度経済成長期を経た日本は成熟社会を迎え、地縁や血縁といったつながりが薄れ、「個人化」が進みました。他人との関わりは煩わしいものとされ、自分が思うままに生きることを推奨されるようになった。その結果、今や、特定のコミュニティーに属することなく、一人で生きるライフスタイルが定着し、集団でアクションを起こすという発想が生まれづらくなっています。
動画をバラバラにスマホで見て盛り上がり、個々人で拡散する。リアルな演説会も各自のSNSにアップするのが目的だから、短く終わって仲間意識もなく解散。「選挙はお祭り」とよく言われますが、もはやその“お祭り”すら個人化しきった光景は衝撃でした。
〈西方〉こうした意識の変化は政治の世界に限ったことではないと思います。例えば、無宗教を自認する友人や知人と対話するなかで、宗教そのものに対する抵抗感よりも、「一つの集団に属する」ことへの抵抗感を強く持っている人が多いのではないかと感じています。
〈與那覇〉同感です。より身近な例でいえば、職場での「飲み会離れ」とも相似形かもしれません。
精神科医の大平健さんは、1995年に出版した『やさしさの精神病理』(岩波新書)の中で、「やさしさ」という言葉の意味合いの変化に着目し、社会の個人化が人々の感覚自体を大きく変えたことを論じています。
学生運動が盛んだった1970年の前後は、他人が抱える傷や苦しみを想像し、他者に積極的に関わろうとする気持ちが「やさしさ」と呼ばれました。それが90年代には、「相手は相手」「自分は自分」として、他人の内面にはむしろ踏み込まないのが「やさしさ」の定義になった。
この「相手と自分」の線引きは、その後エスカレートし、SNSが定着した平成の末期には「相手に気を遣わずに、言いたいことだけを一方的に言えばいい」とする雰囲気が生まれました。著名人も含めて、バラバラの個人どうしがののしり合い、「嫌ならブロックすればいいだろう」と居直る例は後を絶ちません。今回の都知事選でも、そうしたやり取りが目立ちました。
〈西方〉「人は自由に生きた方が良い」という行きすぎた個人化は、もはや限界にきているといえる。むしろ、面倒くさい部分もありますが、顔を突き合わせて一緒に考えた方が、考えが極端にならず、お互いの意見がモデレート(穏健化)され、対立や分断も減っていく。
私たち創価学会の活動は、ある意味でその“面倒くさい”ことに積極的に関わっていくことだともいえます。
人と人との積極的な関わりの中だからこそ、さまざまな学びや成長も得られる。学会員の多くは、そうした面倒くささの重要性を体感としてつかんでいると思います。
〈與那覇〉同感です。より身近な例でいえば、職場での「飲み会離れ」とも相似形かもしれません。
精神科医の大平健さんは、1995年に出版した『やさしさの精神病理』(岩波新書)の中で、「やさしさ」という言葉の意味合いの変化に着目し、社会の個人化が人々の感覚自体を大きく変えたことを論じています。
学生運動が盛んだった1970年の前後は、他人が抱える傷や苦しみを想像し、他者に積極的に関わろうとする気持ちが「やさしさ」と呼ばれました。それが90年代には、「相手は相手」「自分は自分」として、他人の内面にはむしろ踏み込まないのが「やさしさ」の定義になった。
この「相手と自分」の線引きは、その後エスカレートし、SNSが定着した平成の末期には「相手に気を遣わずに、言いたいことだけを一方的に言えばいい」とする雰囲気が生まれました。著名人も含めて、バラバラの個人どうしがののしり合い、「嫌ならブロックすればいいだろう」と居直る例は後を絶ちません。今回の都知事選でも、そうしたやり取りが目立ちました。
〈西方〉「人は自由に生きた方が良い」という行きすぎた個人化は、もはや限界にきているといえる。むしろ、面倒くさい部分もありますが、顔を突き合わせて一緒に考えた方が、考えが極端にならず、お互いの意見がモデレート(穏健化)され、対立や分断も減っていく。
私たち創価学会の活動は、ある意味でその“面倒くさい”ことに積極的に関わっていくことだともいえます。
人と人との積極的な関わりの中だからこそ、さまざまな学びや成長も得られる。学会員の多くは、そうした面倒くささの重要性を体感としてつかんでいると思います。
〈與那覇〉宗教は定義の上からも、人間の内面に働きかける営みだから、面倒くさい関わりを手放せない。昔は地域や職場の共同体も同様だったのですが、それらが「個人のチョイス」次第になった結果、“面倒くささ”の担い手として以前より宗教が突出している。
先日、社会学者の開沼博さんが解説を担当した書籍『「外部」と見た創価学会の現場』(潮出版社)を拝読しました。一番胸打たれたのは、水俣での活動を描いた「『苦海』の不条理を越えて」の章です。
1950年代、工場の汚染物質が原因で発生した「水俣病」によって、地域社会は分断され、対立が深まりました。しかし創価学会の集まりの中では、水俣病の患者も、原因を作った企業で働く人も、行政の人も、信仰という共通点に立って一緒に話すことができた。「宗教」というつながりがなければ、そうした場は決して成り立たなかったでしょう。
〈與那覇〉宗教は定義の上からも、人間の内面に働きかける営みだから、面倒くさい関わりを手放せない。昔は地域や職場の共同体も同様だったのですが、それらが「個人のチョイス」次第になった結果、“面倒くささ”の担い手として以前より宗教が突出している。
先日、社会学者の開沼博さんが解説を担当した書籍『「外部」と見た創価学会の現場』(潮出版社)を拝読しました。一番胸打たれたのは、水俣での活動を描いた「『苦海』の不条理を越えて」の章です。
1950年代、工場の汚染物質が原因で発生した「水俣病」によって、地域社会は分断され、対立が深まりました。しかし創価学会の集まりの中では、水俣病の患者も、原因を作った企業で働く人も、行政の人も、信仰という共通点に立って一緒に話すことができた。「宗教」というつながりがなければ、そうした場は決して成り立たなかったでしょう。
〈西方〉創価学会は、「座談会」という地域ごとの少人数の集いを伝統的に全国各地で毎月開催しています。同じ信仰を実践しているというベースに加えて、日常からのつながりを通して、「何を話しても大丈夫」という「心理的安全性」が地域ごとに育まれているのは学会の強みだと思います。
〈與那覇〉今の社会が“適度な面倒くささ”の価値に気付く上で、宗教の果たす役割は非常に大きい。創価学会が一つのモデルを示して、面倒だからこそ得られる安心感を伝えてくれればと思います。
〈西方〉創価学会は、「座談会」という地域ごとの少人数の集いを伝統的に全国各地で毎月開催しています。同じ信仰を実践しているというベースに加えて、日常からのつながりを通して、「何を話しても大丈夫」という「心理的安全性」が地域ごとに育まれているのは学会の強みだと思います。
〈與那覇〉今の社会が“適度な面倒くささ”の価値に気付く上で、宗教の果たす役割は非常に大きい。創価学会が一つのモデルを示して、面倒だからこそ得られる安心感を伝えてくれればと思います。
宗教にすがらざるを得ない⁉
宗教にすがらざるを得ない⁉
〈西方〉本年は公明党結党60周年に当たります。公明党は「大衆とともに」を立党精神に掲げ、福祉・教育をはじめとする分野で多くの実績を残してきました。
私たち創価学会は、公明党への支援活動を通して、政治に関わり続けてきました。
そもそも日蓮大聖人は「社会の安穏」と「民衆の幸福」のため、社会に積極的に関わりました。時の権力者・北条時頼に提出した「立正安国論」には、「自分自身の安泰を願うならば、まず世の中の平穏を祈ることが必要ではないのか」(新44・全31、趣意)という一節がある。私たちが社会のためを思って政治に関わる原点もそこにあります。
〈與那覇〉創価学会の教義には、人は「本人だけ」では救われないとして、社会への関心が組み込まれていると。それは大変に意義のあることだと思います。
目下の日本では、自己啓発ばかりが説かれる裏で、誰もが周囲に敵対的になっている。政治の世界も同じで、立場が違うと対話すらできない。
宗教の本来の目的は「布教」です。排他的な原理主義の信仰でない限り、布教の前提には「初めは、異なる思想の人がいて当然」という認識のもと、他者にアプローチすることで徐々に味方にしてゆく柔軟さが備わっています。そうした宗教活動の基盤に根差した公明党だからこそ、政治の場にも排除や敵愾心ではなく、寛容の精神を広げていってほしいと、私は願っています。
〈西方〉本年は公明党結党60周年に当たります。公明党は「大衆とともに」を立党精神に掲げ、福祉・教育をはじめとする分野で多くの実績を残してきました。
私たち創価学会は、公明党への支援活動を通して、政治に関わり続けてきました。
そもそも日蓮大聖人は「社会の安穏」と「民衆の幸福」のため、社会に積極的に関わりました。時の権力者・北条時頼に提出した「立正安国論」には、「自分自身の安泰を願うならば、まず世の中の平穏を祈ることが必要ではないのか」(新44・全31、趣意)という一節がある。私たちが社会のためを思って政治に関わる原点もそこにあります。
〈與那覇〉創価学会の教義には、人は「本人だけ」では救われないとして、社会への関心が組み込まれていると。それは大変に意義のあることだと思います。
目下の日本では、自己啓発ばかりが説かれる裏で、誰もが周囲に敵対的になっている。政治の世界も同じで、立場が違うと対話すらできない。
宗教の本来の目的は「布教」です。排他的な原理主義の信仰でない限り、布教の前提には「初めは、異なる思想の人がいて当然」という認識のもと、他者にアプローチすることで徐々に味方にしてゆく柔軟さが備わっています。そうした宗教活動の基盤に根差した公明党だからこそ、政治の場にも排除や敵愾心ではなく、寛容の精神を広げていってほしいと、私は願っています。
〈西方〉しかし日本には、宗教が政治に関わってはいけないという風潮が根強い。特に一昨年7月に起こった安倍元首相の銃撃事件以降、そうした空気が強まりました。この事件の本質は一個人によるテロ行為であり、一部の政治家と反社会的活動を長年継続するトラブル団体の関わりの問題です。にもかかわらず、無理解からか意図的か「政治と宗教の関わり」全般の問題として取り上げられ、宗教そのものさえ否定するような的外れな言説も散見されました。
〈與那覇〉衝撃的な事件ゆえに、「宗教は危険だ」と決めつける人が出るのはしかたない面もあります。知識人や有識者は、そうした粗雑な一般化や、極論に傾く流れに「それは違うよ」と諭すのが、本来の役割のはず。それなのに、興奮して暴走する民意に「そのままでいいよ」とお墨付きをあげる識者ばかりで、あきれていました。
今後、人口減少が進む日本では外国人労働者の増加が不可避ですから、東南アジア出身のイスラム教徒はじめ、宗教人口は必ず増えます。「日本に住む人は無宗教だ」とは、もはや言えなくなる。にもかかわらず、メディア各社の宗教に対するリテラシーは低いまま。それこそが問題です。
〈西方〉しかし日本には、宗教が政治に関わってはいけないという風潮が根強い。特に一昨年7月に起こった安倍元首相の銃撃事件以降、そうした空気が強まりました。この事件の本質は一個人によるテロ行為であり、一部の政治家と反社会的活動を長年継続するトラブル団体の関わりの問題です。にもかかわらず、無理解からか意図的か「政治と宗教の関わり」全般の問題として取り上げられ、宗教そのものさえ否定するような的外れな言説も散見されました。
〈與那覇〉衝撃的な事件ゆえに、「宗教は危険だ」と決めつける人が出るのはしかたない面もあります。知識人や有識者は、そうした粗雑な一般化や、極論に傾く流れに「それは違うよ」と諭すのが、本来の役割のはず。それなのに、興奮して暴走する民意に「そのままでいいよ」とお墨付きをあげる識者ばかりで、あきれていました。
今後、人口減少が進む日本では外国人労働者の増加が不可避ですから、東南アジア出身のイスラム教徒はじめ、宗教人口は必ず増えます。「日本に住む人は無宗教だ」とは、もはや言えなくなる。にもかかわらず、メディア各社の宗教に対するリテラシーは低いまま。それこそが問題です。
〈西方〉自公連立政権は、1999年10月に第2次小渕改造内閣のもと始まりました。一時期は下野しましたが、連立は20年を超えています。
九州大学の藪野祐三名誉教授は、自公連立政権の公明党の役割について、「結党以来、平和と福祉の政党として自民党との対立軸を明確に打ち立てながら、野党時代を歩んできた経験があります。そしてその野党時代に培ってきた経験が、現在の連立政権のなかで“与党内野党”としての役割を担う際に生かされていると思います」(「第三文明」2023年12月号)と語っています。
コロナ禍をはじめ、ウクライナ紛争や物価高など、国内外にさまざまな課題が山積しています。「人類の分岐点」とも言える今、公明党には、創立者が示された「大衆とともに」との立党精神を忘れることなく、その手腕を発揮してほしい。
〈西方〉自公連立政権は、1999年10月に第2次小渕改造内閣のもと始まりました。一時期は下野しましたが、連立は20年を超えています。
九州大学の藪野祐三名誉教授は、自公連立政権の公明党の役割について、「結党以来、平和と福祉の政党として自民党との対立軸を明確に打ち立てながら、野党時代を歩んできた経験があります。そしてその野党時代に培ってきた経験が、現在の連立政権のなかで“与党内野党”としての役割を担う際に生かされていると思います」(「第三文明」2023年12月号)と語っています。
コロナ禍をはじめ、ウクライナ紛争や物価高など、国内外にさまざまな課題が山積しています。「人類の分岐点」とも言える今、公明党には、創立者が示された「大衆とともに」との立党精神を忘れることなく、その手腕を発揮してほしい。
〈與那覇〉私が懸念するのは、周囲と対話すらできないほど個人化が加速した結果として、人々の意識が「いま・ここ」に集中してしまっている点です。秒単位のショート動画を見て、それだけで投票先を決めてしまうのは、その典型といえます。
過去から現在に続く長い時間軸の中で、自分たちは今どこに位置するのか。その延長上に、どのような未来を目指すべきか。長期の時間感覚を見失い、瞬間的な情動やブームに流されていては、危機の中でもあおられ、過激な極論へと飛びつき、沈んでいってしまうでしょう。
冷戦下では近代化論や共産主義などのイデオロギーや、ナショナリズムが、人々に時間軸を伴ったビジョンを提供しましたが、今やその機能を果たせなくなっている。近代に宗教が衰弱して、世俗的な歴史観が代わりを務めたはずなのに、いつしか私たちは再び、宗教なしで歴史の感覚を得ることが難しい時代を生きているかのようです。
1964年の結党以来、公明党は日本では例外的な宗教政党として、少数派の自覚を保ちつつも、平成以降は政権与党として、政策の実現に存在感を示してきました。創価学会と公明党は、宗教政党であることに臆さず、「歴史を踏まえるからこそ」示せるビジョンを掲げてほしいと思います。
〈與那覇〉私が懸念するのは、周囲と対話すらできないほど個人化が加速した結果として、人々の意識が「いま・ここ」に集中してしまっている点です。秒単位のショート動画を見て、それだけで投票先を決めてしまうのは、その典型といえます。
過去から現在に続く長い時間軸の中で、自分たちは今どこに位置するのか。その延長上に、どのような未来を目指すべきか。長期の時間感覚を見失い、瞬間的な情動やブームに流されていては、危機の中でもあおられ、過激な極論へと飛びつき、沈んでいってしまうでしょう。
冷戦下では近代化論や共産主義などのイデオロギーや、ナショナリズムが、人々に時間軸を伴ったビジョンを提供しましたが、今やその機能を果たせなくなっている。近代に宗教が衰弱して、世俗的な歴史観が代わりを務めたはずなのに、いつしか私たちは再び、宗教なしで歴史の感覚を得ることが難しい時代を生きているかのようです。
1964年の結党以来、公明党は日本では例外的な宗教政党として、少数派の自覚を保ちつつも、平成以降は政権与党として、政策の実現に存在感を示してきました。創価学会と公明党は、宗教政党であることに臆さず、「歴史を踏まえるからこそ」示せるビジョンを掲げてほしいと思います。
プロフィル
プロフィル
よなは・じゅん 1979年、神奈川県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。公立大学准教授として日本近代史を教えた後、2017年に病気離職し、評論家に。『中国化する日本』『知性は死なない』(文春文庫)、『平成史』(文藝春秋)など著書多数。
にしかた・みつお 1984年、大阪府生まれ。創価大学卒。創価学会の学生部長、男子部長等を歴任。SGIユース共同代表として、本年3月に開催された「未来アクションフェス」では、実行委員会の一員として携わった。
●ご感想をお寄せください youth@seikyo-np.jp
よなは・じゅん 1979年、神奈川県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。公立大学准教授として日本近代史を教えた後、2017年に病気離職し、評論家に。『中国化する日本』『知性は死なない』(文春文庫)、『平成史』(文藝春秋)など著書多数。
にしかた・みつお 1984年、大阪府生まれ。創価大学卒。創価学会の学生部長、男子部長等を歴任。SGIユース共同代表として、本年3月に開催された「未来アクションフェス」では、実行委員会の一員として携わった。
●ご感想をお寄せください youth@seikyo-np.jp