デジタル企画

「性的マイノリティー」――差別は思いやりでは解決しない LGBT法連合会事務局長 神谷悠一さん 2023年3月4日

【電子版連載】〈WITH あなたと〉 #SOGI(性的指向と性自認)

 SNSの発信から職責ある立場の人の発言まで、今、社会で生きている性的マイノリティーの人を平気で差別してしまう物言いが絶えない。
 言葉の持つ力と可能性について、「LGBT法連合会」事務局長の神谷悠一さんに話を聞いた。(取材=宮本勇介、橋本良太)

■「やった感」だけが残る日本の状況

 ――近著のタイトルで「差別は思いやりでは解決しない」と掲げた理由について教えてください。

 大学教員として、LGBTQ(※)などの性的マイノリティーの課題に関する学生のレポートを採点した際、「相手を傷つけないように、これからは思いやりを持って優しくしていきたいと思います」という感想によく出合いました。
 自治体の講座や企業研修などのアンケートでも同様です。それぞれ、多い時では8割ぐらいを占めています。

 優しく接していこうと感じたその思い自体は、大切なものです。ただ、心持ちの問題で解決するならいいのですが、そんなことはないのも事実です。

 2000年代前半から、社会の認知が広まってきて、LGBTという言葉を知っている人はすごく増えてきました。しかし、「この言葉の意味することは何ですか?」と聞くと、それまで上がっていた手は下がってしまいます。「生活上、何に困っているか知っていますか?」という話になると、ほとんどいないのが実情です。

 同じ現代の課題でも、例えば、育児の話であれば、「こんなことに困っています」「もっとこうしたらいいと思います」といった、具体的な意見が出たり、共有されたりしやすい。
 けれども、性的マイノリティーの課題になると、想像が及びにくいのか、「思いやりを持ちます」「傷つけないようにします」などといった結論になりやすいんです。

 課題を前にして、実際には何も進んでいないにもかかわらず、「思いやり」という言葉だけが幅をきかせ、何かを「やった感」「やっている感」だけが残るという状況が日本にはあります。

 どうしたら「思いやり」という抽象的な言葉で終わらずに、困りごとの解決に向けて具体的にアプローチできるようになるのか。その部分を示していかなくてはならないという思いから「差別は思いやりでは解決しない」という言葉が自然と湧いてきました。

 (※)LGBTQ:レズビアン(Lesbian 女性同性愛者)、ゲイ(Gay 男性同性愛者)、バイセクシュアル(Bisexual 両性愛者)、トランスジェンダー(Transgender 生まれた時に割り当てられた性別と性自認が異なる人)、クエスチョニング(Questioning 自身の性のあり方について特定の枠に属さない人、分からない人、決めていない等の人)、クィア(Queer 規範的とされる性のあり方以外を包括的に表す言葉)

■「薄氷の上を生きている」

 ――性的マイノリティーの当事者が抱える問題について、詳しく教えてください。

 私の実体験を伝えた方がエピソードとしてはいいですかね。私は4人、自死で友達をなくしています。
 ある日突然、一番仲の良かった友達の訃報を知らされました。一時期、性的マイノリティーの支援団体でも一緒に活動していて、亡くなる3日前まで会って、2日前までLINEをしていたんですが、自死を知ったのは、死後2週間以上たってからでした。

 会社での差別やいじめが激しくて、最後はヘリウムを使って亡くなったそうです。残された封筒の裏に、筆ペンでゲイバーの電話番号と「連絡してください」との文字が書かれていました。バーのマスターも葬式の連絡を知り合い全員にはできないので、結局、人づてに「死んだの知らないの?」という話を聞きました。

 性的マイノリティーの当事者同士は、差別や偏見があるので、学校や職場など、社会的な地縁とかではつながれない。ほそぼそとSNSやインターネットを使ってやりとりするしかないので、亡くなっても、連絡はこないんですね。

 その友達の葬式も、とうに終わってから、お線香だけあげに行きました。その時に知ったんですが、お母さんは本人からカミングアウトされていたけれども、お父さんはカミングアウトされていなかったんです。
 びっくりしたのは、友達が写っている写真を渡そうとしても、お母さんは受け取りたいんだけれども、お父さんは現実が受け入れられない状況で。家族の中がもうぐちゃぐちゃで、分断された状況になっていました。

 若い当事者の方から、「ふとした瞬間、この人と連絡が取れないとなった時、“死んじゃったのかな?”と心配せざるを得ない状況って、尋常ではないですよね」と、言われて再認識しました。当事者の人たちは、薄氷の上を生きているんです。
 もっとこう、言い表せる言葉があるといいと思うんですけれど、そういう危うげな状況が「当たり前の日常」になってしまっている。やっぱりそれは、ちょっとおかしいんじゃないかと思います。

■同性パートナーと家探しをすると……

 ――著作の中でも、カミングアウトされてない方の話で、「お前、週末どうしてたんだよ?」と社内で聞かれても、なかなかプライベートのことが伝えにくいとありました。こうしたストレスって、どのぐらいなんでしょうか。

 体質もあるとは思うんですが、私の場合は、飲み会にいくと、すごい肩がこって、頭が痛くなるんです。それは特にカミングアウトしていない時です。話題を選んだり、“こう誘導しなきゃ”とか、いろいろ考えたりしないといけない。
 ずっとガードしたまま、どの話題にいくか、予測しながら先回りしてしゃべるので、緊張がすごいんですよね。

 同性パートナーと家探しをすると、一つの不動産屋で2、3件しか出てこないというケースがあります。同性パートナーシップの制度のある地域だったので、「なんでですか?」と不動産屋に聞くと、「大家さんが断るからほとんどの物件は出せません」と言われるわけです。
 だから、本当に少ない選択肢で選ぶことになるのですが、選んだら選んだで、今度は「パートナーシップ制度を取っていただかないとダメなんです」と言われるので、“引っ越し婚”をした経験があります。二重三重にも、いろいろなことが、降りかかってくるんです。

 一橋大学の宮地尚子教授は、こういうマイノリティーのトラウマを、“真綿で絞めつけるようなトラウマ”と表現しています。
 一気にガッと首を絞めつけるんじゃなくて、ちょっとずつちょっとずつ絞めて、苦しめていくようなものだと。本当に、言い得て妙だと思います。

 私たちLGBT法連合会は、性的マイノリティーの困難リストをホームページで無料公開しています。9分野354項目になります。
 本当にゆりかごから墓場まで、“つまずきの石”が、あらゆるところにあるのが分かると思います。よかったらご覧になってみてください(「LGBT困難リスト」はこちら)。

■「人権=思いやり」ではない

 ――振り返ると、自分も「思いやり」という言葉を多用していたように思います。思いやりと言えば、収まりがいいというか。しかし、収まりがいいということは、問題は山積しているのに、考えることを半ば放棄してしまうことになってしまうんですね。

 「思いやり」というものを、少し立ち止まって考えてみましょう。
 差別というのは、人権問題です。人権というのは、「かわいそう」でなかったとしても、「気に食わない」としても、皆が有しており、享受できるものです。
 しかし、なぜかジェンダーやLGBTの問題になると、人権の話ではなく、「優しくしよう」「傷つけないようにしよう」という、心持ちの話になってしまうところがあります。自治体でも、“優しさと思いやりの人権の街”と書いてあるなど、人権と「思いやり」を同義のように捉えているメッセージが社会の中で氾濫しています。
 すると、どういったことが起きるのか。人権を主張すると、「上から目線じゃないか」とか、あるいはそれが転じて「えこひいきになるんじゃないか」とか、およそ人権というものとは相反する言説が出てきてしまう。

 ですから、私は、差別というものは思いやりではなくて、ユニバーサル(普遍的)な基盤となるような制度で解決していくべきではないかと訴えているんです。

■言葉を定義すると行動が変わる

 ――法制度が整うことで、人々の認識はどう変わるのでしょうか。

 1985年(昭和60年)に男女雇用機会均等法ができる前は、女性が民間で正社員になろうと思ったら、容姿端麗か縁故があるか、つまり「美人」か「コネ」がないと就職できませんでした。
 均等法ができて、曲がりなりにも女性で総合職の正社員が誕生して、内実はいろいろあるんですけれども、やっぱりガラッと風景が変わったんです。

 そして、セクハラについても、1997年(平成9年)の法改正で、セクハラ対策が法的に位置付けられました。
 それまでは、労働省(現・厚生労働省)の調査で「セクハラはどうしたらいいですか?」と女性たちに聞くと、「女性が毅然とすることが大事だ」と答えていました。何となく嫌で違和感があったけれど、耐えるべき当然のことだから仕方がないとされる時代があったわけです。
 法制度が整うということは、課題が可視化するということでもあります。名前がつかないと、嫌でも我慢しなきゃいけないのかなと思ってしまう。

 私たちも見習って、“ホモネタ”“レズネタ”“おかまネタ”みたいな話を、「SOGI(ソジ)ハラ」と名付けて、ハラスメントの法律をつくることに尽力しました。
 そうすることで、企業は変わりました。研修を行い、ハラスメントについて知っていかなければいけないと。「プライベートな性の話でしょ」だったのが、「人事労務上の課題なんだ」というように認識が転換されたんです。

■「大したことない」「そっとしておいてほしい」

 ――先ほどのご友人の自死の話もそうですが、「自分が生きていていいんだ」という、よって立つ根拠が、言葉として認められることの意義が分かりました。

 「言葉をわざわざ定義しなくてもいい。そんな大したことじゃないじゃん」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 けれど、社会の規範の中で、自分たちが生きていていいんだとか、差別されないんだとか、やっぱりそういうことがないと、ラッキーな部分、「学校の先生が優しくしてくれた」みたいなレベルに、まだまだすがらざるを得ないんです。

 全国津々浦々にまで、「自分たちは尊重されていいんだ」ということが共有されるのは、当事者を救うことになるし、やっぱり当事者の人生において基盤の厚みを増すことに貢献するんだろうなと思います。

 ――マジョリティー側がそれを「大したことない」という理由は、自分たちが常に規範によってもしくは言葉によって守られていることを自覚していないからだとも思います。一方で、性的マイノリティーの当事者の中で、法制度の整備など、当事者にフォーカスを当てずに“そっとしておいてほしい”と感じる方もいることも知りました。

 そもそも、制度で救済されるということが日本でほとんどなかった分野ですので、“救済されるって、なんか怖いことが起きるんじゃないの?”と、まず不安が先にくることがあると思います。
 それに加えて、“毎日、こんなに我慢してきた自分がいるのに、それを否定することになるのではないか”という感情もあるでしょう。たしかに、個人の事情としてはそうだと思うんですが、その人が耐えられても、他では困っている人がいる。ならば、当事者全体の人権について道を開いていく、という考えがとても重要だと思います。

■実態を正しく認識しよう

 ――性的マイノリティーや同性婚の在り方をめぐって、首相秘書官が「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」などと発言して更迭されました。このほかにも、性的マイノリティーの法制度が整うことで、「銭湯や温泉などが経済的に良くない影響を受ける」といった言説が出て、それに振り回されている人たちがいる。そのあたりをどう見られますか。

 まず、前首相秘書官のあの差別発言は、単純に、「もういい加減にしてくれよ」と思いますよね。
 「経済的な打撃を受ける」など、ある種の「フェイクニュース」のような一群ができてしまっていることも事実です。
 
 例えば、生まれた時に割り当てられた法律上の性別は男性で、性自認は女性である「トランスジェンダー女性」が、女性用のトイレや更衣室、浴場を使うことに対して、「女性のスペースにトランスジェンダー女性が入ってくることは性暴力につながる」といった言説が見受けられます。
 トランスジェンダーをあたかも犯罪者予備軍であるかのように捉える人が一定数存在するようです。

 しかし、こうした言説は、トランスジェンダーの実態を捉えたものとはいえません。
 まず、企業によっては既に女子トイレ等を利用しているトランスジェンダー女性はいます。そして、トランスジェンダーの当事者は、自分が生きたい性別と、周囲からどの性別で認識されているかの差異を敏感に感じ取りながら生きている人が多く、不審に思われることを心配し、むしろ望むトイレの利用を自制し、困難を感じている人もいます。

 もちろん、トイレや更衣室、浴場等での性暴力や盗撮などは問題であり、しっかりと対処していく必要があります。しかし、それは加害者のアイデンティティーが何であれです。
 たとえその人がトランスジェンダーであっても、シスジェンダー(出生時に割り当てられた性別に違和感がなく性自認と一致し、それに沿って生きる人のこと)であっても、異性愛者であっても、同性愛者であっても許されるものではありません。
 ですから、トランスジェンダー女性が既存の女性スペースを利用できるようになることが性暴力につながるというのは、あまりに論理が飛躍しているのではないでしょうか。トランスジェンダー女性がどのように生きているかの実態を認識してもらう必要があると思います。

■全ての人に関係する「SOGI」

 ――LGBT法連合会が作成した「LGBTQ報道ガイドライン」は、報道の現場だけでなく、企業の広報やSNSの情報発信の際にも活用できると思います。性のあり方について、四つの要素に分けて整理していますね。

 ①法律上の性:出生時に割り当てられた性別をもとに戸籍等に記載された性別

 ②性自認(Gender Identity):自分の性別をどう認識しているか
 
 ③性的指向(Sexual Orientation):恋愛感情や性的な関心がどの性別に向いているか、向いていないか

 ④性別表現(Gender Expression):服装や髪型、言葉遣い、しぐさ等、自分の性別をどう表現するか


 
 「法律上の性」とは、出生時に身体、性器の形などから、医者に「女の子ですね」「男の子ですね」と言われ、それが役所に届け出をされて、法律上、女性か男性に割り当てられる性別をいいます。

 「性自認」は、「自分のことを女性だと認識している」「男性だと思っている」「男女どちらでもない生き方をしたい」などのアイデンティティーで、そのあり方はさまざまです。

 「性的指向」は、自分の恋愛や性愛の感情がどの性別に向くか、向かないかという要素です。同性に向く人もいれば、異性に向く人もいる。両方に向く人も、どちらにも向かない人もいます。

 「性別表現」は、社会的にどう振る舞うかというもので、例えば「俺」「僕」「私」といった一人称や、スカートやパンツスタイルといった服装について、どのような性別の表現を行っているか、というものです。

 この四つの要素から捉えることによって、人間の「性の多様性」について考えられると思います。
 このうち、性的指向(Sexual Orientation)と性自認(Gender Identity)の頭文字をとった「SOGI(ソジ)」、性別表現(Gender Expression)を加えて「SOGIE(ソジー)」という言葉が用いられることもあります。
 SOGI(SOGIE)は、性的マイノリティーだけでなく、全ての人に関係する属性や特徴といえます。

■「性はスペクトラムである」

 ――異性愛の人も、SOGIで捉えるなら、「自分の性的指向は異性に向いている」と考えていけますね。“自分も多様な性の内の一人なんだ”と。性別は男女の二つではなく、双方の特性を持つグラデーションとみる「性はスペクトラムである」という概念も著作の中で紹介されていました。

 2000年代から、性教育の文脈で、多様な性が紹介される際に、「性はスペクトラム」という表現が出てくるようになりました。人間の性のあり方は、本当に千差万別で、それがスペクトラムのように配置されているんですね。

 特に、Xジェンダー(自認する性別が男女どちらでもない、どちらとも言い切れない人。あるいはいずれにも分類されたくない人。英語圏では主に「ノンバイナリー」や「ジェンダークィア」といった言葉が使われている)の人というのは、男女二元論ではとても表せないので、そうした議論が不可欠です。

 北欧やカナダでは、「性がスペクトラム」と考えることが当たり前になっています。今の日本では、「日常会話の中で、どんな言葉で接すればよいだろう」と思う段階かもしれませんが、先進国では別に意識しなくても、成立する状況になってきました。そうした現実を見ていると、日本社会でも変化が訪れるんじゃないかと思うんです。

■見える風景は変わってきている

 ――今の子育て世代を見ていると、かつての父性みたいなものとは違ったもの、母性に近いものを獲得していると感じます。その親世代、いわゆる「男らしさ」を突っ走ってきた世代であっても、孫育てや介護に携わる中で、これまでの伴侶への感謝とか、「男らしさ」から違う自分を見つけ出したという話も聞こえてきます。性のあり方の議論と、育児・介護を通した現象というのは、地続きの話だと考えてもよろしいでしょうか。

 そうだと思います。男性学の田中俊之さんなどが指摘していますよね。1970年代は「男は黙ってでんと座っているもの」だったと。

 それが90年代、テレビ番組の影響もあってか、「料理する男子がかっこいい」となりました。そして、「料理する男子かっこいい」から、今では「家事・育児をする男性」のように望まれる男らしさが変わってきていますよね。
 料理を作らない人も、もちろんいると思いますけど、料理する男性の人口は明らかに増えました。抱っこひもで赤ん坊を抱っこしている男性も街で見かけますし、だいぶ風景は変わりました。それと同じように、性的マイノリティーの理解も、少しずつ浸透してきていると思います。

■冷静に状況整理をするところから

 ――「性はスペクトラムである」という概念が広く共有される社会を想像してみたりもするのですが、いかがですか。

 そうですね。少なくとも、識者やオピニオンリーダーと呼ばれる発信力のある人が、冷静に整理ができるような環境を整えるというのが、まず第一段階でしょう。
 今は、自分たちの偏見や差別に気がつかず、もしくはそれを認められずに、「私は差別していない」という矛盾した話になってしまっている。そこに付け込んで、より混乱を助長させようとしている人たちがいるという段階だと思うんです。

 自分たちのおかれた状況や構造、規範との関係性を整理して、その上で、「性はスペクトラムなんですよ」と発信してもらいたいですね。その積み重ねによって、多くの人たちも、自分たちで考えを深めて、SNS等で発信していくんだと思います。そうすれば、社会の風景というのは、かなり変わるんじゃないかと期待しています。

【プロフィル】
 かみや・ゆういち 1985年、岩手県生まれ。早稲田大学教育学部卒、一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。LGBT法連合会事務局長、内閣府「ジェンダー統計の観点からの性別欄検討ワーキング・グループ」構成員、兵庫県明石市LGBTQ+/SOGIE施策アドバイザー。これまでに一橋大学大学院社会学研究科客員准教授、自治研作業委員会「LGBTQ+/SOGIE自治体政策」座長を歴任。近著に『差別は思いやりでは解決しない ジェンダーやLGBTQから考える』、共著に『LGBTとハラスメント』がある。

●後記
 “言葉を定義すると行動が変わる”との神谷さんの話が、印象深かった。差別を受けて苦しんできた人々の存在を認め、直面している困難を、社会の共通了解とすること――法律はもとより、日常会話の在り方も含めて、「言葉を学ぶ」ことが、当事者と歩む第一歩となる。
 いや、「性はスペクトラム(連続体)である」との概念を学んだ今ならば、「当事者と歩む」という表現自体にも、語弊があるというべきなのかもしれない。
 “性別は男女の二つではなく、双方の特性を持つグラデーション”という概念が社会に浸透していけば、社会の全員が性の在り方について「当事者」になるからだ。そうなれば、LGBTQ、SOGIに関して社会に提起された課題について、マジョリティーとマイノリティーを分ける境界線がなくなる未来も、展望できる。
 しかし、一足飛びで、その未来が訪れるわけではない。記事で紹介した「LGBTQ報道ガイドライン」には、「新たな言葉や概念が普及すると同時に、新たな課題が浮上し、使われる言葉の移り変わりもみられてきています」とある。課題と向き合い、適切な言葉を紡ぐ積み重ねの先に、差別を解決する未来がある。
 メディアに携わる一人として、責務を胸に刻み、適切な発信を重ねたい。

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